サイレント・ジョークに、さよならのツッコミを
第一章 砕けた万華鏡
俺の目に映る世界は、どうしようもなく欠陥品だ。
人々は息をするようにギャグを交わし、腹を抱えて笑い合う。街角のカフェでは「このコーヒー、苦い経験の味がするねぇ」なんてキザなジョークに店員が「お客様の人生よりはマシですよ!」と返し、爆笑の渦が生まれる。その笑い声が共鳴し、街灯に淡い光が灯る。それが、この世界の日常。人々が「心の輝き」と呼ぶ、生命のエネルギーそのものだ。
だが俺、カイには、その輝きが理解できない。生まれてこの方、他人のギャグを本心から面白いと感じたことが一度もなかった。面白いどころか、その構造的な欠陥、論理の飛躍、陳腐な比喩が、まるで設計図のミスのように見えてしまうのだ。
「――つまり、その比喩の根拠が希薄すぎる。経験の味だと言うなら、せめて過去のどの経験と類似しているか具体的に提示するべきだ。そうでなければ、ただの言葉遊びにすらなっていない」
俺の口から無意識に紡がれた言葉は、ナイフとなってカフェの男の心臓を貫いた。男は「がはっ」と短い悲鳴をあげ、白目を剥いて椅子から崩れ落ちる。数秒間の意識混濁。その体から、キラキラと輝く光の粒がいくつもこぼれ落ち、まるで蛍のように宙を舞った。それは俺の網膜にだけ焼き付く、誰かの「大切な記憶の破片」だった。
『雨の匂い。鳴り止まないサイレン。誰かの嗚咽』
まただ。最近よく見る、この不穏な記憶。俺は舌打ちし、人々が倒れた男を心配して集まる輪から、静かに離れた。俺のツッコミは人を殺しかねない。だから俺は、誰とも深く関わらず、世界の片隅で息を潜めて生きている。
そんなある日、中央広場が異様な熱気に包まれていた。人だかりの中心には、一人の道化師がいた。くたびれたシルクハットを目深に被り、彼は大げさな身振りで叫ぶ。
「空に浮かぶあの雲!あれ、実は昔フラれた俺の元カノの溜息なんだよね!」
広場が揺れるほどの爆笑。人々から溢れ出た「心の輝き」が、まるでオーロラのように空に立ち上る。
道化師の被る帽子は『記憶を紡ぐ笑劇のハット』。被った者のギャグを必ず成功させる伝説のアイテム。だが、その代償はあまりにも大きい。
俺は、彼のギャグの欠陥を即座に見抜いていた。あまりに普遍的で、個人の体験に落とし込めていない。だが、ツッコミを喉の奥に押し殺す。しかし、その時だった。道化師の体から、意識を失ってもいないのに、ひときわ大きく、そして濃厚な光の粒がひとつ、ふわりとこぼれ落ちた。
俺の目にだけ映る、その記憶の破片。
それは、温かいシチューを囲む食卓だった。幼い娘が「パパ、だーいすき!」と道化師の頬にキスをする。彼の目には、涙が浮かんでいた。それは、あまりにも完璧で、純粋な「幸せ」の結晶だった。
他の記憶の破片とは明らかに違う、その濃密な幸福感。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。なぜ、あんなに幸せな記憶が、まるで不要物のように体からこぼれ落ちるんだ?
第二章 笑わない創造主
俺は『記憶を紡ぐ笑劇のハット』の謎を追い始めた。図書館の最も埃っぽい書架の奥で見つけた古文書には、こう記されていた。「かの帽子は、喜びと引き換えに魂を喰らう。最も輝かしい記憶を捧げし時、世界は初めての喝采を浴びるだろう」。
そして、もう一つ。この世界が誕生するきっかけとなった、たった一つの伝説のジョーク。
『空はなぜ、泣いているのだろう?』
誰もが知る、根源のギャグ。だが、誰もその本当の意味を理解してはいない。ただ、哲学的で深遠な問いかけとして、人々はそれを崇めていた。俺はこのジョークに、他のギャグとは比較にならないほど巨大で、致命的な「欠陥」を感じていた。これは、ギャグですらない。ただの、悲痛な問いかけだ。
集めてきた無数の記憶の破片――雨の匂い、サイレンの音、建物の瓦礫、誰かの「ごめんね」という囁き――それらが、頭の中で一つの情景を結び始めようとしていた。この世界は、何か途方もない「悲しみ」の上に成り立っているのではないか?人々がギャグで笑うたびに生まれる「心の輝き」は、その悲しみを覆い隠すための、あまりにも眩しすぎる光なのではないか?
俺は都市の最も高い塔の頂上を目指した。かつてこの世界を設計したと言われる天才科学者アベルが住んでいたという「創造主の間」。今は固く閉ざされているその場所こそが、全ての答えがある場所だと直感が告げていた。
第三章 涙色のカーテンコール
巨大な扉を開くと、そこは静寂に満ちたドーム状の空間だった。中央に置かれた一台の古びた椅子。俺が足を踏み入れた瞬間、空間に青白い光が走り、一人の男のホログラムが姿を現した。白衣を纏い、疲れた目をしているが、その佇まいは紛れもなく天才のそれだった。
「…ようやく来たか、私の『バグ修正プログラム』」
ホログラム――アベルは静かに言った。彼は語り始めた。かつてこの世界を襲った未曾有の災害「大消失」。空が裂け、大地が割れ、一瞬にして世界の半分が消滅した絶対的な悲劇。人々は愛する者を失い、希望を失い、ただ絶望に泣き濡れるだけだった。世界は死にかけていた。
「私は耐えられなかった。悲しみに満ちた世界に。だから、創り変えることにした。人々の記憶から『大消失』を消し去り、悲しみを乗り越えるのではなく、忘れるためのシステムを構築した。それが『ギャグ』だ」
彼の言葉は、俺の中で散らばっていた記憶の破片を一つの真実へと繋ぎ合わせた。俺の能力は、この歪んだ世界が失った「悲しみの記憶」を拾い集めるためのものだったのだ。
「だが、システムは完璧ではなかった」とアベルは続ける。「世界の中心核には、最も強力な悲しみを置く必要があった。システムの動力源として。だから私は…私の全てを、そこに捧げた」
アベルのホログラムが揺らめき、彼の背後に、世界の中心核が姿を現す。それは、巨大な水晶の中で明滅する、たった一言のギャグだった。大消失で、瓦礫の下から最愛の娘を見つけ出せなかったアベルが、何もない我が家の跡地で呟いた、究極にして唯一の「面白くないギャグ」。
彼は、虚空に向かって、静かに口を開いた。
「――ただいま。…おかえりは、ないのかい?」
その瞬間、俺の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。これは、ギャグなんかじゃない。これは、魂の叫びだ。返事があるはずのない場所での、独り言。コミュニケーションの根幹である「応答」を完全に放棄した、絶望そのもの。
世界の全てが、このたった一つの、救われない悲しみの上に成り立っていたのだ。
第四章 はじまりの笑い声
俺はアベルの絶望を、集めた全ての記憶を通して追体験した。娘の手を握った最後の感触。粉塵の匂い。届かなかった叫び声。彼の痛みは、俺の痛みになった。
だから、俺はツッコまなければならない。この世界でたった一人、俺にしかできない方法で。
俺は、アベルのホログラムの、その悲しみに濡れた瞳をまっすぐに見つめて、深く、深く息を吸った。そして、俺の生涯で最も的確で、最も優しいツッコミを、彼の心に届けた。
「当たり前だろ。…だってアンタ、ずっと一人で帰りを待ってたあの子を、置き去りにしてたんだから」
俺は、彼の絶望を否定しない。彼の悲しみを、肯定する。
「ずっとここにいるじゃないか。アンタが『ただいま』って言うのを、ずっと待ってたんだ」
俺の言葉が、引き金になった。
アベルのギャグは、その意味を反転させた。届かないはずの「ただいま」に、時を超えた「おかえり」が呼応したのだ。その瞬間、世界中の人々の心に、忘れていた「大消失」の記憶と、愛する者を失った悲しみが、奔流のように流れ込んだ。
空から涙のような雨が降り注ぎ、街は嗚咽に包まれた。人々は泣いた。心の底から、生まれて初めて本当の涙を流した。
しかし、絶望は続かなかった。悲しみの涙が乾いた後、人々の心には、温かい何かが芽生えていた。悲しみを知ったからこそ分かる、誰かを想う優しさ。失ったからこそ分かる、今ここにある命の尊さ。
そして、雨上がりの空に虹がかかる頃、誰かが呟いた。
「『おかえりは、ないのかい?』…か。ハハッ、最高のフリだな。世界中が『おかえり!』って言ってるぜ」
その言葉を皮切りに、一人が笑い、二人が笑った。それは、悲しみを乗り越えた者だけが手にできる、本物の、温かい笑いだった。
俺は、その光景を見ていた。そして気づく。俺の心の中から、「面白くない」という感情が、綺麗さっぱり消え去っていることに。目の前で繰り広げられる全てが、何もかもが、最高に面白くて、愛おしくて、たまらなかった。
「あはは…ははははっ!最高だ!最高じゃないか、この世界は!」
もう、的確なツッコミは口から出ない。ただ、腹を抱えて笑うことしかできなかった。俺の能力は、その役目を終えたのだ。
その満面の笑顔は、悲しみを知り、それでも笑うことを選んだ新しい世界の、最初の産声として。未来永劫、人々の心に残り続ける、最も純粋な「笑い」として、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。