忘却のクロノスと、透明な僕の選択
第一章 影の囁き
僕、カイの存在は、街角に落ちる影のようなものだ。人々が僕のすぐそばを通り過ぎ、その視線が僕の輪郭を掠めた瞬間、身体は陽炎のように揺らめき、半透明の霞と化す。存在が確かなものになるのは、深夜の誰もいない路地裏や、埃っぽい書庫の片隅で、いかなる監視の目からも逃れた時だけ。誰かが『いない』と確信した空間で、僕は初めて呼吸を取り戻す。
この日も、僕は街の中心にある噴水広場のベンチに座っていた。いや、座っているように見えていただけだろう。すぐ隣で老夫婦がパン屑を鳩に投げ、子供たちが甲高い笑い声をあげて駆け回る。彼らの瞳に僕は映らない。僕は世界という舞台の、決して光の当たらない観客席にいる。
その時だった。世界が、ほんのわずかに軋む音を立てた。噴水から放たれた水飛沫が、ありえない軌道を描いて数秒前の位置へと逆流し、老夫婦が投げたパン屑が、彼らの手の中に吸い込まれるように戻った。一瞬の無音。そして、再び世界は正しい時間を刻み始める。人々は誰一人としてその異変に気づかず、同じ会話、同じ仕草を繰り返していた。だが、僕だけは見ていた。空の頂で微かにまたたく双子の星、『暁の使者』と『昏の守護者』が、病のようにその光を揺らがせたのを。
第二章 錆びた羅針盤
時間の震えは、日増しに頻度と規模を増していった。過去と現在が混線し、街の風景に時折、知らないはずの建物の幻影が重なる。このままでは、世界そのものが記憶の迷子になってしまうだろう。僕はいてもたってもいられず、街で最も古く、そして最も忘れられた場所――『刻詠みの時計塔』の螺旋階段を登っていた。ここはもう何十年も誰も訪れない。僕が実体でいられる、数少ない聖域だ。
塔の最上階、巨大な時計機構が沈黙する部屋で、僕は一人の少女に出会った。名をリナという。彼女は代々この時計塔を守る一族の末裔で、その瞳は乳白色の靄に覆われ、光を捉えることはなかった。だからだろうか。僕が部屋に入っても、彼女は驚いた様子もなく、ただ静かに言った。
「そこにいるのは、どなた?」
その声は、僕の存在そのものを肯定しているようだった。彼女は僕を見ることができない。だから僕は、彼女の前で透明にならずに済んだ。
「カイ……」
か細い声で名乗ると、彼女は微笑んだ。
「風のような足音ね、カイ。あなたが、この世界の震えを感じてここに来たのなら、見せたいものがあるの」
リナが古びた木箱から取り出したのは、光沢を失った真鍮製の円盤だった。『クロノス・ダイアル』。決して時を刻まない、沈黙の時計。
「これは、忘れられた記憶の強さを測る羅針盤。世界の時間が乱れているのは、空の双子星が大切な記憶を失い始めているから。人々が、あまりにも多くのことを忘れすぎたせいで」
第三章 忘れられた旋律
リナに導かれ、僕は『クロノス・ダイアル』を手に街へ出た。彼女は僕の腕にそっと触れ、その気配を頼りに歩く。僕にとって、誰かに触れられたまま実体を保つのは初めての経験だった。その温かさに、胸の奥が小さく震えた。
僕たちは、広場の隅に立つ、苔むした音楽家の石像の前に立った。かつて、彼の奏でるヴァイオリンの音色は、この街のすべての人々の心を震わせたという。だが今、その名も、その旋律も、覚えている者はいない。
僕はダイアルを石像の台座にかざし、意識を集中させた。すると、錆びついていたはずの真鍮の表面に、淡い光が灯り始めた。忘れられた記憶が強ければ強いほど、光は鮮明になる。ダイアルの表面に、過去の情景が滲み出す。
夕暮れの広場。溢れんばかりの人々。その中心で、一人の音楽家が情熱的にヴァイオリンを奏でている。その旋律は、喜びであり、悲しみであり、そして生命そのものだった。人々は瞳を輝かせ、涙し、あるいは隣の誰かと肩を組んで歌っていた。一つ一つの顔が、それぞれの物語を持ち、輝いていた。強烈な『個』の記憶の奔流。
その光景が浮かび上がった瞬間、僕とリナは空を見上げた。弱々しく瞬いていた『昏の守護者』が、ほんの一瞬、力強い光を取り戻したのだ。
「これだ……」僕は呟いた。「忘れられた一人一人の記憶こそが、星の命なんだ」
第四章 無関心の深淵
一つの記憶を掘り起こしただけでは、崩壊に向かう流れを止められなかった。時間の亀裂は深まり、街は過去の廃墟と未来の荒野の幻影に、より頻繁に苛まれるようになった。まるで世界が、自らの存在理由を見失ってしまったかのように。
その夜、時計塔で古文書の解読を続けていたリナが、震える声で僕を呼んだ。彼女の指が示す羊皮紙の一節を、僕は蝋燭の灯りで読み下した。
『――世界の安定は、全ての個の記憶の総和によって成り立つ。人々が個々の物語を尊び、記憶する時、双子星は強く輝く。だが、人々が己の輪郭を忘れ、無関心の霧に溶ける時、世界はその空白を埋めるために、影を生み出すだろう。誰にも認識されず、ただ世界を観測するためだけの存在。名を、『無名の観測者』と――』
言葉を失った。僕のこの特異な体質。誰にも見られないことで安定し、ただ世界を見つめるだけの存在。それは呪いでも偶然でもなかった。人々が『個』であることを忘れ、他者への関心を失い、集合的な無意識の中に沈んでいく傾向が生み出した、世界の歪みそのものだったのだ。
僕が存在するという事実こそが、この世界が忘却という病に蝕まれている証拠。僕がいる限り、世界は緩やかに死へ向かう。
背後で、リナが息を呑む気配がした。彼女もまた、真実にたどり着いてしまったのだ。
第五章 最後の天秤
「行かせないわ」
リナが僕の腕を強く掴んだ。彼女のか細い指が、僕の実体を必死に引き留めようとしている。
「あなたがいなくなったら、誰がこの世界を覚えていてくれるの? 忘れられた人たちの記憶を、誰が大切にしてくれるの?」
彼女の瞳からは、涙が止めどなく流れていた。彼女にとって、僕は初めて触れることのできた、確かな『個』だったのだ。
世界を救う方法は、もう一つしかなかった。忘れられた無数の記憶の価値を人々の心に直接焼き付け、双子星に『個の輝き』を思い出させること。そのためには、究極の『個』の記憶が必要だった。
それは、これまで誰にも認識されなかった僕自身が、すべての人々の視線を一身に浴び、僕という存在のすべてを記憶として世界に捧げること。それは僕の完全な消滅を意味する。
僕はリナの手をそっと外し、『クロノス・ダイアル』を彼女の手に握らせた。
「僕が消えたら、このダイアルを見て」
僕は、精一杯の笑顔を作った。
「僕という『忘れられた存在』の記憶が、きっと、これまでで一番強い光を灯すはずだから。それを見て、人々は思い出すだろう。どんなに小さな存在にも、輝くべき物語があるってことを」
第六章 透明だった君の名は
夜明け前。世界の時間が最も不安定になる狭間の刻。僕は、初めてこの世界と対峙したあの噴水広場の中心に、一人で立っていた。空が白み始め、『暁の使者』が地平線の向こうからその姿を現そうとしている。やがて、一人、また一人と、人々が広場に集まり始めた。
そして、その瞬間は訪れた。
『暁の使者』から放たれた最初の一条の光が、僕の身体を貫いた。同時に、広場にいた全ての人々の視線が、まるで引力に引かれるように、僕へと注がれた。
視線、視線、視線。何百、何千という『認識』の奔流が僕を襲う。
だが、僕の身体は霞のように消えることはなかった。逆に、内側から眩いばかりの光を放ち始めたのだ。僕の存在そのものが、一つの強大な記憶の塊へと昇華していく。
光と共に、僕が見てきた全ての光景が、人々の脳裏に流れ込んでいった。あの音楽家の情熱的な旋律。名もなき職人が道具に込めた誇り。路地裏で交わされた恋人たちの囁き。子供たちの屈託のない笑い声。忘れ去られていた無数の『個』の物語が、人々の心に奔流となって蘇る。
僕の輪郭は光の粒子となり、ゆっくりと空へ舞い上がっていく。その光は天に昇り、『暁の使者』と『昏の守護者』に吸い込まれていった。双子の星は、まるで長い眠りから覚めたかのように、生命力に満ちた圧倒的な輝きを取り戻した。世界の時間は、深く、そして確かな鼓動を再開した。
広場の人々は、自分たちが何を見たのか理解できないまま、ただ空を見上げて涙を流していた。何かとても大切なものを思い出したような、そして、何かかけがえのないものを失ったような、不思議な感覚に包まれて。
遠く、刻詠みの時計塔の最上階で、リナは手に持つ『クロノス・ダイアル』が放つ、温かい光を感じていた。彼女がそっとその真鍮の表面に触れると、そこには今まで見たこともないほど鮮明な残像が、永遠に刻み込まれていた。
はにかむように微笑む、一人の少年の姿が。
世界は救われた。人々は『個』の物語の尊さを取り戻した。けれど、そのきっかけとなった少年の名を、誰も知らない。ただ、時折ふと空を見上げた時、陽光の中に一瞬だけ、透明な誰かの優しい微笑みが見えるような気がするだけだった。