アウレリアの風が歌う時

アウレリアの風が歌う時

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第一章 褪せたインクと星の地図

埃と古い紙の匂いが満ちる静寂のなかで、僕、水無月理央(みなづき りお)は生きていた。都心にそびえる巨大な図書館の片隅、古文書修復室が僕の世界のすべてだった。虫食いのページを繕い、褪せたインクの文字を甦らせる。過去の断片に触れる仕事は、未来に何の期待も持てない僕にとって、唯一の慰めだった。

あの日、僕の机に置かれたのは、一冊の古びた航海日誌だった。表紙の革は硬化し、潮の香りが微かに染みついている。差出人は遠い親戚で、先日亡くなった祖父の遺品整理で見つかったものだという。僕の祖父。物心つく前に一度会ったきりの、海の男。父の話では、大した功績も残さず、ただ船に乗っていただけの、ごく平凡な男だったという。

「まあ、これも仕事だ」

僕は独りごち、修復作業に取り掛かった。何週間もかけ、脆くなったページを一枚一枚丁寧に補強していく。日誌に綴られていたのは、ありふれた航海の記録だった。天気、海流、立ち寄った港町のスケッチ。退屈な作業の繰り返し。だが、最後から数ページに差し掛かった時、僕は奇妙な違和感に気づいた。ページの余白が、不自然なほど広いのだ。

何気なく、インクの定着具合を確かめるための紫外線ランプを当てた。その瞬間、僕は息を呑んだ。

何も書かれていなかったはずの余白に、淡い光を放つ線が、蜘蛛の巣のように浮かび上がったのだ。それは複雑な星図であり、未知の航路を示す地図だった。そして、地図の中央には、震えるような筆跡でこう記されていた。

『アウレリア、歌う島へ』

心臓が大きく脈打った。アウレリア。そんな島の名は、どの海図にも存在しない。これは何だ? 平凡な船乗りだったはずの祖父が遺した、壮大な空想の産物か? 僕は嘲笑おうとした。だが、できなかった。星図に描かれた星々の配置が、現代の天文学の知識をもってしても、極めて稀な天文現象――数十年に一度しか観測できない、「蒼き星々の道」と呼ばれる連星群の配列と完全に一致していたからだ。

そして、その天文現象が起こるのは、今から、わずか一ヶ月後のことだった。僕の日常は、その日、音を立てて崩れ始めた。褪せたインクの下に隠されていたのは、ただの地図ではなかった。それは、僕の退屈な世界を根底から覆す、冒険への招待状だったのだ。

第二章 潮風の導きと老船乗り

「アウレリア? 馬鹿馬鹿しい。そんな島、あるもんか」

潮の香りが濃密に漂う港町。錆びたトタン屋根の酒場で、僕は一人の老船乗りに一蹴されていた。男の名はカイ。皺だらけの顔に、海の厳しさと優しさが同居している。彼が、祖父の数少ない友人だったと聞き、僕はなけなしの有給休暇をすべて使ってこの町まで来たのだ。

「でも、この日誌には確かに……」

「あんたの爺さん、水無月誠一郎は、大ぼら吹きだったんだよ。いつだって夢みたいなことばかり話していた。財宝の島だの、人魚の入り江だのな。この俺も若い頃は、その口車に乗せられて酷い目に遭った」

カイは苦々しくウイスキーを呷った。だが、その瞳の奥に、一瞬だけ寂しげな光が揺らめいたのを、僕は見逃さなかった。僕は黙って、紫外線ランプで光る地図を彼に見せた。カイは眉をひそめ、やがて険しい顔で地図と僕の顔を交互に見た。

「……この星の並びは、確かに爺さんが追い求めていた『道』だ」

「知っているんですか?」

「ああ。だが、誰もたどり着けなかった。あんたもやめておけ。海の素人が、夢物語を追って命を落とすだけだ」

彼の言葉は正論だった。僕は泳ぎもろくにできない、都会育ちのひ弱な司書だ。しかし、僕の心の奥底で、何かが叫んでいた。行かなければ、後悔する。このまま退屈な日常に戻れば、僕は二度と、自分の人生を肯定できなくなる。

「行きます」僕は言った。「一人でも、行きます。これは、僕がやらなければならないことなんです」

僕の目に宿る光に、カイは何を見たのだろう。彼は深く長いため息をつくと、「世話の焼ける爺さんにそっくりだ」と呟き、重い腰を上げた。「船の準備をする。だが、勘違いするな。これはあんたのためじゃない。誠一郎の奴に、あの世で文句を言うための、最後の航海だ」

カイの小さな漁船「シーガル号」は、僕らを乗せて大海原へと滑り出した。陸が見えなくなると、途方もない孤独と恐怖が僕を襲った。容赦なく叩きつける波、船を揺らす強風。僕は何度も船酔いで倒れ込み、自分の無力さを呪った。だが、その度に、カイの怒声と、祖父の日誌に記された航海術の知恵が僕を支えてくれた。

『嵐の前には、雲が魚の鱗のように見える』

『夜の海では、波の音で陸の方角を知れ』

机上の知識でしかなかった言葉が、命綱となっていく。僕は必死で帆を張り、舵を取った。手のひらの皮がめくれ、全身が潮と疲労で軋む。それでも、不思議と心は満たされていった。生きている。僕は今、確かに自分の足で立ち、自分の手で未来を切り拓いている。その実感は、何物にも代えがたい感動だった。カイとの間にも、いつしか言葉を超えた絆が生まれていた。

第三章 歌う島のレクイエム

星図が示す最後の夜が来た。空には、日誌の記述通り、「蒼き星々の道」が銀河を貫くように架かっていた。その光が指し示す先、水平線の向こうに、蜃気楼のように島の影が浮かび上がった。

「アウレリア……」

僕らはついに、たどり着いたのだ。喜びと興奮に胸を震わせながら、僕らは島に上陸した。しかし、僕らを待っていたのは、想像を絶する光景だった。

島には、財宝も、古代文明の壮麗な遺跡も、何もなかった。ただ、無数の穴が開いた、白く巨大な奇岩が林立しているだけだった。海から吹き抜ける風がその穴を通り抜けるたびに、まるで巨大な管楽器のように、言葉では表現できない不思議な音色を奏でていた。高く、低く、悲しげで、どこか懐かしい音。

「歌う島……そういうことだったのか」

カイが呆然と呟く。僕は膝から崩れ落ちた。これが、祖父が追い求めた伝説の島の正体? ただの、風が鳴る岩山? 僕の冒険は、このためにあったのか? 積み上げてきた期待が、ガラガラと音を立てて崩れていく。自分のしてきたことすべてが、無意味で滑稽な道化芝居に思えた。

失意のまま島を彷徨ううち、僕らは島の中心部に、人の手で積まれた小さなケルン(石塚)を見つけた。その根元に、錆びついたブリキの箱が埋められていた。震える手で蓋を開ける。中には、蝋で固められた手紙の束と、一枚の古いモノクロ写真が入っていた。

写真は、若き日の祖父と、僕の知らない美しい女性が、幸せそうに微笑み合っているものだった。祖母だ。僕が生まれるずっと前に亡くなったと聞いていた。そして、手紙は、祖父から僕の父に宛てられていた。

『一樹へ。もしお前がこれを読んでいるなら、父さんはもうこの世にいないだろう。そして、お前はアウレリアを見つけたということだ。驚いたか? 財宝などなくて。がっかりしたか? それでいい。父さんがこの島を探し続けたのは、金や名声のためじゃない。』

手紙を読み進めるにつれて、僕の視界は涙で滲んでいった。

『お前の母さん、つまり理央の祖母は、不治の病だった。日に日に弱っていく彼女は、最期にこう言ったんだ。「あなたの船で旅したかった。世界で一番美しい音を、聴きたかった」と。俺は、彼女のために、世界で一番美しい音を探して海へ出た。そして、この「歌う島」を見つけた。この島の風が奏でる音こそ、彼女に捧げるべき、最高の音楽だと思った。だが……俺がこの島を見つけた時、彼女はもう、旅立ってしまっていた。間に合わなかったんだ。』

祖父の冒険は、一攫千金を狙ったものではなかった。それは、ただ一人、愛する妻への想いから始まった、あまりにも純粋で、そして悲しい旅路だったのだ。日誌に隠された地図は、宝の地図ではなく、愛の証だった。僕の価値観は、根底から覆された。

第四章 心に響く羅針盤

僕は手紙を握りしめ、ただ泣いた。隣でカイも、黙って空を仰いでいた。彼の皺だらけの目尻にも、光るものがあった。

「誠一郎の奴……そんなことを……」

僕らはもう一度、島の音に耳を澄ませた。それはもはや、ただの風の音ではなかった。愛する人を失った男の慟哭であり、それでもなお捧げ続けられる、永遠の愛の歌だった。それは、どんな交響曲よりも深く、僕の魂を震わせた。祖父は間に合わなかったのかもしれない。しかし、彼の想いは、この島に、この風の音に、確かに宿っていた。

「じいちゃん、聞こえるよ。世界で一番、美しい音だ」

僕は空に向かって呟いた。

帰り道、シーガル号の甲板で、僕は祖父の日誌の最後のページを開いた。そして、持っていたペンで、自分の文字を書き加えた。

『祖父の冒険は、確かにここにたどり着いた。そして、その歌は、今も僕の心に響いている』

図書館に戻った僕の日常は、何も変わらない。相変わらず、埃と古い紙の匂いに包まれている。だが、僕自身は、もう以前の僕ではなかった。窓の外を吹く風の音に、遠いアウレリアの歌を聴く。書庫に並ぶ一冊一冊の本の向こうに、名もなき人々の、それぞれの冒険と物語を感じる。

僕の冒険は終わった。しかし、それは終わりではなく、始まりだったのだ。目に見えるものだけがすべてではない。結果だけが価値を決めるのではない。人の想いこそが、世界を動かし、誰かの心を照らす光になる。

祖父が遺してくれたのは、存在しない島の地図ではなかった。人生という長い航海で、道に迷った時にいつでも立ち返ることができる、「心に響く羅針盤」だったのだ。

ふと顔を上げると、窓の外の空はどこまでも青く澄み渡っていた。次の冒険は、どこへ向かおうか。僕の心の中で、新しい風が、静かに歌い始めていた。

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