記憶の重力、忘却の引力

記憶の重力、忘却の引力

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第一章 沈みゆく身体

カイの朝は、身体が鉛の塊になったような感覚と共に始まる。目覚めと同時に、背中に見えない山脈がのしかかり、彼をベッドの海へと沈めていくのだ。それは「記憶」の重さだった。この世界では、人の記憶は経験と共に質量を増し、魂に、そして肉体に蓄積されていく。楽しい思い出は羽のように軽く、心を浮き立たせるが、悲しい記憶、とりわけ後悔を伴う記憶は、鉄の鎖となって人を地面に縛りつける。

カイの背には、三年前のあの日の記憶が、決して癒えることのない傷のように食い込んでいた。嵐の夜、崖から滑落した弟の手を、あと一歩のところで掴みきれなかった、その瞬間の記憶。弟の驚いた顔、伸ばされた指先、そして闇に消えていく小さな叫び声。その全てが、今やカイの骨格を軋ませるほどの物理的な重荷となっていた。

彼は食事をするために椅子から立ち上がるだけで、額に脂汗を滲ませ、ぜいぜいと息を切らさなければならなかった。かつては鳥のように駆け回っていた丘も、今では一歩進むごとに足が泥に沈むような苦行だ。人々は彼を憐れんだ。カイの深く地面に刻まれた足跡を見ては、「ああ、あれほど重い記憶を背負って」と囁き合った。忘却は、この世界における唯一の救済だった。時が経ち、記憶が風化すれば、人は少しずつ軽くなる。しかし、カイの記憶は風化するどころか、日増しにその輪郭を鮮明にし、重さを増していくようだった。

もはや限界だった。このままでは、いずれ一歩も動けなくなり、自らの記憶の重圧に潰されて、ただ呼吸するだけの肉塊になってしまうだろう。そんな絶望の淵を彷徨っていたある日、村に立ち寄った旅の老人が、地図にも載らない「忘却の泉」の伝説を口にした。

「世界の果て、静寂の谷にあるというその泉の水を飲めば、いかなる重い記憶も、生まれたての赤子のように綺麗さっぱり消え去るという…」

それは、ほとんどの者が眉唾だと笑い飛ばす、ありふれたおとぎ話だった。だが、溺れる者は藁にもすがる。カイにとって、その泉は最後の希望の光に思えた。たとえ、そこに至る道がどれほど過酷であろうとも、この身を引き裂くような重さから解放されるのであれば、どんな代償も払う覚悟があった。

カイは最低限の食料と、古びた地図の切れ端を鞄に詰め込んだ。鞄そのものの重さなど、彼の背負う記憶の重さに比べれば、ないに等しい。彼は両親の心配する顔を振り切り、夜明け前に村を出た。一歩、また一歩と、地面に深い足跡を刻みつけながら。これは、何かを得るための冒険ではない。たった一つの記憶を「捨てる」ためだけの、悲痛な旅の始まりだった。

第二章 翼持つ少女

旅は想像を絶するほど過酷だった。カイの重さは、平坦な道でさえ険しい山道に変えた。他の旅人が一日で歩く距離を、彼は三日かけてようやく進むのがやっとだった。彼の周りだけ、重力が強く働いているかのようだった。

そんな旅の五日目、風の強い草原で、カイは信じられない光景を目にする。一人の少女が、まるで風と戯れる蝶のように、軽やかに踊っていたのだ。彼女の足はほとんど地面に触れていないように見え、一陣の風が吹けば、ふわりと宙に浮かび上がるのではないかと錯覚するほどだった。彼女の周りには、重い記憶が刻むはずの足跡が一つもなかった。

「こんにちは!」

カイに気づいた少女が、鈴の鳴るような声で駆け寄ってきた。彼女はリナと名乗った。亜麻色の髪を風になびかせ、快活な笑顔を浮かべている。

「すごい足跡! あなた、とってもたくさんのことを覚えているのね」

リナの言葉には、何の悪意も、憐れみもなかった。ただ、純粋な好奇心が輝いているだけだった。カイは戸惑いながらも、自分の身の上と、忘却の泉を目指していることを話した。

「そっか、忘れたいんだ。重いのは、つらいものね」

リナはそう言うと、屈託なく笑った。「わたしは、あんまり覚えてないの。昨日食べたものも、すぐに忘れちゃう。だから、こんなに軽いのかな?」

彼女と共に歩くことになって、カイは二つの世界の間にいるような奇妙な感覚に陥った。重力に縛りつけられた自分と、それを嘲笑うかのように軽やかなリナ。彼女は崖道を飛ぶように渡り、川を小石のように跳ねて越えた。カイが息を切らして登る坂道も、彼女は楽しげに鼻歌を歌いながら先導してくれた。

「どうしてそんなに軽くいられるんだ?」ある夜、焚き火を囲みながらカイは尋ねた。

「さあ? 覚えておくことより、忘れることの方が得意なのかも。悲しいことも、辛いことも、風が埃を吹き払うみたいに、いつの間にか消えちゃうんだ。だから、いつも今が一番楽しいの」

カイは彼女を羨んだ。記憶に縛られない生き方。過去に引きずられず、未来を憂うこともなく、ただ「今」この瞬間を謳歌する自由。リナの存在は、カイが目指す忘却の理想形そのものに見えた。彼女のようになれるのなら、弟の記憶を失うことさえ、もはや怖くはなかった。

しかし、同時にカイは微かな違和感を覚えていた。リナはあまりに無垢すぎた。彼女の瞳は、まるで深い井戸のようで、その底には何も映っていないように感じられることがあった。彼女の軽やかさは、時として存在そのものの希薄さに繋がり、強い風が吹けば、本当に消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。それでもカイは、彼女の導きにすがり、重い足を引きずりながら、静寂の谷を目指し続けた。

第三章 泉の真実

幾多の困難を乗り越え、二人はついに世界の果て、静寂の谷にたどり着いた。そこは音という概念が存在しないかのように静まり返り、谷底には月光を吸い込んだような、青白く輝く泉が水を湛えていた。忘却の泉だ。カイの心臓は、期待と恐怖で激しく高鳴った。これで、この重荷から解放される。

カイが震える足で泉に近づこうとした、その時だった。泉の水面が揺らめき、中から人の形をした、水そのもののような存在がゆっくりと姿を現した。それは泉の番人、あるいは泉の意思そのものであるようだった。

『待ちかねた。重き記憶を背負いし者よ』

その声はカイの頭の中に直接響いた。テレパシーのような、しかし水音のように冷たい響きだった。

「俺は…この記憶を捨てに来た。どうか、俺をこの苦しみから解放してくれ」

カイは必死に訴えた。番人は静かに彼を見つめ、そして、彼の隣に立つリナに視線を移した。

『捨てる、か。よかろう。だが、この世界の理を教えておかねばなるまい。質量は、決して消滅せぬ。ただ、移動するのみ』

「どういう意味だ?」

『お主の記憶は消えぬ。その重さが、他の誰かに移るだけのこと。この泉は、忘却の装置ではない。譲渡の祭壇なのだ』

カイは言葉を失った。記憶が消えるわけではない? ただ、誰かに押し付けるだけ? 絶句するカイの横で、リナが悲しそうに顔を伏せた。

『そして、お主のような者たちが捨ててきた幾多の記憶の重さを、これまで一身に引き受けてきたのが…そこにいる娘だ』

雷に打たれたような衝撃が、カイの全身を貫いた。彼は信じられないという思いでリナを見た。いつも軽やかで、何も覚えていないと言っていた彼女が?

『この娘は、自らの記憶をほとんど持たぬ。その魂の器は、他者の捨てた重き記憶で満たされておる。彼女が身軽なのは、記憶がないからではない。他人の重荷を代わりに背負うことで、その魂が少しずつ磨り減り、存在そのものが希薄になっているからだ。彼女は、お主のような者たちを救うため、自らを犠牲にしてきたのだよ』

リナがカイに語った「忘れることの素晴らしさ」は、カイを救いたいという一心から出た言葉だったのだ。彼女は、カイの重荷を自分が引き受ける覚悟で、ここまで一緒に来てくれた。彼女の軽やかさは自由の証ではなく、自己犠牲による消滅への序曲だったのだ。

「リナ…どうして…」

カイの声はかすれていた。リナは顔を上げ、涙を浮かべた瞳で微笑んだ。

「あなたが、あまりにもつらそうだったから。わたしは、平気。重さには、慣れてるから…」

その言葉が、カイの心を何よりも鋭く抉った。彼は、自分の苦しみから逃れるためだけに、この無垢な少女を、さらなる犠牲の上に立たせようとしていたのだ。泉の水面が、彼に選択を迫るように、静かに揺らめいていた。

第四章 背負うということ

目の前には、長年求め続けた解放がある。泉の水を一口飲めば、この身体を縛りつける鉛の重さから自由になれる。軽やかに、鳥のように、明日へと羽ばたいていけるだろう。だが、その代償は、リナの存在そのものだ。自分の記憶の重さが、彼女を押し潰し、その魂の最後の輝きさえも消し去ってしまうかもしれない。

カイは弟を失ったあの日の崖に、再び立たされているような感覚に陥った。手を伸ばせば届く救済。しかし、その手を伸ばせば、また大切な誰かが闇に消えていく。

彼はゆっくりと首を横に振った。

「…やめた」

その一言は、静寂の谷に驚くほどはっきりと響いた。リナが、そして泉の番人が、驚いたように彼を見た。

「俺は、この記憶を捨てない」

カイは決然と言い放った。彼は自分の背中に意識を集中させた。そこには、確かに耐えがたいほどの重さがある。弟を救えなかった後悔。自責の念。しかし、その重さの芯には、温かいものも感じられた。弟と笑い合った日々の記憶。交わした約束。彼が確かにこの世界に存在したという、かけがえのない証。

「この重さは…苦しいだけじゃなかった。これは、あいつと俺が生きた証なんだ。これを捨ててしまったら、俺はあいつを二度殺すことになる」

彼は悟ったのだ。記憶から逃れることは、自分の一部を否定することに他ならない。重荷と共に生きることこそが、失われた者への最大の誠意なのだと。

カイはリナに向き直り、そっと彼女の手を取った。彼女の手は、驚くほど冷たく、そして儚かった。

「君に、これ以上背負わせるわけにはいかない。今まで、ありがとう。そして、ごめん」

彼はリナを連れて、泉に背を向けた。

『行くのか。その重荷を、生涯背負い続けると?』番人の声が背後から聞こえた。

カイは振り返らずに答えた。「ああ。だが、もう一人じゃない」

彼の背中の重さは、少しも変わっていない。相変わらず、一歩一歩が地面に深く食い込む。しかし、不思議と、来た時のような絶望的な苦しさは感じなかった。隣にはリナがいる。彼女の存在を守ると決めた今、この重さは、彼が前に進むための「錨」のようにさえ感じられた。

谷を出ると、再び世界に音が戻ってきた。風のそよぎ、鳥のさえずり。それらがカイの心を優しく撫でた。

「カイ…」リナが不安そうに彼を見上げる。

カイは彼女に微笑みかけた。それは、この旅に出てから初めて見せた、心からの笑顔だった。

「重いままでも、君となら歩ける気がするんだ。これからは、僕が君を支える。君が背負ってしまった誰かの記憶の重さを、少しでも軽くする方法を、一緒に探そう。それが、俺の新しい冒険だ」

リナの瞳に、ほんの少しだけ、確かな光が宿ったように見えた。二人は手を取り合い、ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き出す。カイの刻む深い足跡の隣に、リナの、以前より少しだけしっかりとした足跡が寄り添って続いていた。忘却の引力から逃れ、記憶の重力と共に生きることを選んだ二人の、本当の旅が、今、始まった。

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