第一章 錆びた錨と臆病な耳
「おい、小僧。本当に聞こえるのか?」
錆びついた鉄骨の上、風が唸り声を上げている。
眼下には、見渡す限りの白。
世界を飲み込んだ『雲海』が、生き残った人類の住処である高層廃墟群(タワーズ)の足元を洗っていた。
エリアンは震える手で、手すりを握りしめた。
指の関節が白くなっている。
「き、聞こえます。あの雲の下から……機械の、心音が」
「心音だと?」
大男が鼻を鳴らす。
ガルドだ。
この界隈で最も深く潜ると言われる、伝説の『潜り屋(ダイバー)』。
油と煙草の染みついたジャケット。
左目は義眼で、赤いレンズが不気味に明滅している。
「嘘だったら、落とすぞ」
「う、嘘じゃない!」
エリアンは叫び、すぐに口をつぐんだ。
高所恐怖症。
この空の上で生きる民としては、致命的な欠陥だ。
だが、彼には特異な才能があった。
『共鳴聴覚』。
分厚い雲海の下、数千メートルに沈んだ『旧世界』の微かな振動を聞き分ける力。
「深度三千。ポイント・デルタ。そこに何がある?」
ガルドが試すように睨む。
エリアンは目を閉じ、風の音を遮断する。
意識を集中させる。
足の裏、大気の震え、世界の軋み。
ドクン、ドクン。
「……サーバー、ルーム。冷却ファンが、まだ回ってる。でも、不整脈みたいに……乱れてる」
「当たりだ」
ガルドがニヤリと笑った。
その笑顔は、獲物を見つけた鮫のようだった。
「採用だ、モヤシっ子。俺と一緒に地獄の底へ行こうぜ」
ガルドが背負っていた巨大なアンカー(潜水鐘)を蹴り飛ばす。
重い金属音が響き、クレーンのワイヤーが悲鳴を上げた。
「え、い、今からですか!?」
「善は急げ、だ。それに、今日は『凪』だ。雲の化け物どもも昼寝してる」
ガルドはエリアンの襟首を掴むと、強引に鉄の棺桶――潜水鐘へと放り込んだ。
「ちょ、待っ――!」
ハッチが閉まる。
重厚なロック音。
エリアンの視界から、青い空が消えた。
「降下開始。深度ゼロ」
ガルドの声がスピーカーから響く。
ガクン、と世界が揺れ、エレベーターのケーブルが切れたような浮遊感が襲った。
エリアンは悲鳴すら上げられず、座席にしがみつく。
窓の外、眩しいほどの白が、すべてを塗りつぶしていく。
二人の冒険は、墜落から始まった。
第二章 灰色の亡霊たち
潜水鐘『鉄鯨(アイアン・ホエール)』号の中は、湿ったオイルの匂いがした。
深度計の針が、狂ったように回っている。
「深度八百。視界不良。ソナー、オフ」
運転席のガルドが淡々と言う。
「ソナーを切るんですか!? ぶつかりますよ!」
「雲の中じゃ、音波は乱反射して使い物にならねぇ。頼れるのはお前の耳だ、エリアン」
「む、無茶苦茶だ……」
エリアンはヘッドセットを耳に押し当てた。
ノイズが走る。
だが、その向こうに『音』があった。
キィィィィン……。
「右! 右に避けて!」
ガルドが無言で操縦桿を倒す。
直後、窓のすぐ横を、巨大な黒い影が掠めた。
『雲喰らい(クラウド・イーター)』。
空中に浮遊する、クラゲと深海魚を混ぜ合わせたような捕食者だ。
「あぶねぇな。今の距離、五メートルもねえぞ」
「だから言ったのに……!」
「ハハッ、いい耳だ。伊達にビビりじゃねえな」
ガルドは楽しそうに笑いながら、魔法瓶のコーヒーを煽る。
「……ガルドさんは、何を探してるんですか」
エリアンは震えを抑えながら尋ねた。
これほどの危険を冒してまで、旧世界に潜る理由。
金目のレアメタルか、古代のテクノロジーか。
「声だ」
「声?」
「俺の娘のな」
予想外の答えに、エリアンは言葉を失う。
「十年前に死んだ。流行り病でな。薬さえあれば助かったんだが……この空の上じゃ、アスピリン一錠が金塊より高い」
ガルドの義眼が、暗闇の中で赤く光る。
「死ぬ間際、あいつは何か言おうとしてた。だが、俺は仕事で外に出てて、最期を看取れなかった。残ったのは、留守電のデータが入ったサーバーのアドレスだけだ」
旧世界の遺産、クラウドサーバー。
地上が雲に沈んでも、地下深くのデータセンターは地熱発電で生き続けている場所がある。
「馬鹿げてるだろ? 死人の声を聞くために、命を張るなんてな」
「……いいえ」
エリアンは首を横に振った。
「僕も、聞きたい声があります。両親の……声が」
エリアンは孤児だった。
物心ついた時には、タワーズの孤児院にいた。
唯一の記憶は、温かい手と、子守唄のようなハミングだけ。
「似た者同士か」
ガルドが短く笑う。
「深度二千。そろそろ『底』だぞ。しっかり捕まってろ」
雲の色が、白から灰色へ、そして漆黒へと変わっていく。
気圧がきしむ。
窓ガラスに、水滴が叩きつけられる。
「来るぞ、エリアン。雲の下、かつて人類が支配していた世界だ」
ズズズン……!
潜水鐘が着地した。
泥と瓦礫の感触。
サーチライトが点灯する。
闇の中に浮かび上がったのは、見上げるような摩天楼の残骸。
そして、その壁面に絡みつく無数の蔦と、発光する苔。
「ここは……」
「旧トウキョウ。世界で一番、騒がしかった街だ」
第三章 アーカイブの番人
外圧に耐える強化スーツを着込み、二人は外に出た。
空気は重く、カビと鉄錆の匂いが肺にへばりつく。
「案内しろ、エリアン。心音はどこだ」
「……こっちです。地下鉄の入り口の方から」
エリアンは耳を澄ます。
規則的なリズム。
ドクン、ドクン。
それは確かに、巨大な機械が生きている証だった。
崩れた階段を降り、水没した改札を抜ける。
地下深く、かつて大深度地下シェルターだった場所。
重厚な扉の前に、二人は立った。
「ここだ。間違いねえ」
ガルドが携帯端末を取り出し、コードをハッキングする。
数分の格闘の末、プシュッという音と共に、数百年の眠りから覚めた扉が開いた。
冷気が溢れ出す。
中は、青白いLEDの光に満たされていた。
無数のサーバーラックが、墓標のように並んでいる。
『警告。冷却システム限界。炉心融解まで、あと四十五分』
無機質な合成音声が響いた。
「おいおい、時間制限付きかよ」
ガルドが舌打ちをして走り出す。
「エリアン、お前は西のセクターを探せ! 俺は東を見る!」
「わ、分かりました!」
エリアンは走った。
サーバーの唸り声が、頭の中で反響する。
無数の人々の記憶。
写真、メール、動画、日記。
かつて地上に生きていた数億人の『生きた証』が、ここには眠っている。
「あった……!」
エリアンは、一つの端末の前で足を止めた。
彼の両親の名前。
震える指で、再生ボタンを押す。
『……エリアン、ごめんね。私たちはもう、上には行けない』
母の声だ。
『この空気を、君に吸わせたくなかった。でも、希望はある。いつか雲が晴れる日が来る』
父の声。
『愛しているわ。ずっと』
涙がバイザーの中を流れた。
彼らは自分を捨てたのではなかった。
汚染された地上で、最期まであがいて、自分だけをカプセルで空へと逃がしたのだ。
その時、東のセクターからガルドの怒声が聞こえた。
「ふざけるなッ!」
エリアンは慌てて駆け寄る。
ガルドは、メインコンソールの前で膝をついていた。
「ガルドさん、どうしたんですか?」
「……ここには、無い」
「え?」
「娘のデータは……破損してやがった。十年分のアーカイブが、まるっと消えてる。冷却不足でな」
ガルドの声が震えている。
拳が、コンソールを叩き割らんばかりに握りしめられていた。
「俺は何のために……こんな所まで……!」
その時、再び合成音声が響く。
『緊急冷却プロトコルを推奨。外部排熱を開始しますか?』
画面に表示された文字を見て、エリアンは息を呑んだ。
『排熱先:上層大気圏(雲海生成)』
「……なんてことだ」
エリアンは呟いた。
「このサーバーが……雲を作ってたんだ」
サーバーが出す膨大な熱。
それを冷却するために海水を汲み上げ、蒸気として空へ排出する。
その蒸気が厚い雲となり、太陽を遮り、地上を死の世界に変え、人々を空の上の狭いタワーズへ追いやった。
この『過去の記憶』を守るために、今の世界が犠牲になっていたのだ。
「ガルドさん! これを止れば……雲が消えます! 空が晴れるんです!」
エリアンは叫んだ。
だが、ガルドは動かない。
『警告。冷却を停止した場合、全データは消失します』
「……全部、消えるのか」
ガルドが呟く。
「人類の歴史も、科学も、芸術も……お前の両親の遺言も」
エリアンはハッとした。
そうだ。
雲を晴らせば、両親の声も消える。
二度と、聞くことはできない。
「選べねえよ……。過去か、未来か、なんて……」
ガルドが力なく笑う。
地響きが激しくなる。
崩落が始まった。
第四章 選択の代償
天井から瓦礫が落ちてくる。
「エリアン、逃げるぞ!」
「でも、システムを……!」
「間に合わねえ! ここが潰れれば、どのみち雲は止まる! 俺たちの命までチップにする必要はねえ!」
ガルドがエリアンの腕を引く。
だが、出口への通路は、巨大な鉄骨によって塞がれていた。
「くそっ!」
ガルドが鉄骨を押すが、びくともしない。
残された道は、緊急排出用のダクトのみ。
だが、それは一人用ポッドしかなかった。
「……あーあ、ついてねえな」
ガルドは懐から、潰れた煙草の箱を取り出した。
中身は空だ。
「エリアン。入れ」
「え?」
「ポッドだ。お前が乗れ」
「嫌です! 二人で帰るって……!」
「定員オーバーだ。重量過多で二人とも墜ちる」
ガルドは乱暴にエリアンをポッドに押し込んだ。
「ガルドさん! あなたはどうするんですか!」
「俺は……やり残したことがある」
ガルドはメインコンソールの方を振り返った。
「娘のデータは消えたが、俺の記憶には残ってる。だが、このままサーバーが暴走して爆発すれば、上のタワーズも吹き飛ぶかもしれん。手動でシャットダウンして、安全に『死なせて』やる必要がある」
「嘘だ! 一緒に逃げましょう! お願いです!」
エリアンは泣き叫んだ。
ガルドは優しく、エリアンの頭に手を置いた。
その手は、ゴツゴツしていて、温かかった。
「いい耳を持ってるな、お前は」
ガルドが笑った。
「過去の声を聞く力じゃない。お前のその耳は……未来の音を聞くためにあるんだ」
「ガルドさん……」
「行けッ! 生きて、空を見ろ!」
ガルドが射出ボタンを叩いた。
爆発音。
猛烈なGがエリアンを襲う。
視界が遠のく中、最後に見たのは、崩れ落ちる天井の下で、煙草をくわえる真似をして笑う男の姿だった。
第五章 晴天の轟音
海面を割り、ポッドが飛び出した。
エリアンはハッチを開け、外へ這い出る。
「ガルドさん……!」
叫び声は、風にかき消された。
だが、次の瞬間。
世界が変わった。
厚く垂れ込めていた灰色の雲が、渦を巻いて消えていく。
サーバーの停止と共に、蒸気の供給が断たれたのだ。
光が、降り注ぐ。
それは、絵本でしか見たことのない色。
痛いほどの、青。
そして、黄金色の太陽。
「あ……あぁ……」
エリアンは空を見上げた。
涙が止まらなかった。
その時、耳元のヘッドセットから、ノイズ混じりの声が聞こえた。
『……聞こえるか、クソガキ』
「ガルドさん!?」
『悪いな。娘のデータ、見つかったわ。隠しフォルダに入ってやがった』
ガルドの声は、途切れ途切れだ。
『ああ、いい声だ……。なあ、エリアン。俺は今、娘と話してる。だから、心配するな』
「嘘だ……そんなの嘘だ!」
エリアンには分かっていた。
その通信には、崩落音と、炎の爆ぜる音が混じっていることを。
ガルドは最期まで、エリアンを安心させるために、優しい嘘をついていることを。
『すごいぞ。空が……晴れていくのが、モニターで見える。綺麗だ……』
ブツン。
通信が切れた。
後に残ったのは、ただ風の音だけ。
エリアンは泣き崩れた。
だが、その背中を、太陽の光が温かく包み込む。
彼は知っていた。
人類の記憶は失われた。
歴史も、文化も、海のアドレスも、すべて消えた。
けれど。
「忘れない……」
エリアンは胸に手を当てた。
「僕が、覚えている」
錆びた匂いも。
不器用な笑顔も。
最後の優しい嘘も。
エリアンは立ち上がった。
頭上には、どこまでも広がる蒼穹。
彼は一歩を踏み出す。
新しい世界に、その『音』を刻むために。