カイの指先は、まるで年老いた賢者のように、乾いた羊皮紙の上を静かに滑っていた。祖父から受け継いだ工房は、古書のインクと埃の匂いが混じり合い、時間の流れが止まったかのような静寂に満ちている。彼は古地図の修復師。破れ、色褪せた世界の断片に、再び命を吹き込むのが仕事だった。
ある雨の午後、祖父の遺した古い木箱の底から、カイは一枚の奇妙な地図を見つけた。それは他のどの地図とも違っていた。大陸も海も描かれておらず、ただ、渦を巻く風のような線と、意味をなさない記号、そして中央に埋め込まれた小さな水晶が鈍く光っているだけ。隅には、祖父のかすれた文字でこう記されていた。『風詠みの谷にて、歌は道となる』。
カイの胸の奥で、埃をかぶっていた冒険心という名の羅針盤が、かすかに震えた。祖父が追い求めた伝説の場所。知識だけを蓄えてきた自分に、それを見つけられるだろうか。答えは否。彼は工房を飛び出し、冒険者たちが集う酒場へと向かった。目当ては、腕利きの「運び屋」として名を馳せる女、リナだった。
「風詠みの谷? おとぎ話ね」。赤銅色の髪を無造作に束ねたリナは、カイの話を鼻で笑った。「そんな絵空事に付き合うほど暇じゃないの」。
カイは臆することなく、革袋から鈍い輝きを放つ希少鉱石をテーブルに置いた。「前金だ。成功報酬は、これの十倍」。
リナの目が、猫のように細められた。「……話だけは聞いてあげる」。
小型の蒸気飛空艇「エアスキッパー号」は、唸りを上げて雲海へと飛び出した。眼下には緑の絨毯が広がり、やがて地図が示す未知の空域へと入っていく。
「来たわよ、浮遊岩礁地帯!」。リナが叫ぶ。大小様々な岩の島が、気まぐれな巨人のように漂っている。カイは操縦桿を握るリナの隣で、地図と睨めっこしていた。
「右舷十五度! 三秒後に強い上昇気流が来る!」。カイは風の流れを読み、叫んだ。リナは舌打ちしながらも、彼の言葉通りに舵を切る。船体は岩をかすめ、巧みに上昇気流に乗った。カイの知識とリナの技術。ちぐはぐな二つの歯車が、この時初めて噛み合った。
空賊の襲撃という危機も、カイが蒸気機関の圧力を利用して濃霧を発生させ、リナがその隙に全速力で離脱するという連携で切り抜けた。互いの背中を預けるうちに、金で繋がっただけの関係は、徐々に信頼という名の強い絆に変わっていった。
旅を続けるうち、カイは地図の謎を解き明かす。記号は古代の星座の配置を示しており、特定の時刻、太陽光が地図の水晶を透過すると、進むべき方角が光の筋となって現れるのだ。そして、祖父の言葉『歌は道となる』。カイは祖父の遺品の中に、奇妙な音叉があったことを思い出す。これこそが「歌」の正体ではないか。
光が指し示した先には、巨大な滝が轟音と共に流れ落ちていた。行き止まりだ。誰もがそう思うだろう。だが、カイは確信していた。彼はリュックから音叉を取り出し、そっと打ち鳴らした。キィン、と澄んだ音が響く。すると、滝の轟音が嘘のように割れ、水流の裏にぽっかりと洞窟の入り口が現れた。
「……あんた、本当にただの地図屋?」リナが呆気にとられたように呟く。カイは誇らしげに笑って見せた。
洞窟の先は、別世界だった。風が、渓谷に林立する無数の結晶柱に吹き当たり、まるで壮大なオーケストラのように神秘的な音楽を奏でている。ここが「風詠みの谷」。
谷の中心には、蔦に覆われた巨大な古代の機械装置が鎮座していた。カイが恐る恐る装置に触れた瞬間、脳内に祖父の想いが流れ込んできた。彼はこの気候制御装置を再起動させ、荒廃していく大地を救おうとしていたのだ。しかし、最後の鍵が見つからず、志半ばで谷を去った。未来の誰かに、その意志を託して。
「じいさん……」。カイの目から涙がこぼれた。最後の鍵。それは、彼が今手にしている、この音叉だった。
カイは装置の中央にある窪みに、導かれるように音叉を差し込んだ。その瞬間、谷の音楽が頂点に達し、装置が青白い光を放ちながら再起動を始める。風はより一層清らかで力強い歌となり、空を覆っていた分厚い雲が晴れていくのが分かった。
祖父の夢を、自分が完成させた。カイの全身を、今まで感じたことのない達成感が満たした。
「たいしたもんじゃない、カイ」。隣で空を見上げていたリナが、満足げに笑った。その笑顔は、どんな報酬よりも輝いて見えた。
工房に戻ったカイの壁には、今や空白一つない、完成された「風詠みの谷」の地図が誇らしげに飾られている。彼はもう、インクと埃の匂いに埋もれるだけの修復師ではなかった。
ある晴れた日、工房のドアが勢いよく開いた。
「よう、冒険家」。そこに立っていたのは、ニヤリと笑うリナだった。彼女は一枚の、さらに古く、謎めいた地図をカイの机に広げる。「次の仕事よ。今度は『沈黙の海底神殿』。どうする? またあんたの知識を貸してもらうわよ」。
カイは顔を上げた。その目には、かつての臆病な光はなく、未知への好奇心と喜びが満ちあふれていた。彼は笑って、その地図を受け取った。二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。
風詠みの谷と始まりの地図
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