認識の残響、忘却の泉
第一章 硝子の追憶
朝、レオが目を覚ますと、枕元にはいつも通り、小さな硝子細工のようなものが一つ転がっていた。昨夜眠りにつく前に体験した、最も強い感情の残滓。『概念結晶』と、彼はそれを呼んでいた。昨日の結晶は、夕暮れの公園で聴いた少女のヴァイオリンの音色だった。指先でそっと触れると、冷たい感触とともに、胸を締め付けるような切なくも美しいメロディが脳内に直接響き渡る。弦を震わす弓の動き、茜色に染まる空の匂い、遠くで響く街の喧騒。五感の全てが、昨日のあの瞬間へと引き戻される。
レオは生まれつき、強い感情を伴う記憶を眠りと共に体外へ排出する特異体質だった。喜びも、悲しみも、怒りも、愛しさも。彼の人生は、夜ごと結晶となり、彼の部屋の棚を埋め尽くしていく。それは彼が生きてきた証そのものであり、同時に、自分の中から切り離された過去の剥製でもあった。
最近、世界は少しずつおかしくなっていた。人々が共通の記憶を、まるで古いセーターの綻びのように、ぽろぽろと失い始めているのだ。
「駅前の角にあった、あの古い時計台、どこに行ったんだっけ?」
「『哀愁』って言葉、どんな色をしていたかしら?」
そんな会話が日常に染みのように広がる。人々は首を傾げ、すぐに別の話題へと移っていく。だがレオには分かった。時計台も、『哀愁』という感情の共通認識も、確かに存在したのだ。彼の棚には、鈍い銀色に輝く時計台の結晶と、雨に濡れたアスファルトの匂いがする深い藍色の結晶が、静かにその存在を主張していたからだ。
そして彼は気づいていた。世界から何かが忘れ去られるたびに、彼の体から生まれる結晶が、異常なほどに大きく、そして重くなっていくことを。まるで、世界が失った記憶の重みを、彼一人が引き受けているかのように。
第二章 揺らぐ世界線
世界の忘却は加速していく。特定の都市の名が地図から消え、歴史的な大事件が人々の口に上らなくなり、空の色を表現する言葉が一つ、また一つと失われていった。認識されなくなった世界は、その輪郭を失い、まるで陽炎のように揺らぎ始める。人々はその揺らぎに気づかない。認識の外にあるものは、初めから存在しないのと同じだったからだ。
レオの部屋は、もはや足の踏み場もなかった。棚から溢れた概念結晶が、床に、ベッドに、机に、色とりどりの光を放ちながら散らばっている。巨大な結晶はフットボールほどの大きさになり、無数の小さな結晶が砂利のように床を埋めていた。それは世界の記憶の墓場のようだった。彼は息苦しさを感じていた。自分の記憶ではない、膨大な他者の、世界の記憶の奔流が、彼という器から溢れ出している。
そんなある嵐の夜、彼の部屋のドアが叩かれた。そこに立っていたのは、エラと名乗る女性だった。古文書のインクと雨の匂いをさせた彼女は、世界の歪みを研究する歴史学者だった。
「あなたね。世界が忘れたものを、憶えている人は」
エラの目は、部屋に満ちた結晶の光を真っ直ぐに見据えていた。彼女は震える手で、古びた真鍮製の羅針盤を取り出した。それは普通の羅針盤ではなかった。針が南北を指す代わりに、ただ一点で静止し、淡い光を放っている。
「『無意識の羅針盤』。まだ誰にも認識されていないものか、忘れられつつあるものの在り処を指し示す遺物よ。今、この羅針盤が指しているのは…」
彼女が言葉を切ると、羅針盤の針がレオの胸元でひときわ強く輝いた。
「あなた自身、そして、あなたの持つ記憶そのものよ」
第三章 羅針盤が指す場所
エラに導かれるまま、レオは一つの結晶を手に取った。それは『セレネの広場』の記憶。かつてこの街の中心にあった、美しい噴水と大理石の彫刻で知られた場所だ。今では誰もその名を口にしない。レオが結晶を握りしめると、エラの持つ羅針盤の針が激しく震え、一つの方向を指し示した。
「共鳴している…。あなたの記憶が、失われた場所への道標になる」
二人は羅針盤を頼りに、街の外れへと向かった。人々が認識しなくなった領域は、物理法則さえ曖昧になっていた。建物は霧のように霞み、道は突然途切れ、空間が歪んでいる。レオは時折、結晶に触れた。噴水を囲んで笑い合う恋人たちの声、石畳を叩く靴音、午後の陽光の暖かさ。失われた記憶の五感を頼りに、二人は流動化する世界の中を進んでいった。
それは、忘れられた世界の残響を辿る旅だった。レオは、自分が集めてきた結晶が、ただの過去の記録ではないことを理解し始めていた。これは、消えゆく世界が彼に託した、最後の遺言なのだと。
第四章 起源の泉
羅針盤が指し示す場所の最奥。そこは、世界のどの場所とも繋がっていない、巨大な洞窟だった。空間そのものが静かに呼吸しているかのように、壁面が明滅している。その中心には、底知れないほど深い、液体とも光ともつかない何かが満たされた『起源の泉』があった。世界のあらゆる認識が生まれ、そして忘れられた認識が還る場所。
泉の水面が揺らぎ、一つの声が響いた。それは男の声でも女の声でもなく、ただ純粋な意志の響きだった。
『来たか、記憶の器よ』
声は語った。世界の真実を。人の認識は有限であり、新たな認識が生まれれば、古い認識は忘れられ泉に還る。それが世界の健全な循環システム。しかし、情報技術の爆発的な発展により、人々の認識は飽和した。世界は情報過多という熱病に浮かされ、システムは暴走。古い記憶を無差別に、強制的に消去し始めたのだという。
『お前の体質は、その奔流を受け止めるための最後の防波堤。世界から溢れた記憶が、お前という個に流れ込んでいるに過ぎない』
暴走を止める方法は一つだけ。システムをリセットすること。
『お前が溜め込んだ全ての記憶、その概念結晶を、この泉に還すのだ。そうすれば、循環は正常を取り戻すだろう』
レオは息を呑んだ。全ての結晶を還す。それは、彼の人生そのものを、この泉に溶かすということだった。
第五章 決断のひとかけら
「だめよ!そんなことしたら、あなたという存在が…」
エラの悲痛な声が洞窟に響く。彼女の言う通りだった。結晶を失うことは、レオがレオであることの根拠を失うことだった。母に頭を撫でられた温もりも、友と交わしたくだらない冗談も、初めての失恋の痛みも、全てが消える。彼は、空っぽの器になる。
レオは一度、結晶で埋め尽くされた自室に戻った。彼は一つ一つの結晶を手に取った。光に透かすと、そこには彼の人生の断片が、万華鏡のようにきらめいていた。笑った日、泣いた日、誰かを愛した日。これら全てを失って、世界を救う価値があるのか。
彼は、ふと一つの小さな結晶に目を留めた。透明に近く、淡い光を放っている。嵐の夜、初めてエラと出会った日の記憶だった。ドアを開けた瞬間の湿った風の匂い。彼女の真剣な眼差し。羅針盤が放つ微かな光。彼はその小さな結晶を、そっとポケットにしまった。
そして、エラの元へ戻ると、その結晶を彼女の手に握らせた。
「エラ。もし世界が元に戻って、僕の事を誰も覚えていなくても…これだけは、君が持っていてくれないか」
それは、彼の自我が世界に対して行う、たった一つの、そして最後の抵抗だった。
第六章 誰のものでもない朝
レオは一人、『起源の泉』の前に立った。彼は背負ってきた袋から、全ての概念結晶を泉へと注ぎ込んだ。色とりどりの光が泉に溶けていく。彼の人生の全てが、世界の記憶の奔流へと還っていく。
彼の足元から、体が光の粒子となって崩れ始めた。消えていく意識の中、彼は最後に微笑んだ気がした。それは、誰かに向けたものではない、ただ世界そのものに向けた、静かな微笑みだった。彼の個としての存在は完全に泉に吸収され、その意識は風に、光に、水に、世界を構成する全ての情報の一部となって拡散していった。
翌朝、世界は穏やかな静けさを取り戻していた。消えかけていた都市がその輪郭を取り戻し、人々は忘れていた言葉を自然と口にした。誰も、世界が崩壊の瀬戸際にあったことなど気づかない。誰も、レオという青年が存在したことなど、憶えていない。
エラは、自分の研究室で目を覚ました。なぜか頬に涙の跡があった。そして、固く握りしめられた右手に、一つの小さな結晶があることに気づく。彼女はそれをそっと指でなぞった。
瞬間、見知らぬ青年と嵐の夜に出会う、鮮やかな記憶が流れ込んできた。
彼の名前は思い出せない。顔もぼんやりとしか浮かばない。
でも、確かに誰かがいた。世界のために、自分の全てを差し出した、優しい誰かが。
エラは窓の外を見た。街を吹き抜ける風が、そっと彼女の髪を揺らす。空はどこまでも青く、陽光が暖かく降り注いでいる。その世界の全てが、まるで彼からの返事のように、優しく彼女を包み込んでいる気がした。