第一章 記録者の旅立ち
カイの世界は、インクの匂いと羊皮紙の乾いた手触りでできていた。街の書庫で記録官見習いとして働く彼は、世界を記憶し、記録することに自らの存在意義を見出していた。彼の記憶力は驚異的で、一度見聞きしたことは決して忘れなかった。昨日吹いた風の向き、三日前にすれ違った商人の鼻のほくろの位置、一月前に読んだ古文書の染みの形。そのすべてが、彼の頭の中にある巨大な書庫に、正確に分類・保存されていた。人々は彼を「歩く年代記」と呼び、その才能を称賛した。カイにとって、忘れることは欠落であり、記憶こそが揺るぎない真実だった。
その完璧な日常に、最初の亀裂が入ったのは、春の終わりのことだった。唯一の家族である妹のリナが、原因不明の病に倒れたのだ。最初はただの倦怠感だった。だが、病は彼女から急速に色を奪っていった。薔薇色だった頬は青白く、陽光を弾いていた栗色の髪は色褪せ、くすんだ灰色に変わっていった。まるで、古い絵画が陽に晒されて色褪せていくように。彼女の瞳から快活な光が消え、言葉数が減っていく様に、カイの心は引き裂かれるようだった。
街中の医者が匙を投げたとき、カイは書庫の最も奥、埃を被った禁書の中に一つの希望を見つけた。それは「彩雲の谷」に関する記述だった。世界の果てにあるとされ、万物の色彩の源泉が湧き出るという伝説の場所。そこには、あらゆる色をその内に宿す「原色の花」が咲き、不治の病さえも癒す力を持つと記されていた。しかし、その記述はこう締め括られていた。「彼の地へ至りし者、未だ誰一人として帰らず」と。
人々は狂気の沙汰だと彼を止めた。しかし、カイにとって選択肢はなかった。妹の存在という、彼の世界で最も鮮やかな色彩が消えかけているのだ。記録することも、記憶することも、意味をなさなくなる。彼は旅の準備を始めた。分厚い日記帳、最高級のインク、そして研ぎ澄まされたペン。彼は決意していた。この旅のすべてを、一瞬たりとも漏らさず記録し、妹を救うための完璧な冒険譚として持ち帰るのだと。出発の朝、リナのか細い手を握り、カイは囁いた。「必ず帰ってくる。君にもう一度、世界の色を見せるために」。その言葉を、彼は自身の記憶の最も神聖な場所に刻みつけた。
第二章 褪せていく世界
旅は壮絶だったが、カイにとっては記録すべき対象の連続だった。風が削った奇岩の群れ、空を覆い尽くすほどの渡り鳥の影、夜空に架かる七色のオーロラ。彼はそのすべてを克明に日記に記した。疲労も空腹も、彼の記録への情熱の前では些細なことだった。日記のページは、緻密な文字とスケッチで日々埋め尽くされていった。これがカイの戦い方であり、彼の存在証明だった。
異変に気づいたのは、旅を始めて一月が過ぎた頃だった。「囁きの森」と呼ばれる、風が吹くたびに木々が人の囁きのような音を立てる森を抜けた直後のことだ。野営の準備をしながら、カイはふと、森で見た珍しい紫色のキノコの学名を思い出そうとした。確かに、古文書で見たことがあるはずだ。だが、どうしても出てこない。まるで、頭の中の書庫の一冊が、まるごと抜き取られてしまったかのような奇妙な空虚感。彼は日記を開き、数ページ前の記録を見て、ようやくその名を思い出した。ただの疲労だろう、と彼は自身に言い聞かせた。
しかし、その忘却は始まりに過ぎなかった。巨大な滝壺の轟音に圧倒された数日後、彼はその音がどんなものだったか思い出せなくなっていることに気づいた。日記には「大地を揺るがす咆哮」と記されているが、彼の耳はその記憶を再生しない。鋭く尖った「針の山脈」を越えた後には、その険しい稜線のイメージが靄のかかったようにぼやけていた。
恐怖が、インクの染みのようにカイの心に広がっていった。彼は理解し始めた。この「彩雲の谷」への道は、旅人が持つ最も大切なもの、すなわち「記憶」を対価として要求するのだ。進めば進むほど、旅の経験は彼の内側から削り取られていく。彼は記録のペースを上げた。忘れる前に書き留めなければ。五感を総動員し、見たもの、聞いたもの、感じたものすべてを必死で文字に変換した。だが、それは失われていく水を両手で掬おうとするような、虚しい行為だった。やがて彼は、ペンを握る指の感覚、インクの匂い、さらには文字を書くという行為そのものの意味さえ、時折見失いそうになった。
日記帳だけが、彼の記憶の最後の砦だった。それはもはや冒険の記録ではなく、失われゆく自己を繋ぎ止めるための、悲痛な叫びとなっていた。
第三章 原色の花と空っぽの手
決定的な瞬間は、雪に覆われた最後の峠で訪れた。猛吹雪の中、カイは寒さと疲労で意識が朦朧としていた。彼は日記帳を開いた。そこに記された旅の目的を再確認し、自らを奮い立たせるためだった。第一ページに、彼自身の力強い筆跡で書かれた言葉が目に飛び込んでくる。
『妹リナを救うため、「原色の花」を求めて。』
その一文を読んだ瞬間、カイは凍りついた。リナ? その名前には聞き覚えがあった。温かく、かけがえのない響き。だが、その顔が思い出せない。どんな声で笑い、どんな瞳で彼を見つめていたのか。必死に記憶の書庫を探るが、そこには「妹」という分類札があるだけで、肝心の本は失われていた。なぜ自分はこの旅をしているのだ? この胸を締め付ける痛みは、一体何なのだ?
彼の世界が、足元から崩れ落ちていく。記憶こそが彼の全てだった。その彼が、旅の理由という根幹を失ってしまった。もう進む意味はない。彼は雪の中にへたり込み、日記帳を落とした。羊皮紙のページが、冷たい風に虚しくめくれていく。もう、どうでもよかった。このまま凍えて、すべてを忘れてしまえば、この痛みからも解放されるだろう。
その時だった。彼の心臓の奥深く、記憶の及ばないさらに深い場所から、小さな熱が生まれた。それは理屈ではなかった。映像も音声も伴わない、純粋な感覚。誰かを守りたいという、焦がれるような衝動。大切で、温かく、光に満ちた何かを取り戻したいという、本能的な渇望。
カイは、はっと顔を上げた。彼は自分が誰なのか、なぜここにいるのか、もう正確にはわからなかった。だが、進まなければならないことだけは、魂が理解していた。彼は雪に埋もれた日記帳を拾い上げ、そこに記された「彩雲の谷」という文字だけを羅針盤にして、よろめきながら再び歩き始めた。記録するためではない。記憶するためでもない。ただ、胸の奥で燃える名もなき熱に導かれて。
どれほど歩いただろうか。吹雪が嘘のように止み、彼の目の前に、信じがたい光景が広がった。
そこは、谷だった。だが、ただの谷ではない。空気に色が溶け込んでいるかのように、赤、青、黄、緑、紫、あらゆる色彩が光の粒子となって乱舞していた。地面から生える草は虹色に輝き、岩肌を流れる水は液体化した宝石のようだった。色彩の洪水。存在しうるすべての色が、そこでは生命を持って脈打っていた。
カイは、その圧倒的な美しさに言葉を失った。いや、そもそも彼にはもう、それを表現するための言葉が残っていなかった。彼は自分が誰で、どこから来て、何を求めていたのか、ほとんど忘れてしまっていた。ただ、目の前の光景に、理由もなく涙が頬を伝った。
谷の中心に、一輪だけ、ひときえ強く輝く花が咲いていた。すべての色を内に秘め、それ自体が小さな太陽のように発光している。彼は、まるで引き寄せられるようにその花に近づき、そっと茎を折った。なぜそうするのか、彼にはわからなかった。だが、そうしなければならないと、心の奥底が叫んでいた。
空っぽになったはずの手に握られた「原色の花」は、不思議なほど温かかった。彼は踵を返し、おぼろげな記憶の中に残る「帰るべき場所」へと、無心で歩き始めた。
第四章 語られない物語
カイが街に戻ったとき、彼は別人になっていた。かつての明晰な眼差しはなく、少しぼんやりと遠くを見つめていることが多かった。人々が彼に旅のことを尋ねても、彼は困ったように微笑むだけで、何も語れなかった。あの驚異的な記憶力は跡形もなく消え去り、「歩く年代記」は、ただの物静かな青年になっていた。
だが、彼が持ち帰った一輪の花は、奇跡を起こした。カイがその花をリナの枕元に置くと、花は淡い光を放ちながらゆっくりと色を失い、純白に変わっていった。それと同時に、リナの頬に血の気が戻り、髪は艶やかな栗色を取り戻し、そして数日後、彼女はかつての快活な笑顔で目を覚ましたのだ。
リナは、変わり果てた兄の姿を見て涙を流した。兄が自分のために、どれほど大きな代償を払ったのかを悟ったからだ。彼女はカイの手を握り、旅の話を聞かせて、と何度もせがんだ。カイは、ただ首を横に振るだけだった。彼は、自分が成し遂げた偉大な冒険の記憶を、何一つ持っていなかった。壮麗な景色も、乗り越えた困難も、彼の中には残っていない。
ある晴れた日の午後、リナは庭で本を読んでいるカイの隣に座った。
「お兄ちゃん」
カイは穏やかに顔を上げた。
「何も覚えていなくても、いいの。ただ、ありがとう」
その言葉に、カイの瞳がかすかに潤んだ。彼は自分の胸に手を当てた。記憶は空っぽだ。知識も、経験も、すべてが流れ去ってしまった。しかし、この胸の中には、確かに何かが残っている。それは妹への愛おしさであり、彼女がここにいることへの感謝であり、そして名もなき温かい感情の塊だった。
彼は冒険のすべてを失った。しかし、冒険の「結果」そのものになったのだ。彼が失った記憶の代わりに、彼の内面には、以前にはなかった深い優しさと、すべてを受け入れる静かな強さが根付いていた。
カイはもう、世界のすべてを記憶することはできない。けれど、目の前にいる妹の笑顔という、たった一つの、しかし何よりも大切な色彩を、彼は決して見失うことはなかった。彼の冒険譚が記された日記帳は、今も書庫の奥で静かに眠っている。それは誰にも読まれることのない、世界で最も豊かで、最も空っぽな物語。そしてカイ自身が、その物語の、語られることのない生きた結末なのだった。