第一章 灰色の旋律
風が、錆びた鉄の味を運んでくる。
私の世界には光がない。
代わりに、音がある。
足元の砂利が擦れる音は、乾燥した高音のささやき。
遠くで崩れる廃ビルの音は、重低音の嘆き。
そして、私の指先が触れているこの小さな欠片。
「……ケイル、これ」
私は声を震わせる。
「歌ってる。すごく綺麗に」
隣で、革のコートがきしむ音がした。ケイルが屈み込んだのだ。
タバコの煙の匂い。苦くて、少し安心する匂い。
「ただのガラス片だ、エララ。くすんだ灰色だ」
彼の声はいつも乾いている。
感情をどこかに置き忘れてきたみたいに。
「違うの。これは『青』よ。深く澄んだ、チェロみたいな音がする」
「青、ねえ」
ケイルは鼻で笑った。
「お前のその『共感覚』ってやつも、大概にしろよ。この世界に色はねえ。空も、海も、俺たちの肌も。全部が泥のような灰色だ」
そう、ここは『無彩の世界』。
三百年前に起きた『大脱色』以来、人類は色彩を失った。
視覚は残ったけれど、全てはモノクロームの濃淡でしかない。
けれど、私には聞こえる。
失われたはずの色たちが、物質の中で眠りながら奏でる旋律が。
私は盲目だ。
光が見えない代わりに、色の音が聞こえる。
「行こう。日が暮れる」
ケイルが私の手を引く。
彼の手のひらは、ゴツゴツしていて硬い。
でも、そこから聞こえる音は、焚き火の爆ぜる音に似ている。
温かくて、少し寂しい、『オレンジ』の音。
私たちは歩き出す。
伝説の『プリズム・ハート』を探して。
世界に色を取り戻すという、おとぎ話のような希望を求めて。
第二章 廃墟の森と遠吠え
数日後、私たちは『鉄の森』にいた。
かつて都市だった場所。
今は、鉄骨が樹木のように空へ突き刺さっている。
「静かに」
ケイルが私の肩を強く掴む。
空気が張り詰める。
風が止んだ。
キィ、キィ、と金属が擦れるような不協和音が近づいてくる。
「『ノイズ・イーター』だ」
ケイルが小声で告げる。
音に反応して人間を襲う、変異した獣たち。
「エララ、俺の後ろにいろ。呼吸も殺せ」
銃の撃鉄を起こす音が、鼓膜に痛いほど響く。
(違う……)
私の耳には、もっと別の音が届いていた。
不協和音の中に混じる、悲痛な叫び。
それは攻撃の合図じゃない。
「撃っちゃだめ!」
私はケイルの腕にしがみついた。
「おい、何を!」
「聞こえるの! あの子たち、怖がってる。痛がってるのよ!」
「あいつらは化け物だぞ!?」
「紫色……鋭くて冷たい紫の音が突き刺さってる。何かに追われてるんだわ」
その直後だった。
ドォォン!
巨大な爆発音が、鉄の森を揺らした。
ノイズ・イーターたちが悲鳴を上げながら、私たちの脇を全速力で駆け抜けていく。
私たちを襲うどころか、目もくれずに。
砂埃が舞う中、ケイルが呆然と呟く。
「……逃げていった? 俺たちを無視して」
「言ったでしょ。彼らは怯えてた」
私は立ち上がり、爆発音がした方角へ顔を向ける。
そこからは、何も聞こえない。
あまりにも完全な、不自然な『無音』。
それが何より恐ろしい。
「あっちに、プリズム・ハートがある気がする」
私の言葉に、ケイルはため息をついた。
「お前の耳は、レーダーより優秀だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉だよ。……でも、助かった」
ボソッと言われたその言葉は、やっぱり温かいオレンジ色をしていた。
夜、私たちは崩れかけた建物の屋上で野営をした。
缶詰のスープをすする音だけが響く。
「ねえ、ケイル」
「ん?」
「あなたが知っている『灰色』って、どんな感じ?」
ケイルは沈黙する。
ライターの火をつける音がした。
「……つまんねえ色だよ。希望も絶望もない。ただ、そこにあるだけの現実だ」
「私には、世界は音楽に溢れてるわ。風はフルート、雨はピアノ、あなたの声は……」
「俺の声は?」
「秘密」
本当は、コントラバスだ。
低くて、腹の底に響いて、私を支えてくれる音。
「もし世界に色が戻ったら、俺にも聞こえるようになるのか? その音楽が」
「ううん。きっと、私には聞こえなくなる」
「え?」
「色が目で見えるようになったら、耳で聞く必要がなくなるもの。代償ね」
「……そうか」
ケイルは吐き捨てるように言った。
「なら、戻らなくていいかもな」
「どうして?」
「お前が楽しそうだからだ」
心臓が、トクンと跳ねた。
その音は、鮮烈な『赤』だった。
第三章 最深部の選択
地図にない地下深部。
そこは、かつて研究所だった場所らしい。
空気はカビ臭く、そして奇妙なほど澄んでいる。
「ここだ」
ケイルの声が反響する。
目の前にある巨大な扉。
そこから溢れ出す音の奔流に、私は膝をつきそうになった。
「すごい……! オーケストラがいるみたい!」
「扉が開くぞ」
重厚な音と共に、扉が開く。
その奥にあったのは、宝石ではなかった。
部屋の中央に鎮座する、巨大なガラスの円柱。
中には液体が満たされ、無数の管が繋がっている。
『生体認証を確認。管理者権限を仮定します』
無機質な合成音声が響く。
「これが、プリズム・ハートか?」
ケイルが端末を操作する。
モニターの光が、彼の顔を照らしているはずだ。
「……なんてこった」
「何が書いてあるの?」
「記録ログだ。『大脱色』の原因は、ウイルス兵器だった。人間の視神経から色彩を感じる細胞だけを破壊するウイルスだ」
ケイルの声が震えている。
「世界から色が消えたんじゃない。人間が、色を見る機能を失っただけだったんだ」
「じゃあ、この機械は?」
「抗ウイルス剤の散布装置だ。大気中に散布すれば、数ヶ月で全人類の視覚は正常に戻る」
「やった……! 旅は無駄じゃなかった!」
私は歓喜して、ケイルに抱きつこうとした。
けれど、彼は動かない。
彼の体から発せられる音が、急激に冷え込んでいく。
氷のような『青白さ』。
「……ケイル?」
「続きがあるんだ、エララ」
彼の声が掠れる。
「この装置は、有機生体コアを必要とする。つまり……抗体を生成するための『人間の心臓』を、フィルターとして組み込まなきゃ動かない」
時が止まった。
「誰かが、あの中に入らなきゃならないんだ」
私の頭の中が真っ白になる。
音楽が止んだ。
「そんな……じゃあ、誰かが死ななきゃ、世界は灰色のままってこと?」
「ああ」
沈黙。
永遠のような沈黙。
私は震える手で、自分の胸を押さえた。
「……私が、やる」
「は?」
「私には目が見えない。色が戻ったって、どうせ見えないもの。それに、私はずっとお荷物だった。あなたがここまで連れてきてくれたから……」
「ふざけるな!」
ケイルの怒号が響いた。
壁がビリビリと震えるほどの。
「お前が死んでどうする! お前が色を語ってくれたから、俺はここまで来れたんだ!」
「でも、他に誰がいるのよ!」
「俺がいる」
ケイルは静かに言った。
あまりにも静かに。
「俺はもう三十過ぎだ。肺も悪い。この灰色の世界で、十分に生きた」
「嫌よ! 嫌だ!」
私は彼の足元にしがみついた。
「ケイルがいなくなるなら、色なんていらない! このままでいい!」
「聞き分けのないガキだな」
ふわりと、体が持ち上げられた。
強い力で抱きしめられる。
タバコと、汗と、革の匂い。
そして、今まで聞いたこともない、黄金色の音が私を包み込んだ。
それは、慈愛の音。
「エララ。世界は美しいんだろ?」
「え……?」
「お前が言ってたじゃないか。赤は情熱、青は静寂、黄色は歓喜。俺は、それを見てみたいんだ。たとえ、俺自身の目じゃなくても」
「待って、ケイル、お願い……!」
「よく聞け。色が戻っても、お前は目が見えないままだ。だから、誰かが『その色が何色か』を教えなきゃならない」
彼は私の頭を撫でた。
「お前が教えるんだ。人々に、色がどんな音を奏でているかを。それがお前の役目だ」
ドスッ。
首筋に衝撃が走り、意識が遠のく。
彼の手刀だ。
薄れゆく意識の中で、私は聞いた。
カプセルが開く音。
液体が満ちる音。
そして、最期に彼が呟いた言葉を。
「……綺麗な音だ」
第四章 極彩色のシンフォニー
目が覚めたとき、私は一人だった。
風の音が変わっていた。
以前のような乾いた音じゃない。
水分を含んだ、柔らかく、豊かな音。
私は外へ出た。
目を開ける。
もちろん、何も見えない。
けれど、世界は激変していた。
轟音のようなシンフォニーが、天地を揺るがしていた。
草が風に揺れる音は、軽やかな緑色のピチカート。
空から降り注ぐ陽光は、圧倒的な金色のファンファーレ。
小川のせせらぎは、透き通った水色のアルペジオ。
「うっ……ううっ……!」
あまりの情報量に、涙が溢れて止まらない。
これが、世界。
これが、ケイルが取り戻した世界。
「見てる? ケイル……」
私は空に向かって手を伸ばす。
「聞こえるよ。世界は、こんなにもうるさくて、こんなにも綺麗だったんだね」
返事はない。
あの、不機嫌で温かいコントラバスの音は、もうどこにもない。
けれど、風の中に微かに混じる匂いがあった。
少し苦い、タバコの残り香のような。
私は涙を拭い、杖を握り直す。
遠くから、人々の驚喜の声が聞こえる。
「空が……青いぞ!」
「これが赤か!」
彼らは色を見ている。でも、その意味を知らない。
私は歩き出す。
極彩色のシンフォニーの中を。
この美しい世界がどんな音を奏でているのか、彼らに伝えるために。
私の冒険は、まだ終わらない。
(終)