忘却の地図と箱庭のプロローグ
第一章 夢の残滓
カイは、夢の中で地図を描く。
眠りに落ちると、彼の意識は肉体を離れ、時を遡る鳥瞰の視点を得る。眼下に広がるのは、この世界にかつて存在したあらゆる時代の地形だ。今夜は、千年前の砂漠に栄えたという塩の都。白亜の壁が迷宮のように入り組み、隊商の駱駝が立てる乾いた蹄の音と、市場で交わされる異国の言葉の響きが、肌を撫でる熱風と共にカイの五感を満たした。彼はそのすべてを記憶の羊皮紙に刻みつけるように、心でなぞっていく。
しかし、夜明けの光が瞼を射ると、鮮やかだった夢の地図は急速に色褪せ、輪郭を失っていく。都を築いた人々の顔も、交わされた言葉も、熱風の肌触りさえも、朝霧のように溶けて消える。
彼の手に残るのは、いつもたった一つの問いだけだ。
「なぜ、都の中央にあったはずの『星詠みの塔』は、天を仰ぐことをやめたのか」
それが、夢幻地図士であるカイの能力だった。失われた場所や事物の、その「存在理由」だけが、痛みのように胸に残る。彼が目覚めてから羊皮紙に描く地図は、常に過去の写し絵であり、現代のそれとは決して重ならない。彼の工房の壁は、存在しない都、涸れた川、忘れられた道を描いた地図で埋め尽くされている。それらはすべて、カイが拾い集めた「失われた問い」のコレクションだった。
近頃、世界は奇妙な病に罹っていた。人々はそれを「物語の停滞」と呼んだ。ある村では時間が永久に同じ一日を繰り返し、またある森では木々が成長も枯死もせず、彫刻のように静止している。まるで、世界の書き手がペンを止め、インクが乾くのを待っているかのように。カイは、その現象が、自身の地図に増え続ける「失われた問い」と無関係ではないと、漠然と感じていた。
そして、彼が描くどの時代の地図にも、必ず同じ場所に、一つの印が記されている。霧深き海峡の先に描かれた、終着点を示すという『始まりの塔』。だが、現代のどんな地図にも、その海峡も塔も存在しなかった。
第二章 静止した街の鐘
乾いた車輪の軋む音だけが、カイの旅の伴侶だった。彼は「物語の停滞」が最も深刻だという谷間の街、セレネを目指していた。噂によれば、そこでは三ヶ月前から空の色が変わらず、人々は同じ動作を延々と繰り返しているという。
セレネの街門をくぐった瞬間、カイは息を呑んだ。空は色褪せたセピア色で凍りつき、風は音を失っている。パン屋の店主は生地をこねる手を止め、虚空を見つめたまま。井戸端の女たちは、水面に映る自分の顔を無表情に見つめ続けている。時間が、まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、固まっていた。
街の中心には、天を突くようにそびえる石造りの鐘楼があった。カイの心臓が、とくん、と跳ねる。数週間前の夢で見た、塩の都の地図の片隅に描かれていた鐘楼と瓜二つだったからだ。彼は夢の残滓を辿るように、その鐘楼へと歩を進めた。
鐘楼は、その名の通り、巨大な鐘を抱いていた。しかし、それは錆びつき、表面にはびっしりと苔が絡みついている。鳴らされることなく、永い沈黙を強いられてきたかのようだ。彼は夢の中で感じた問いを思い出す。
「なぜ、街を護るための鐘は、音を失ったのか」
この街の物語は、鐘が鳴らされるべき瞬間に、何らかの理由でその音を失い、プロットが停止してしまったのだ。カイは瓦礫と苔に覆われた鐘楼の土台に手を触れた。ひんやりとした石の感触の下で、何かが微かに脈打っているような気がした。
第三章 プロローグの欠片
カイは鐘楼の土台に積まれた瓦礫を、一つ一つ丁寧に取り除いていった。静止した街で、彼の動きだけが唯一の時間を持っていた。やがて、瓦礫の奥で、鈍い光を放つ何かを見つける。
それは、掌に収まるほどの大きさの、半透明な多面体鉱物だった。内部には、銀色の糸くずのようなものが複雑に絡み合い、まるで意味をなさぬ文字の羅列が刻まれているように見える。カイがそれを指でそっと拾い上げた瞬間、世界がぐらりと揺れた。
――空が七度目の色を失う前に、始まりの言葉を思い出せ――
直接脳内に響くような、しかし誰のものでもない声。同時に、彼の「失われた存在理由」を理解する能力が、その鉱物と激しく共鳴した。鉱物に刻まれた文字が、一瞬だけ意味のある言葉として彼の網膜に焼き付く。
『かつて、世界は一人の男の夢から生まれた』
幻視は一瞬で消え、鉱物は再び沈黙した。だが、カイは確信する。これが「プロローグの欠片」。世界の始まりが記された、失われた物語の断片。そして、この欠片が放つ微かな光は、彼の心の奥底に眠る、あの存在しないはずの『始まりの塔』の方角を指し示していた。
カイは静止した街の人々に一瞥をくれると、鐘楼に背を向けた。彼らの物語を再び動かすには、まず、この世界の物語そのものの源流へと至らねばならない。
第四章 虚構の水平線
「プロローグの欠片」が示す方角だけを頼りに、カイの旅は続いた。山を越え、森を抜け、やがて彼は霧に閉ざされた海岸線にたどり着く。ここから先は、どんな地図にも描かれていない空白の領域だ。
彼が霧の中へと一歩踏み出すと、懐の欠片が温かい光を放ち始めた。光に応えるように、濃い霧がまるで舞台の幕が上がるように左右に分かれていく。そして、その先に現れた光景に、カイは呼吸を忘れた。
水平線の彼方に、天を貫くようにそびえ立つ、一本の巨大な塔。
古の地図に繰り返し描かれてきた『始まりの塔』が、そこにあった。
しかし、カイが塔に向かって歩を進めるにつれて、世界の様子が奇妙に歪んでいく。足元の砂浜が、まるで濡れたインクのように滲み始め、波の音が途切れ途切れの不協和音に変わる。見上げた空には亀裂が走り、その向こうに、羊皮紙の地紙のような質感の「何か」が覗いていた。
世界が、物語の書き割りであることを隠そうともしなくなったのだ。
恐怖よりも先に、カイは奇妙な安堵感を覚えていた。この世界が抱える矛盾も、彼自身の存在理由の曖昧さも、すべてがこの風景に集約されている。彼は剥がれ落ちていく虚構の景色の中を、ただひたすらに塔を目指して歩いた。ここは、世界の終点であり、彼の旅の終着点なのだ。
第五章 始まりの書斎
塔の内部は、静寂に満ちた巨大な円形の書斎だった。壁は見上げるほどの高さまで、無数の本棚で埋め尽くされている。だが、そこに並ぶ本は、一冊残らずすべてが白紙だった。物語を待つ、無数の可能性だけがそこにはあった。
部屋の中央に置かれた、黒檀の重厚な机。その上には、一冊だけ開かれた本と、一本の古びた万年筆がぽつんと置かれていた。
カイは吸い寄せられるように机に近づき、懐から「プロローグの欠片」を取り出す。彼が欠片を開かれた本の上にかざすと、鉱物は眩い光を放ちながら溶けるように本の中に吸い込まれていった。
すると、白紙だったページに、インクが染み出すように文字が浮かび上がってくる。
それは、彼が今まで体験してきた、この世界の物語のプロローグだった。
『カイは、忘却の地図を広げた。失われた自分自身を見つけるために。彼が描く地図は常に過去の写し絵であり、彼が求める問いは常に失われている。なぜなら、この世界そのものが、彼自身の失われた記憶から生まれた、未完の物語だったからだ』
第六章 箱庭の創造主
文字を読み終えた瞬間、カイの頭の中に、失われていた記憶の奔流がなだれ込んだ。
かつて、彼はすべてを失った。愛する人も、守るべき場所も、生きる意味さえも。絶望の淵で、彼は最後の力を使って、自らの記憶を封じ込め、その断片からこの箱庭の世界を創造したのだ。
「物語の停滞」は、彼の忘却の澱み。夢で見る古地図は、彼が失った記憶の残滓。「失われた存在理由」への渇望は、自分自身の存在理由を取り戻したいという魂の叫びだった。
そして、この旅そのものが、未来の彼――この世界を創り、ただ結末を待つだけの創造主となった意識――が、過去の彼(旅人カイ)に、物語を再び紡ぎ出す「選択」をさせるために仕組んだ、壮大なプロローグだったのだ。
追い求めた「終点」は、物語の「始まり」の場所。彼は、この世界を創造した、最初の記憶の場所に還ってきたのだ。
カイは、机に置かれた万年筆を手に取った。ひんやりとした金属の感触が、彼の指先に確かな現実を伝える。目の前には、白紙のページが無限に広がっている。どの物語を紡ぐこともできる。どんな結末を描くこともできる。
彼は、静かに微笑んだ。
そして、震えることなく、新しい物語の最初の一文を、その白紙の世界に書き記し始めた。