第一章 霧の中の地図と眠り姫
僕の住む町は、生まれたときから分厚い霧に覆われていた。谷底に沈んだ小石のように、世界から忘れ去られた場所。人々は霧を「神の帳(とばり)」と呼び、その向こう側に広がる未知を恐れ、あるいは敬って、決められた営みをただ静かに繰り返していた。
僕、リオは、そんな町で地図製作者の見習いをしていた。といっても、新しい地図を描く機会などない。町で唯一の地図製作者だった祖父が遺した、たった一枚の谷の地図。それを写し、古くなったものと交換するのが僕の仕事のすべてだった。インクの匂いが染みついた薄暗い書斎で、僕はペンを握りながら、いつも霧の向こうを夢想していた。祖父は、僕がまだ幼い頃、「世界の果てを見に行く」と言い残し、霧の中へ消えたきり戻らなかった。
そんなある日、僕は書斎の大掃除の最中に、祖父の愛用していた机の隠し引き出しを見つけた。中には、羊皮紙に描かれた不完全な谷の地図が一枚。しかし、それは僕がいつも模写しているものとは違っていた。地図の縁が、まるで焼け焦げたかのように、濃密な霧の絵で塗りつぶされている。そして、その羊皮紙を光に透かしてみた瞬間、僕は息を呑んだ。裏面に、褪せたインクでこう記されていたのだ。
『霧は嘘をつく。星を追え。』
心臓が大きく脈打った。意味の分からない言葉が、まるで古代の呪文のように頭の中で反響する。霧が、嘘をつく? 僕たちの世界のすべてを覆うこの霧が?
その言葉の謎が解けぬまま数日が過ぎた頃、町に異変が起きた。人々が次々と、深い眠りに落ちて目覚めなくなる奇妙な病が流行り始めたのだ。そして、その病はついに、僕のたった一人の幼馴染、ソラをも襲った。花の冠を編むのが好きだった彼女は、まるで物語の眠り姫のように、穏やかな寝息を立てるだけになってしまった。
医者は首を横に振るばかり。町の誰もが、これは「霧の呪い」だと囁き、ただ祈ることしかできなかった。絶望が町を覆い尽くそうとしていたその夜、僕は町の古文書の中に、ある記述を見つけ出す。
『深き眠りの病は、霧の淀みが生む影。それを払うは、霧の向こう、世界の頂に咲くという月光花のみ』
伝説だ、おとぎ話だ、と誰もが笑うだろう。しかし、僕の脳裏には、祖父の言葉が鮮やかに蘇っていた。『霧は嘘をつく。星を追え。』
嘘つきの霧が隠している真実。その先に、ソラを救う光があるのかもしれない。僕は決意した。祖父が越えようとした霧の壁を、今度は僕が越えるのだ。震える手で祖父の不完全な地図と、錆びついた方位磁針を握りしめ、僕は夜陰に紛れて、誰もが恐れる霧の中へと、最初の一歩を踏み出した。
第二章 星を追う旅人
霧の中は、音のない海の中を歩いているようだった。視界はどこまでも乳白色で、数歩先の自分の足元すらおぼつかない。湿り気を帯びた空気が肺を満たし、冷たい雫が絶えず肌を濡らした。方向感覚はすぐに麻痺し、祖父の方位磁針だけが、僕が円を描いていないことの唯一の証明だった。
昼と夜の区別も曖昧な世界。疲労が限界に達し、苔むした岩に身を預けたときだった。ふと見上げると、濃密な霧の天井が、ほんのわずかに薄らいでいることに気づいた。そして、その向こうに、瞬く光が見えた。一つ、また一つ。それは、星だった。
『星を追え』
祖父の言葉が、天からの啓示のように降り注ぐ。僕ははっとして、方位磁針ではなく、空の一点でひときわ強く輝く星を見据えた。北を示す星。あれが僕の道標だ。
それから僕の旅は変わった。昼は休み、夜、星が姿を現すわずかな時間に、ひたすら北を目指して歩いた。臆病だった心は、一歩進むごとに硬い地面を踏みしめる確かな感触を得て、少しずつ強くなっていった。僕は、祖父の地図の余白に、自分が見たものを描き込み始めた。奇妙な形にねじれた木々、青白く発光するキノコの群生地、水晶のように透き通った水を湛える地底湖。僕の世界は、谷の中だけでなく、この霧の中にも広がっていたのだ。それは、僕が初めて自分の手で創り出す、自分だけの地図だった。
いくつもの夜を越え、食料も尽きかけた頃、僕の前に巨大な影が立ちはだかった。それは天を突くほどの、錆びついた鉄の壁だった。どこまでも続くその壁に、僕は絶望しかけた。だが、諦めきれずに壁沿いを歩き続けると、やがて巨大な扉のようなものを見つけた。固く閉ざされているが、その脇に、小さな制御盤のようなものがあった。そこには、僕の谷で使われているのと同じ、古代の文字が刻まれていた。地図製作者として学んだ知識を総動員し、僕はパズルのような文字の羅列を解読していく。そして、最後の仕掛けを動かした瞬間、地響きと共に、重い扉がゆっくりと開いていった。
扉の向こうから、これまで嗅いだことのない、乾いた風が吹き込んできた。そして、僕の目を射たのは、霧ではない、眩いほどの光だった。
第三章 世界の果ての真実
光に目が慣れたとき、僕の目の前に広がっていた光景は、想像を絶するものだった。
そこは、僕が夢見た緑豊かな楽園ではなかった。地平線の果てまで続く、赤茶けた大地。巨大な建造物の残骸が墓標のように突き刺さり、朽ち果てた機械の骨格が至る所に転がっている。空には雲ひとつなく、巨大な太陽が容赦なく大地を照りつけていた。ここが、霧の向こう? ここが、世界の果て?
呆然と立ち尽くす僕の背後から、しわがれた声が聞こえた。
「……よく来たな、リオ」
振り返ると、そこに立っていたのは、作業着を纏い、深く皺の刻まれた老人だった。日に焼けたその顔には、見覚えがあった。
「じい…さん?」
死んだと思っていた祖父だった。祖父は静かに頷き、僕を近くの洞窟へと招き入れた。そこで語られた真実は、僕が築き上げてきた世界のすべてを根底から覆すものだった。
僕たちの谷を覆っていた「霧」は、自然現象ではなかった。それは、この星がまだ緑豊かだった頃の古代文明が作り出した、巨大な環境維持装置――テラフォーミング・ドーム――が暴走した結果、発生している人工的なものだったのだ。そして、僕たちの谷こそが、そのドームによってかろうじて生命の環境が保たれている、最後の聖域(サンクチュアリ)だった。
「わしは『霧の向こう』へ行ったのではない」と祖父は言った。「このドームの『外』へ出て、修理の方法を探していたんじゃ。だが、この世界はもう死んでおった。かつての人々は、自らの傲慢さで環境を破壊し尽くし、このドームだけを残して滅びた。わしは、せめてこのドームだけでも守り、お前たちの生きる谷を維持しようと、たった一人で戦ってきた」
ソラの眠り病も、呪いなどではなかった。老朽化したドームの浄化システムが誤作動を起こし、神経に作用する微粒子を霧と共に散布し始めたのが原因だった。そして、「月光花」は伝説の植物ではなく、その微粒子を吸収・分解する機能を持つ、古代のバイオフィルター植物だったのだ。
僕の冒険は、未知なる新世界への旅ではなかった。それは、滅びた過去への墓標を巡る旅だったのだ。信じていた世界の形が、音を立てて崩れ落ちていく。僕が握りしめていた地図は、広大な世界のほんの一部などではなく、巨大な檻の内部図面に過ぎなかった。絶望が、霧よりも濃く、僕の心を覆い尽くした。
第四章 夜明けの地図製作者
何のために僕は来たのだろう。ソラを救う希望も、世界の真実も、あまりに残酷だった。膝を抱えて動けなくなった僕に、祖父は一枚の設計図を見せた。それは、この巨大なドームの、途方もなく複雑な回路図だった。
「わし一人では、もう限界じゃ」祖父は言った。「だが、お前が来た。お前はわしより優れた地図製作者になる。その緻密さ、その記憶力があれば、この設計図を解読できるかもしれん」
祖父の瞳の奥に、諦めではない、揺るぎない炎を見た。そして、思い出した。眠るソラの穏やかな顔を。彼女を救いたい。その一心で、僕は顔を上げた。
僕たちの新たな冒険が始まった。それは、荒野を旅する冒険ではなく、知識と技術の海を渡る冒険だった。祖父の長年の経験と、僕が培ってきた地図製作の技術。二つの力が合わさり、複雑怪奇な設計図は少しずつ解読されていった。僕は、故障箇所を特定し、エネルギー経路を再設定するための新しい地図――回路図を何枚も描いた。それは、谷の地図をなぞるだけの作業とは全く違う、未来を創り出すための地図だった。
そしてついに、僕たちはドームの最深部にある植物培養プラントに辿り着く。そこで、かろうじて生命活動を維持していた「月光花」の種子を発見した。僕が描いた回路図を元に、祖父が最後の調整を行う。制御レバーを引くと、施設に淡い光が灯り、種子が納められたカプセルに栄養液が注がれた。
奇跡は、静かに起こった。種子は瞬く間に芽吹き、銀色の光を放つ花を咲かせたのだ。月光花は、まるで呼吸をするかのように周囲の空気を吸い込み、清浄な風を吐き出した。その風がドーム全体に広がっていく。
僕たちは谷へ戻った。谷の縁に立ったとき、僕たちは空を見上げた。何十年と谷を閉ざしてきた濃霧が、ゆっくりと晴れていく。その向こうから現れたのは、どこまでも広がる紺碧の空と、生まれて初めて見る、無数の星々のまたたきだった。
谷の人々は、最初、恐れおののいた。しかし、眠っていた人々が一人、また一人と目を覚まし、ソラが僕の名を呼びながら駆け寄ってきたとき、人々の顔は驚きから、やがて涙の混じった笑顔へと変わっていった。
僕は今、新しい地図を描いている。それは、小さな谷だけの地図ではない。星空の下に広がる、僕たちの谷と、再生を待つ荒野と、そしてまだ見ぬ未来へと続く道が描かれた地図だ。
完成したばかりの地図を広げ、僕はソラと共に丘の上に立つ。冷たく澄んだ夜風が、僕たちの髪を優しく撫でる。
「見て、リオ。星って、こんなにたくさんあったんだね」
ソラが指さす空には、天の川が雄大に流れていた。
「ああ」僕は、まだインクの香りがする地図に目を落とし、そして再び星空を見上げた。「僕たちの冒癒は、まだ始まったばかりなんだ」
滅びた世界を再生させるという、途方もない旅。その最初のページが、今、めくられた。僕の手の中にあるこの地図は、そのための、希望の羅針盤だった。