第一章 錆びた喉と振動する世界
震動が、ブーツの底を叩いた。
音ではない。
もっと原始的で、暴力的な「波」だ。
エリオは反射的に身を屈め、廃工場の錆びついた手すりに指を這わせる。
指先の腹に伝わる微細なビリビリという感覚。
右だ。
崩落寸前のダクトの陰から、巨大な鉄塊――廃棄された警備ドローンが飛び出してくるのが見えた。
同時に、目の前の空間が爆風で歪む。
ドカーン、という轟音があったはずだが、エリオの世界には存在しない。
彼は生まれつき、音を知らない。
ただ、肌を粟立たせる空気の圧力と、視界の揺らぎで「それ」を感じるだけだ。
エリオは慣れた手つきで電磁ロッドを振り抜き、ドローンの関節部にある脆弱なセンサーを叩き割った。
火花が散り、鉄塊が痙攣して沈黙する。
「……ふぅ」
息を吐くと、白い蒸気が暗闇に溶けた。
ここは地下八〇〇層。
地上などというものが御伽噺になって数百年、人類はこの巨大な縦穴「シリンダー」にへばりついて生きている。
エリオの仕事は「聴覚屋」。
皮肉な話だ。
音のない彼が、旧時代の遺跡から「音源(レコード)」と呼ばれる記憶媒体を掘り出し、富裕層に売りさばいているのだから。
だが今日の獲物は違った。
瓦礫の山。
その頂に、不自然なほど綺麗な「少女」が座り込んでいた。
肌は陶器のように白く、関節には継ぎ目がある。
旧型のアンドロイドだ。
彼女はエリオに気づくと、口をパクパクと動かした。
声は聞こえない。
だが、彼女の胸部にあるコアが、規則正しく脈動しているのが見えた。
エリオはゴーグルをずらし、身振りで「動くな」と伝える。
しかし、彼女は怯えるどころか、エリオの手を取り、自身のか細い喉元に押し当てた。
指先に、温かい震えが伝わる。
歌っている?
いや、違う。
これは共鳴だ。
彼女の震動が、エリオの骨を伝い、心臓を直接ノックした。
『……わたしを、空へ連れて行って』
唇の動きと、指先から流れ込む電気信号のような直感。
エリオは眉をひそめた。
空?
この厚さ数キロの岩盤の天井の上に、まだ何かが存在するとでも言うのか。
「名前は?」
エリオが手話と発話で尋ねる。
彼女は再び喉を震わせた。
『アリア。最期の歌(ラスト・ソング)を奏でるもの』
その震えは、どこか泣いているように感じられた。
第二章 音のない二重奏
旅は、上へ上へと向かう過酷なものだった。
錆びついた昇降機を乗り継ぎ、酸性雨の降る居住区を抜け、時には「音食い」と呼ばれる変異生物の巣を迂回した。
アリアは奇妙なアンドロイドだった。
戦闘機能は皆無。
ただ、彼女が歌う――喉を震わせる――と、錆びついた機械たちが道を開けるのだ。
「ねえ、エリオ」
焚き火の前で、アリアがエリオの膝に指文字を書く。
『音がない世界は、寂しくないの?』
エリオはスープを啜りながら、肩をすくめた。
「静かなもんだ。嘘も、悲鳴も聞こえない」
『でも、愛の言葉も聞こえない』
アリアの指先が、エリオの手の甲を優しく撫でる。
「形が見えるさ。お前が今、俺のスープに毒を入れてないってことは、目で見てわかる」
エリオが笑うと、アリアは少し悲しげに瞳を伏せた。
『私の歌はね、破壊するためのものなの』
彼女は突然、告白した。
『空への扉を開く鍵。でもそれは、このシリンダーを支えているシステムを止めることでもあるわ』
エリオの手が止まる。
「ここが崩れるってことか?」
『崩れるんじゃない。生まれ変わるの。でも、今の生活はすべて終わる』
彼女はエリオの手を取り、再び自分の喉に当てた。
今度の震動は、激しく、熱かった。
『みんな、今のままでいることを望んでいる。だから私は廃棄された。でも、空は本当にあるの。青くて、広くて……とてもうるさい場所』
エリオには「青」がどんな色か、感覚的にはわからない。
だが、アリアの喉から伝わる震動には、焦がれるような熱量があった。
それは、冷たく湿ったこの地下世界には存在しない熱だ。
「連れて行くさ」
エリオは短く答えた。
「俺は聴覚屋だ。聞いたことのない音なら、どんな代償を払っても手に入れたくなる」
それが嘘だと、二人とも知っていた。
エリオはただ、彼女の震えが止まるのを見たくなかっただけだ。
第三章 空が割れる音
「最上層、到達」
網膜ディスプレイの表示が赤く点滅する。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
天井には無数の配管が血管のように張り巡らされ、中央には巨大なスピーカーのような装置が鎮座している。
「ここが、世界の蓋か」
追っ手の警備兵たちが背後から迫っていた。
レーザーの閃光がエリオの頬を掠める。
「行け、アリア!」
エリオは瓦礫の陰に滑り込み、最後のEMPグレネードを構えた。
アリアは中央の装置へと走る。
しかし、彼女は振り返った。
その瞳から、オイルのような涙が流れている。
『エリオ、耳を塞いで!』
彼女が叫んだ。
聞こえないはずの声。
だが、エリオの本能が警鐘を鳴らした。
アリアが装置に接続する。
瞬間、彼女の体が光の粒子となって分解され始めた。
歌だ。
彼女自身が「鍵」となり、膨大なエネルギーとなって解き放たれる。
追っ手の兵士たちが、次々と膝をつき、耳を押さえてのた打ち回る。
鼓膜を破るほどの高周波。
致死性の歌声。
だが、エリオだけが立っていた。
彼には聞こえない。
この世界を終わらせる破壊の歌が、彼にはただの「風」だった。
『ありがとう、エリオ。あなただけが、私を見つけてくれた』
視界の端で、アリアの唇がそう動いたように見えた。
光が飽和する。
天井の配管が弾け飛び、分厚い岩盤に亀裂が入る。
エリオは強烈な震動に耐えながら、上を見上げた。
岩盤が崩れ落ち、その向こう側から、暴力的なまでの光が差し込んでくる。
眩しさに目を細める。
瓦礫が降り注ぐ中、エリオは立ち尽くしていた。
静寂だ。
兵士たちも、シリンダーの喧騒も、すべてが光に飲み込まれて消えた。
ふと、頬に温かい風が当たる。
地下の湿った風ではない。
乾いて、何かの匂いを運んでくる風。
エリオはゆっくりと、空いた天井の先へ手を伸ばした。
指先が微かに震えている。
それは恐怖ではない。
世界が生まれ変わる鼓動。
アリアが命を賭して奏でた、最初で最後の「音」の余韻。
「……あぁ」
エリオの喉から、言葉にならない息が漏れた。
聞こえなくてもわかる。
今、世界は美しい音で満ちているのだと。
彼はゴーグルを外し、どこまでも続く「青」を見つめた。
その瞳に映る空は、アリアの瞳と同じ色をしていた。