人生で最も重要なプレゼンを明日に控えた男がすべきこと。それは、万全の体調管理だ。俺、田中健一(35歳、営業部)はそう信じ、早めに帰宅し、栄養ドリンクを飲み干し、完璧に仕上げたプレゼン資料を最終チェックしていた。その時だった。
「へ、へ、へっ……ハックション!」
ホコリと緊張が鼻腔をくすぐり、天地がひっくり返るような盛大なくしゃみが出た。目を開けて、俺は我が目を疑った。視界が妙に低い。そして、目の前には、椅子に座ったまま白目をむいて「ブゥーン…」と静かに首を振る俺自身がいる。
パニックに陥る俺の視界の端に映ったのは、銀色に輝く三枚の羽根。まさか。俺は今、机の上に置かれた卓上扇風機になっているのか?
「おい!俺だ!起きろ!田中健一!」心の中で叫ぶが、俺の体から発せられるのは「カチッ」というスイッチ音と、風量の変化だけだ。どうやら俺(扇風機)は、首を振り、風量を三段階で調節できるらしい。それが俺にできる全てだった。
一方、俺の体に入った何者か――おそらく扇風機の魂――は、ただひたすらに「涼」を追い求める存在と化していた。俺の体はやおら立ち上がると、窓を全開にし、仁王立ちで夜風を浴び始めた。「気持ちイイ風…モット…」と呟いている。やめろ!風邪をひいたら明日のプレゼンはどうなる!俺は(扇風機として)最強の「強」モードで風を送りつけ、抵抗を試みるが、俺(扇風機人格)は「オオ…コレモ良イ風…」と悦に入っている始末だ。
絶望的な夜が明け、事態はさらに悪化した。俺(扇風機人格)が、何を思ったか俺の勝負スーツを着込み、ネクタイの代わりに電源コードを首に巻きつけているのだ。正気か!?
「元に戻るには…もう一回くしゃみをするしかない!」
俺(扇風機)は一縷の望みを託し、ある作戦を実行することにした。ターゲットは、我が家の気まぐれな支配者、猫のタマだ。俺はタマが机に飛び乗ってくるのを待ち、ありったけの風力と首振りで、キッチンのコショウ瓶の存在をアピールした。
「タマ!頼む!アレを!アレを俺の顔面に!」
タマは「ニャ?」と首を傾げたが、激しく首を振る扇風機を新しいおもちゃだと思ったらしい。楽しそうに俺(扇風機)の羽根に猫パンチを繰り出した後、見事にコショウ瓶を前足でチョイッ。放物線を描いた黒い粉が、俺(扇風機人格)の顔面に降り注いだ。
「ヘッ、ヘッ、ヘッ…ハックショォォォォォォイ!!」
閃光。浮遊感。気づけば俺は、自分の体に戻っていた。床にはコショウまみれの俺が倒れ、傍らでは卓上扇風機が静かに佇んでいる。時間は既にギリギリだ。俺は雄叫びをあげて家を飛び出した。
役員たちが居並ぶ、重苦しい雰囲気の会議室。俺の心臓は破裂寸前だった。緊張がピークに達し、またしても鼻がムズムズしてくる。まずい、デジャヴだ。
「田中君、緊張かね?リラックスしたまえ」
隣に座った上司が、親切心からアロマディフューザーのスイッチを入れた。ラベンダーの香りが、俺の鼻腔にダイレクトアタック。
「アッ…アッ…ハックショーン!!」
終わった。俺は恐る恐る目を開けた。目の前には、俺の席に座る、無機質で四角いガワ。俺は…会議室の天井に吊るされたプロジェクターになっていた。
絶望が俺を支配する。だが、その時、俺の頭脳(今はレンズとランプか?)に電撃が走った。「待てよ…プロジェクターなら…投影できるじゃないか!」
俺は記憶の中にあるプレゼン資料を、思考の力で壁のスクリーンに投影し始めた。グラフはアニメーション付きで動き、重要なキーワードは輝きながら飛び出す。脳内イメージが、そのまま完璧な映像となって映し出されるのだ!
一方、俺の体(プロジェクター人格)は、「光ヲ…放チタイ…」という本能に突き動かされていた。やおら立ち上がると、プレゼンそっちのけで、最前列に座る取引先の社長の輝かしいハゲ頭に、ピンスポットライトを当て始めたのだ。
会議室は奇妙な空気に包まれた。スクリーンには、誰も見たことのないほど革新的でダイナミックなプレゼン映像が流れている。そして、演台の男は、恍惚の表情で社長の頭を照らし続けている。
シュールな光景と完璧なプレゼンの狂気的なマリアージュに、最初は困惑していた役員たちも、やがて腹を抱えて笑い出し、最後にはスタンディングオベーションが巻き起こった。
「田中君!君のプレゼンは…まさに光り輝いていたよ!」
社長は、頭をピカピカにさせながら俺の手を固く握った。こうして、俺のプレゼンは伝説となった。
その夜。ヘトヘトになって帰宅すると、猫のタマがくしゃみをしていた。
「ハクション!」
その隣で、いつもは黙って客を招いているはずの招き猫が、ゆっくりと口を開いた。
「ご主人、ちょっと耳を貸してほしいニャ…世界の魚介類の相場についてなんだがニャ…」
俺の受難は、まだ始まったばかりらしい。
ハクション・マイ・ボディ!
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