時を喰らう碑文
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時を喰らう碑文

第一章 時を喰らう奇跡

北西アストラ砂漠の灼熱の風が、考古学研究所の薄汚れた窓をガタつかせた。部屋には埃と古書の匂いが充満している。エラ・ヴェリスは、積み上げられた文献の山に顔を埋め、目の前の石版を睨みつけていた。それは数ヶ月前に発見されたばかりの遺物で、彼女の恩師、グレイソン教授が「時を喰らう石版」と名付けたものだ。表面には、既知のいかなる古代文字とも異なる、奇妙な幾何学模様が複雑に刻まれている。教授はこれに憑かれたように研究を続け、ある夜、エラに「我々の歴史は嘘かもしれない」と震える声で告げた後、忽然と姿を消した。彼の研究室には、この石版と、インクが乾ききっていない走り書きのメモだけが残されていた。「空白の時代を埋めよ。真実はそこにある。」

エラは、教授の失踪の報せを聞いてから、ずっとこの石版と向き合っていた。彼女は幼い頃から人見知りで、社交的な場所よりも、図書館の奥や遺跡の静寂を好んだ。しかし、教授の情熱的な教えだけが、彼女を研究の世界へと引き込んだ。教授の失踪は、彼女にとって世界の終わりを意味した。だが、残されたメモと石版は、彼女の内に秘められた知的好奇心を深くえぐり、未知への冒険へと誘っていた。教授が書き残した地図は、これまで未踏とされてきた「忘却の山脈」の奥深く、地図上にはただの空白として記された場所を指し示していた。恐怖と、教授の安否への強い懸念が、彼女の心を支配する。しかし、それ以上に、この石版が持つ謎、そして教授が最後に口にした「歴史の嘘」という言葉が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。彼女は知っていた。この石版がただの遺物ではないことを。それは、世界そのものの根幹を揺るがす、何かの入り口に違いないと。

第二章 消え去った道のり

エラは教授が残した数枚の地図と、最低限の装備だけを手に、忘却の山脈へと足を踏み入れた。灼熱の砂漠を抜け、鬱蒼とした密林の湿った空気が肌にまとわりつく。足元には、朽ちた巨木の根がまるで生き物のように蠢き、行く手を阻んだ。深い森の中では、太陽の光も届かず、どこからともなく聞こえる獣の鳴き声が、彼女の不安を煽る。孤独な旅だった。夜は冷え込み、焚き火の煙が空に昇るのを見上げながら、エラは幾度となく教授の姿を思い描いた。あの熱く語る瞳、無邪気な笑顔。彼ならこんな困難をどう乗り越えるだろうか。

山脈の奥深くに進むにつれ、彼女は奇妙な光景を目にするようになった。それは、既存の文明の様式とは全く異なる、奇妙な石造りの建築物の痕跡だった。風化し、蔦に覆われたそれらは、まるで大地そのものに吸収されかけたかのように、静かに横たわっていた。ある時、エラは苔むした石柱の根元で、教授の遺留品を見つけた。それは彼のトレードマークである古びた革製の手帳だった。ページをめくると、震える文字でスケッチが描かれていた。それは、彼女が持ってきた「時を喰らう石版」の模様と酷似していた。そして、その下にはこう記されていた。「彼らは消えた。全てを消し去った。しかし、痕跡は残る。」

彼女の胸に、冷たい疑惑の塊が膨らむ。教授はただ失踪したのではない。何らかの真実に辿り着き、そして追われていたのかもしれない。だが、誰に? 何のために? その疑問は、彼女をさらに奥へと駆り立てた。彼女の孤独と恐怖は、強い探求心へと変貌し、一歩一歩、消え去った道のりを辿っていく。彼女の指先が、古代の石の表面をなぞるたびに、忘れ去られた歴史の鼓動が、微かに響くような気がした。

第三章 歴史の断層

教授の地図が示す場所は、巨大な山脈の奥深く、雲に覆われた断崖絶壁に隠された洞窟の入り口だった。その中には、まるで別世界のような光景が広がっていた。巨大な結晶が天井から垂れ下がり、内部から発せられる微かな光で、洞窟全体が青白く輝いている。ひんやりとした空気が肌を撫で、エラは息を呑んだ。洞窟の最奥部には、まるで祭壇のように鎮座する巨大な構造物があった。それは、彼女が持ってきた「時を喰らう石版」を巨大化したような形をしており、表面には無数の幾何学模様が刻まれていた。その中心には、あの小さな石版を嵌め込むためのくぼみがあった。

エラは震える手で、石版をくぼみに嵌め込んだ。途端、祭壇全体が轟音と共に起動し、洞窟の壁面に光の文字が投影された。それは、教授が「空白の時代」と呼んだ時期の記録だった。驚くべきことに、その映像は、現在の歴史書には一切記述されていない、高度な文明が地球上に存在していたことを示していた。彼らは驚異的な科学技術を持ち、平和に暮らしていた。だが、突如として彼らの文明は、不可逆的な破滅の危機に瀕した。原因は、彼ら自身が生み出した、制御不能なエネルギーだった。世界が死滅寸前になった時、彼らは最後の手段として、この祭壇を起動させた。それは、時間を操作し、過去のある特定の時期から、彼らの文明そのものを「存在しなかったこと」にするための装置だった。

光の文字は続いた。「この世界の存続のため、我々は自らの歴史を消去する。我々の悲劇が、二度と繰り返されぬよう。どうか、我々の真実を忘れないでほしい。そして、その善意の代償として生まれた、この平和な世界を守ってほしい。」エラの心臓が激しく打ち鳴らされる。彼女の知る歴史、人類が幾多の苦難を乗り越え、築き上げてきたと信じていた全ての根幹が、音を立てて崩れ去った。我々の世界は、破滅の危機から救うために、ある文明の歴史を犠牲にした「善意の改変」の上に成り立っていたのだ。教授が残した「歴史の嘘」という言葉の意味を、エラは初めて理解した。彼女の価値観は根底から揺さぶられた。これは、欺瞞なのか、それとも、避けられない選択だったのか。

第四章 過去からの選択

光の記録が終わり、祭壇の光が弱まる中、エラは放心状態で膝をついた。目の前の真実は、あまりにも重く、あまりにも非現実的だった。彼女の脳裏には、過去の文明が、自らの存在を消し去る瞬間が焼き付いている。彼らの選択は、絶望の中で未来に託された、究極の「善意」だった。だが、その善意は、現在を生きる人々から、真実を奪う結果となっていた。彼女は頭を抱え、葛藤した。この真実を世界に公表すべきなのか? だが、もし公にすれば、現在の平和な世界は、その基盤を揺るがされ、混乱に陥るだろう。人々は、自分たちの歴史が偽りだと知り、何を信じればいいのか分からなくなる。

その時、祭壇の横に、微かに光る別の記録媒体があることに気づいた。それは、教授が残した最後のメッセージだった。ホログラムで投影された教授は、疲弊しきった顔でエラを見つめていた。「エラ、お前がここまでたどり着いたことを信じていた。私はこの真実を知ってしまった。当初は、憤りを感じ、これを公にすべきだと考えた。だが、私は考え直した。あの文明の犠牲は、現在の平和を生み出した。彼らは、我々に選択を委ねたのだ。真実を知り、未来を託された者として、我々はその善意をどう受け止めるべきか、と。」

教授の目は、悲しみと、そして深い慈愛に満ちていた。「私は、この『時を喰らう石版』の機能を、さらなる改変のために使うことなど、決して望んでいない。ただ、このシステムが持つ危険性と、我々の背負うべき責任を、お前に伝えたかったのだ。エラ、真実を公にすることは、時に、より大きな悲劇を生む。この世界は脆い。守るべきは、過去の真実か、それとも現在の平和か。お前の決断が、この世界の未来を決める。」教授のホログラムはそこで消えた。エラは、教授が真実を公にしようとしたのではなく、むしろその「善意の嘘」を守り、システムの危険性を後世に伝えるためにここに導いたのだと理解した。教授は、彼女に世界の未来を託したのだ。

第五章 真実の守り人

エラは祭壇の前で、深く瞑想した。過去の文明が残した究極の自己犠牲と、教授が託した重い問い。彼女は、己の知的好奇心を満たすことよりも、世界が築き上げてきた平和と秩序を守ることを選んだ。歴史の真実を公にすることは、混乱と絶望をもたらすだけであり、過去の文明が望んだ「より良い未来」とはかけ離れてしまうだろう。彼女は、この「善意の嘘」を、自分だけの秘密として胸に秘める決意をした。

彼女は祭壇から「時を喰らう石版」を取り外し、再びそのくぼみは暗闇に閉ざされた。巨大な装置が静かに沈黙を取り戻すのを見届けながら、エラは洞窟を後にした。山脈から下り、太陽の光が再び彼女の顔を照らす。世界は何も変わっていない。人々は、自分たちの歴史を信じ、それぞれの日常を営んでいる。だが、エラの心の中だけは、永遠に変わってしまった。彼女はもはや、ただの知的好奇心に突き動かされる若い考古学者ではなかった。過去の真実を知り、未来の平和を背負う、孤独な「真実の守り人」となっていたのだ。

砂漠の風が、彼女の髪を揺らす。彼女は、かつて教授が残した言葉を思い出した。「空白の時代を埋めよ。真実はそこにある。」真実は、埋められた空白の中ではなく、その空白を生み出した「善意」の中にこそ存在したのだ。そして、その善意を守り続けることが、彼女に残された、最も崇高な冒険となった。彼女は、その重荷と誇りを胸に、新たな一歩を踏み出した。世界は美しく、そして危うい。あの時を喰らう碑文は、未来への警告か、それとも、いつか来る新たな改変への布石なのか。その答えは、歴史の彼方に、静かに横たわっている。


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