空は自由の象徴なんかじゃない。
僕らにとっては、いつだって全てを飲み込もうとする巨大な捕食者の口だ。
その日、僕は錆びついた鎖を解き、自らその喉元へと飛び込んだ。
第一章 鎖に繋がれた空
「エリオ、風が変わったわ」
リラの声は、嵐の前触れにしてはあまりにも穏やかだった。
彼女の細い指が、空中に漂う見えない粒子を愛おしそうに撫でている。
「ああ、わかってる。湿った鉄の匂いがする」
僕はゴーグルの位置を直し、頭上を見上げた。
そこには地面がない。
あるのは、どこまでも広がる暴力的なまでの蒼穹(そうきゅう)。
この世界「インベル」では、重力が空へと向かって働いている。
僕たちが暮らす岩塊(コロニー)は、太古の巨人が打ち込んだとされる巨大な「天鎖」によって、かろうじて宇宙への落下を免れている状態だ。
「ねえ、青ってどんな色?」
リラが包帯で覆われた目を空に向ける。
生まれつき光を知らない彼女にとって、この恐怖の深淵はただの「音のない場所」でしかない。
「……死の色だよ」
僕は吐き捨てるように言った。
足元の鉄格子が軋む。
下を見れば(重力的な意味では上だが)、雲海の中に浮かぶ無数の岩塊と、それらを繋ぐ錆びた鎖の網目が見える。
もしこの鎖が切れれば、僕たちは悲鳴を上げる間もなく、あの上空の彼方へ「墜落」していくのだ。
僕は「風読み」としての才能を持っていた。
気流のわずかな乱れから、重力嵐(グラビティ・ストーム)の発生源を特定できる。
だが、皮肉なことに、僕は誰よりもこの空を恐れていた。
「出発の時間だよ、臆病なイカロス君」
背後から、長老のしわがれた声がした。
長老は僕に、古びた真鍮製のコンパスと、一枚の羊皮紙を押し付けた。
「リラを連れて『原初の核(コア)』へ行け。あの子の歌だけが、狂い始めた重力を鎮められる」
「正気か? 『原初の核』は高度一万メートルの成層圏だぞ。あそこまで行ったら、もう戻るための重り(バラスト)が足りない」
「行かねば、全コロニーが空へ墜ちる。選べ、エリオ。ここで座して死を待つか、足掻いて死ぬか」
リラが僕の袖を掴んだ。
震えている。
恐怖からではない、使命感に打ち震えているのだ。
彼女の背負ったリュックの中で、共鳴石が微かにハミングしているのが聞こえた。
僕は舌打ちをした。
最悪だ。
こんな華奢な少女と、ガラクタ同然の飛行艇で、死の青空へ特攻するなんて。
「……戻れる保証はないぞ」
「あなたとなら、怖くないわ」
根拠のない信頼が、僕の胸を締め付けた。
僕は係留フックを蹴り飛ばした。
蒸気機関が唸りを上げ、僕たちの乗る「羽虫号」が、重力に引かれて空へと「沈んで」いった。
第二章 盲目の航海士
高度が上がるにつれ、気温は氷点下へと急降下した。
飛行艇の窓ガラスに、霜の結晶が張り付いていく。
『重力偏差、正常値を超過。船体きしんでます、船長』
通信機から整備班のノイズ混じりの声が聞こえたが、僕はスイッチを切った。
聞かなくてもわかる。
船体は悲鳴を上げ続けている。
「エリオ、右舷(うげん)から何かが来る」
リラが突然叫んだ。
僕は操縦桿を強く握りしめる。
雲を突き破り、巨大な影が飛び出してきた。
「空鯨(スカイ・ホエール)だ!」
岩塊ほどもある巨大な生物が、重力の潮流に乗って遊泳している。
彼らは空へ墜ちる岩を餌にする。
当然、鉄の塊である僕たちの船も、格好のキャンディに見えるはずだ。
「捕まるなよ!」
僕は蒸気圧を最大まで開放した。
ブースターが火を噴き、強烈なGが全身を座席に押し付ける。
視界が歪む。
空鯨の巨大な口が、すぐ横を掠めていった。
その口の中には、かつて「墜落」した無数の家屋や瓦礫が詰まっているのが見えた。
「エリオ、聞こえる? クジラが泣いてる」
「泣いてる? 腹が減って唸ってるだけだろ」
「違う、寂しいのよ。彼らも本当は、地面に足をつけて眠りたいの」
リラは窓に手を当て、静かに歌い始めた。
それは言葉のない、透き通った旋律だった。
不思議なことに、その歌声が響くと、空鯨の動きが鈍くなった。
殺気立っていた巨体が、穏やかに身を翻し、雲の彼方へと消えていく。
僕は呆気にとられた。
「……お前、何者だ?」
「ただの歌うたいよ。でも、世界がどんな音を欲しがっているかはわかるの」
リラは笑ったが、その顔色は蒼白だった。
共鳴石を使うたびに、彼女の命が削られている。
僕は唇を噛んだ。
夜が来た。
この高度では、星が恐ろしいほど近くに見える。
輝きすぎていて、目が焼けそうだ。
「ねえ、エリオ。私の目の代わりをして」
狭いキャビンで、リラが言った。
「今、外はどうなっているの?」
僕は窓の外を見た。
下界には、豆粒のようなコロニーの灯りが見える。
あれが、僕たちがしがみついていた世界だ。
「……星の海みたいだ。僕たちの村も、他のコロニーも、みんな暗闇の中で光ってる」
「綺麗?」
「ああ、悔しいけどな」
「よかった。私の守りたい世界が綺麗で」
リラの手が、僕の手探りで探し当て、握りしめた。
その手は氷のように冷たかった。
彼女は知っているのだ。
この旅の終わりに、何が待っているのかを。
第三章 重力の特異点
三日目の朝、僕たちは「原初の核」に到達した。
そこは、あらゆる物理法則が崩壊した場所だった。
巨大なクリスタルの塊が、台風の目のように静止している。
周囲では、瓦礫や岩が渦を巻き、激しく衝突し合っていた。
「ここが、世界の頂上……」
息をするのも苦しい。
酸素濃度が薄すぎる。
リラはもう、自力で立つこともできなくなっていた。
「エリオ、あのクリスタルの中心まで連れて行って。そこで石を解放すれば、重力は元に戻るわ」
「簡単に言うなよ!」
僕は操縦桿を巧みに操り、瓦礫の雨を避けた。
だが、最後の防衛ラインとも言える逆巻く風の壁が、行く手を阻む。
ガガガガッ!
翼の一部が引きちぎられた。
警報音が鳴り響く。
「もう持たない! 飛び降りるぞ!」
僕はリラを抱きかかえ、コックピットのハッチを開けた。
強烈な風圧。
空へ吸い込まれるような引力。
僕たちはワイヤーアンカーを射出し、クリスタルの表面に取り付いた。
船はそのまま上昇気流に巻き込まれ、粉々に砕け散った。
帰る足は、もうない。
クリスタルの中心部には、古代の祭壇のような台座があった。
リラは這うようにしてそこへ向かう。
「エリオ、ありがとう。ここまで連れてきてくれて」
彼女はリュックから共鳴石を取り出した。
石は眩い光を放ち、周囲の空間を振動させている。
「これを台座に嵌めれば終わる。でも……」
リラの手が止まった。
「どうした、早くしろ!」
「質量が足りないの」
彼女は泣きそうな声で言った。
「この石を安定させるには、対価としての『質量』が必要なの。
誰かが、ここで永遠にアンカーとして留まらなきゃいけない」
僕は息を呑んだ。
長老の言葉が蘇る。
『戻れる保証はない』。
そういうことだったのか。
リラは僕の方を向いていない。
彼女は、自分がそのアンカーになるつもりなのだ。
石と共に結晶化し、人柱となって世界を繋ぎ止める。
「嫌だ」
僕は言った。
「エリオ、お願い。行って。あなたには風を読む才能がある。なんとかして気流に乗れば、下のコロニーまで戻れるかもしれない」
「ふざけるな! お前を置いて行けるか!」
「私がやらなきゃ、みんな空に墜ちて死ぬのよ!」
リラの目から涙がこぼれ、空へと舞い上がった。
その涙が、僕の頬に当たった。
熱かった。
僕は、自分の腰につけていた命綱を見た。
そして、リラの腰にも同じフックがあるのを確認した。
僕は笑った。
ひどく乾いた、自分でも驚くほど晴れやかな笑いだった。
「風読みの勘が言ってるんだ。今なら、最高の追い風が吹いてるってね」
僕はリラの手から共鳴石をひったくった。
「エリオ!?」
「質量が必要なんだろ? 僕の方がお前より重い。単純な計算だ」
「だめ! 返して! あなたは空が怖いはずでしょう!?」
「ああ、怖いさ。ちびりそうなくらいな」
僕は石を台座に叩き込んだ。
瞬間、世界が白に染まる。
強烈な重力の奔流が、僕の体をクリスタルへと縫い付けていく。
同時に、逆転していた重力が正常化を始めた。
体感的には「落下」が始まる。
僕はリラを抱き寄せ、彼女のベルトに付いていた緊急用のパラシュートを展開させた。
そして、僕と彼女を繋いでいた命綱を、ナイフで断ち切った。
「エリオ!!」
リラの体が、下(本来の地面の方向)へと落ちていく。
パラシュートが開き、彼女は白い花のように空中に留まった。
一方、僕はクリスタルに張り付けられたまま、空の頂点に取り残される。
「リラ、よく聞け!」
遠ざかる彼女に向かって、僕は叫んだ。
「空はもう、捕食者の口じゃない! 今日からここが、お前の見上げる『希望』だ!」
リラが何かを叫んでいるのが見えた。
だが、その声は風にかき消された。
次第に僕の体は結晶化し、感覚が遠のいていく。
寒さはもう感じない。
視界の端で、雲海が晴れていくのが見えた。
その向こうに、初めて見る「本当の大地」と、青く輝く水平線が広がっていた。
ああ、なんてことだ。
空はこんなにも、美しかったのか。
最終章 永遠の軌道
あれから数年が経った。
世界の重力は安定し、人々は恐怖に怯えることなく暮らしている。
空を見上げることは、もう禁忌ではない。
ある晴れた日、丘の上に立つ少女の姿があった。
彼女の目は見えないままだが、その顔は真っ直ぐに天を向いている。
「聞こえる? エリオ」
リラは風に語りかける。
「今日、風が南から吹いているわ。海の匂いがするの」
彼女は知っている。
遥か上空、成層圏の彼方で、一つの星が輝き続けていることを。
昼でも消えることのない、青白い「導きの星」。
それは、かつて空を誰よりも恐れ、そして誰よりも愛した、一人の臆病な少年の魂だ。
彼は今もそこで、風を読んでいる。
世界が道を誤らないように。
僕たちが、二度と空へ墜ちないように。
リラは微笑み、空に向かって手を振った。
その指先を、優しい風が包み込んでいった。