静寂の残響
第一章 灰色の旋律
カイが生きてきた世界は、色がなかった。正確には、色はあったが、誰もそれに気づかないかのように振る舞っていた。人々は俯き、足早に石畳の道を過ぎていく。感情の表出は禁忌。喜びも、悲しみも、怒りも、そのすべてが「感情の嵐」と呼ばれる災厄を招くと、幼い頃から教え込まれてきた。
カイは声を持たなかった。彼が言葉を紡ごうとすると、その想いは触れたものの表面に、淡い光を放つ文字となって浮かび上がる。壁に、テーブルに、そして人の肌に。だが、誰もその文字を読もうとはしなかった。他人の感情に触れることは、嵐の火種に手を伸ばすのと同じだったからだ。
その代わり、カイには音が聞こえた。世界が忘れたはずの、感情の残響が。
今日もそうだ。広場の古びた噴水の縁に座っていると、空が鈍色に澱み始めた。風が止み、肌を刺すような静寂が街を包む。嵐の予兆だ。人々は無表情のまま、更に足を速めて家路につく。
カイの耳には、その静寂を裂くように、か細いすすり泣きが聞こえていた。それは物理的な音ではない。何百年も前にこの石畳に染み付いた、悲しみの残響。彼は立ち上がり、音の源へと歩き出した。広場の中央、かつて断頭台が置かれていたという円形の石舞台。そこに近づくにつれ、すすり泣きは幾重にも重なり、絶望の合唱となって彼の心を揺さぶった。
懐から、黒曜石のように滑らかな「忘却の羽ペン」を取り出す。彼が物心ついた時から持っていた、唯一の所有物。そのペン先で、足元の石畳にそっと触れる。
インクが、滲んだ。深い、深い藍色に。
ペンが描いた軌跡から光が溢れ、カイの目の前に幽霊の記憶が立ち上った。処刑される男。それを見つめる、恐怖と無力感に凍りついた群衆の顔、顔、顔。彼らの抑圧された感情が渦を巻き、天へと昇っていく。これが、嵐の核なのだ。
近年、嵐は異常なほど頻繁に、そして激しくなっていた。そしてそのすべてが、世界を統一し、感情を根絶することで永遠の平和をもたらしたとされる「静寂の皇帝」の時代の史跡で発生していた。
カイは幻影が消えた空を見上げた。この灰色の平和は、偽りなのではないか。彼は、この世界が奏でる歪な旋律の真実を、知らねばならないと感じていた。
第二章 皇帝の影
王立古文書館の空気は、乾燥した紙と古いインクの匂いで満ちていた。カイが巨大な樫の木の閲覧机に、皇帝に関する資料を求める旨を文字で示すと、若い女性の司書は驚いた顔一つせず、静かに頷いた。彼女の名はリア。この街で唯一、カイが浮かべる文字から目を逸らさない人間だった。
「静寂の皇帝、ですね。公式の記録はほとんどが賛美の言葉で埋め尽くされています。嵐を鎮め、『大静寂』と呼ばれる平穏の時代を築いた、と」
リアが運んできた分厚い書物をめくっていく。だが、カイが求めているのはそこに書かれた言葉ではなかった。彼はそっと本の装丁に指を触れる。残響が聞こえる。ページをめくる音、インクを走らせる音、そして――何かを隠蔽しようとする者の、焦燥と罪悪感の微かな囁きが。
「何かが、おかしい」
カイはテーブルに文字を浮かべる。
「ええ、私もそう思います」
リアは声を潜めた。「皇帝の治世の末期に関する記録が、不自然なほど欠落しているのです。まるで、誰かが意図的に歴史の一部を消し去ったかのように」
カイは書庫の奥、皇帝の紋章が刻まれた石版の前で足を止めた。双頭の鷲が互いの嘴を塞いでいる、奇妙な紋章。彼はその冷たい石肌に手を触れた。
瞬間、彼の脳裏に叩きつけられたのは、感情ではなかった。それは完全な「無」。そして、無数の歯車が噛み合うような、巨大な機械の稼働音にも似た、無機質な残響だった。歓喜も悲しみもない、ただただ続く、空虚な律動。
カイは顔をしかめ、よろめきながら後ずさった。
「何が……聞こえたのですか?」
リアが心配そうに駆け寄る。
カイは震える指で、忘却の羽ペンを握りしめ、石版に触れた。インクは色を持たず、ただ透明な光を放って紋章の溝をなぞる。すると、紋章が淡く発光し、床に首都の地下に広がる巨大な施設の設計図を映し出した。
「これは……」リアが息を呑む。「皇帝の霊廟の、隠された構造図……。でも、これは墓じゃない。まるで、何か巨大な機械……」
二人は顔を見合わせた。皇帝が世界にもたらした静寂の正体は、この地下に眠っている。
第三章 アーカイブの心臓
皇帝の霊廟へと続く地下通路は、ひんやりとした沈黙に支配されていた。リアが掲げるランタンの光が、壁に刻まれた歴代皇帝の肖像を不気味に照らし出す。だが、最深部にあったのは玉座でも棺でもなかった。
そこは、ドーム状の巨大な空洞だった。中央には、天を衝くほどの巨大な水晶体が鎮座し、心臓のようにゆっくりと明滅を繰り返している。無数のガラス管が、蜘蛛の巣のように壁面から水晶体へと伸び、その中を色とりどりの光の奔流が駆け巡っていた。赤は怒り、青は悲しみ、黄金は歓喜、緑は嫉妬。それは、この世界から奪われた、全人類の感情そのものだった。
「感情の……アーカイブ……」
リアが呆然と呟いた。
静寂の皇帝は、嵐を鎮めたのではない。嵐の原因となる感情そのものを、人々から吸い上げ、この機械に封印していたのだ。彼の目指した平和とは、完全なる無感情の世界だった。近年の嵐は、このアーカイブが許容量を超え、封じられた感情が悲鳴のように漏れ出していたことに起因する。
その時、水晶体から人影が揺らめき現れた。静寂の皇帝のホログラムだった。威厳に満ちた、しかし一切の感情を感じさせない瞳がカイを射抜く。
《我と同じ力を持ちし者よ。お前には聞こえるだろう。この静寂の美しさが》
皇帝の思念が、直接カイの脳に流れ込んでくる。
《感情こそが争いを生む病だ。私は世界を救済したのだ。そして、このアーカイブは新たな管理者を求めている。お前こそ、その後継者に相応しい》
皇帝はカイを誘う。だが、カイが聞いていたのは静寂の美しさではなかった。アーカイブの奥底から聞こえる、無数の魂の叫び。封じられた愛、夢、希望。それらの声なき声が、カイに訴えかけていた。「解放してくれ」と。
「違う」
カイは、震える手でリアの手の甲に文字を綴る。「これは、救済じゃない。牢獄だ」
彼は忘却の羽ペンを握りしめた。感情を凝縮し、封印するための道具。ならば、その力を逆に使えば。
解放できるはずだ。
カイは決意を固め、アーカイブの心臓部、脈動する巨大な水晶体に向かって駆け出した。
《愚かな。世界を再び混沌に還す気か!》
皇帝の怒りの思念が空間を震わせる。しかしカイの足は止まらなかった。
第四章 声が生まれる世界
カイが忘却の羽ペンを水晶体に突き立てた瞬間、世界は音を取り戻した。
甲高い破壊音と共に水晶体は砕け散り、何世紀にもわたって封印されてきた感情の奔流が、光の津波となって世界中に解き放たれた。街角で、抑圧された人生を送ってきた人々が、突然胸に込み上げる激情に目を見開く。ある者は理由もなく泣き崩れ、ある者は天を仰いで歓喜の雄叫びを上げた。忘れ去られていた憎悪が蘇り、隣人同士が睨み合う。愛が甦り、見知らぬ者たちが抱き合う。
世界は、美しくも危険な混沌の渦に叩き込まれた。空にはあらゆる感情が混じり合った、終末を思わせる巨大な嵐が巻き起こる。
その混沌の中心で、カイの身体に異変が起きていた。
声を持たなかった彼の喉が、震えた。
そして、放たれた。
それは、一人の人間の声ではなかった。
解放された幾億もの感情の集合体。悲しみの嗚咽、怒りの咆哮、愛の囁き、喜びの歌。それらすべてがカイという器を通して調律され、一つの巨大な「歌」となって世界に響き渡った。
彼の能力は、声を出せない呪いではなかった。世界中の感情の残響を受け止め、それを調和の取れた一つの「声」として紡ぎ出すための、唯一無二の器だったのだ。
カイの歌は、憎しみに燃える者の心を鎮め、悲しみに沈む者の肩を抱き、孤独に震える魂を繋ぎ合わせていく。人々は武器を置き、争いをやめ、その天上の音楽に耳を傾けた。空を覆っていた嵐は次第にその勢いを失い、色とりどりの光の粒子となって、穏やかな雨のように地上に降り注いだ。
カイはもう、孤独な青年ではなかった。
灰色の世界は終わりを告げた。これから始まるのは、感情の波に揺れる、予測不可能な世界。それを導くのは、彼の声。
彼はゆっくりと顔を上げ、色を取り戻し始めた世界を見渡した。そして、混沌の中から芽生え始めた新たな秩序に向けて、最初の「言葉」を紡ごうとしていた。
それは、かつて世界を支配した静寂の皇帝とは違う。感情を理解し、そのすべてを抱きしめて共に歩む、新たな時代の始まりを告げる響きだった。