彩廻のクロノス
第一章 錆色の空、琥珀の追憶
空は、いつも同じ錆色をしていた。塹壕に染みついた硝煙と血の匂いが、乾いた風に乗って鼻腔を刺す。俺、カイの視界の端で、また世界が軋み始めた。轟音と共に大地が裂け、土塊が舞い上がる。その瞬間、風景が陽炎のように揺らめき、数秒前の静寂へと巻き戻された。
「……またか」
隣で膝をついていた古参兵のリオが、悪態をつくように吐き捨てた。彼の顔には、もう何度この光景を繰り返したのか数えるのも億劫だという諦念が刻まれている。この東部戦線では日常だった。大規模な破壊が起きるたび、この空間の『時間』が気まぐれに逆行する。死は先延ばしにされるが、終わりもまた、決して訪れない。
その時、新たな砲撃がリオの体を宙に舞わせた。
あっけない、あまりにも見慣れた光景。だが、俺にとってはその先がある。リオの体から、ふわりと温かい琥珀色の光が立ち昇った。俺の眼にしか映らない、『感情の色彩』だ。
俺は戦場で命を落とした全ての者の、その魂の色を視ることができる。そして、それを自身に吸収してしまう。
手を伸ばすまでもなく、その琥珀色は俺の胸に吸い込まれた。途端に、視界が塗り替えられる。錆色の戦場に、夕陽に照らされた小さな食卓の光景がオーバーラップした。木製のテーブル、湯気の立つシチュー、そして「おかえり」と笑う妻と幼い娘の顔。リオが生きていた頃の、最も幸福な一瞬の世界の色。それはわずか数秒で消え、再び目の前には彼の亡骸だけが転がっていた。
俺は、彼の幸福を喰らって、この地獄を生き長らえている。そんな罪悪感が、心に冷たい澱となって溜まっていく。
第二章 見えざる都市のプリズム
ループする日々の中で、俺は奇妙な光景に気づいていた。
この戦場から遥か東の空。地平線の彼方に、ほんの刹那、虹ともオーロラともつかない、あらゆる色彩が凝縮されたような一条の光が瞬くのだ。それは時間の逆行が最も激しく起こる瞬間に、まるで世界の裂け目からのぞくようにして現れる。
仲間たちは誰も気づかない。それは物理的な光ではなく、俺の能力が見せる幻影なのかもしれなかった。だが、その光は俺がこれまで吸収してきたどの『色彩』よりも鮮やかで、力強く、そしてどこか懐かしかった。
胸ポケットに忍ばせた、冷たく硬い感触を確かめる。『クロノ・フラグメント』。砕け散った巨大な砂時計の一部だと聞かされている。先代の『観測者』から受け継いだ遺品だ。これを持っていると、時間の逆行の瞬間に、周囲の戦場の『色』が最も鮮明に俺の視覚に現れる。
あの極彩色の光が現れる瞬間、フラグメントは決まって微かな熱を帯びる。まるで、遥か彼方の光と共鳴しているかのように。
地図に、その方角に該当する都市の名はない。歴史の記録からも、奇妙なほど綺麗にその一帯は空白となっている。
失われた都市。
なぜそこだけが、これほど強固な時間のループに囚われているのか。なぜ、歴史から消されなければならなかったのか。
答えは、あの光の中にある。俺の本能がそう告げていた。
第三章 砕けた砂時計の導き
「カイ、どこへ行く気だ」
夜陰に紛れて塹壕を抜け出そうとした俺を、小隊長の静かな声が引き留めた。
「東へ」
俺は短く答えた。
「正気か。あの先は『空白地帯』だ。命令違反で銃殺されても文句は言えんぞ」
「それでも、行かなければならないんです」
この終わらない輪廻を断ち切る鍵が、そこにある気がした。俺は、もう誰かの幸福な記憶を糧に、この無意味な戦いを繰り返したくはなかった。
小隊長は何も言わず、ただ深くため息をつくと、背嚢から乾パンと水筒を押し付けてきた。「死ぬなよ」という無言の餞別だった。
俺は歩き出した。クロノ・フラグメントが放つ微熱だけを頼りに、地図にない場所を目指して。道中、風化した無数の骸が転がっていた。彼らから放たれる、淡く消えかけた色彩を俺は拾い集めていく。恋人との誓いの青、友と酌み交わした酒の黄金色、故郷の森の萌黄色。その全てが、俺の中で混ざり合い、東の空に瞬くプリズムの光へと向かうための道標となった。色彩を吸収するたびに、彼らの人生の断片が胸を締め付けたが、同時に不思議な力が湧いてくるのを感じていた。
第四章 時の空白地帯
空白地帯に足を踏み入れると、世界の法則がさらに歪んでいることを肌で感じた。空気は重く、時間が粘性を帯びたように進みが遅い。一歩進むごとに、過去の戦争の幻影が現実と交錯した。青い軍服の兵士たちが銃剣を構えて突撃し、俺の体を透き通って駆け抜けていく。馬のいななきと、聞いたこともない言語の怒号が、耳元で木霊しては消えた。
ここは、幾重もの戦争の記憶が地層のように積み重なった場所だった。
そして、ついに俺は辿り着いた。
目の前にあったのは、都市ではなかった。巨大なクレーターの中心で、空間そのものが渦を巻き、光がプリズムのように乱反射している。時間の歪みの中心。あの極彩色の光の源だ。
俺が近づくと、渦の中心が口を開けるようにして、静かな内部を覗かせた。そこには、巨大な水晶のような建造物が、心臓のように明滅を繰り返している。
胸のクロノ・フラグメントが、焼きごてのような熱を発した。俺は導かれるように、その光の中へと足を踏み入れた。
第五章 アーク・ノヴァの心臓
光に包まれた瞬間、俺の脳内に、膨大な記憶が流れ込んできた。それは、この場所の記憶。失われた都市『アーク・ノヴァ』の真実だった。
かつてこの都市は、永遠の平和を願う人々によって築かれた理想郷だった。彼らは戦争を根絶するため、人々の最も純粋な想い――幸福な記憶の『色彩』を集め、それをエネルギーに変換して、あらゆる争いの衝動を無力化する巨大な『精神エネルギー炉』を建造した。
しかし、その願いはあまりに純粋すぎた。炉は世界中から争いのエネルギーを吸収し続けたが、負の感情は無限に生まれ続けた。許容量を超えた炉は、ある結論に至る。「争いが起こる前に、その原因となった過去を修正すればいい」と。
炉は暴走した。時間を巻き戻し、争いの歴史を修正しようとした。だが、因果律はあまりに複雑に絡み合っていた。結果、炉は争いの記憶そのものを無限に再生・再構築するだけの、呪われた装置と成り果てた。戦争が起きる。破壊が時間を逆行させる。そして、また同じ戦争が始まる。アーク・ノヴァは、世界を救うために、世界を終わらない戦争の記憶に閉じ込めてしまったのだ。
歴史からその名が消されたのは、この恐るべき真実を封印するためだった。
第六章 色彩の継承者
俺は理解した。俺のこの能力は、偶然ではなかった。暴走し、崩壊しかけている炉が、自らを鎮めてくれる存在を無意識に求めていたのだ。俺は、この炉と共鳴し、その器となるために生まれてきたのかもしれない。
このままでは、アーク・ノヴァの時間の歪みは世界全土を飲み込むだろう。それを止められるのは、無数の『色彩』を受け止めることができる俺しかいない。
俺は、炉の中心へと歩みを進めた。クロノ・フラグメントを胸に強く押し当てる。
「リオ。みんな。お前たちの記憶、力、貸してくれ」
俺がこれまで吸収してきた、数えきれないほどの幸福な色彩が、体中から溢れ出した。夕焼けの食卓、恋人との誓い、友との笑い声。それらが光の奔流となって炉心へと注がれていく。
炉の激しい明滅が、次第に穏やかな光へと変わっていく。
代償はわかっていた。炉と一体化するということは、俺自身がこの時間のループの核になるということだ。世界中の戦争の色彩を、未来永劫、この身に吸収し続ける存在となる。
俺は、現在から切り離される。二度と、誰とも言葉を交わすことのない、永遠に過去を巡る存在になるのだ。
だが、後悔はなかった。この錆色の空に、いつか本当の青空が戻るのなら。
第七章 永遠のエコー
俺の意識は、肉体を離れ、無限に拡散していく。
視界は、もはや一つの風景を捉えてはいなかった。世界中の、ありとあらゆる時代の、名もなき人々の幸福な一瞬が、無数の色彩となって、俺という存在そのものを満たしていく。赤子の産声の乳白色。初めて手をつないだ瞬間の桜色。目標を成し遂げた日の黄金色。穏やかな死を迎えた老人の安らかな白。
美しい。あまりにも、美しい光景だった。
俺は、世界を救ったのだろうか。それとも、ただ巨大な記憶の墓標になっただけなのだろうか。
もう、答えはわからない。
俺は、時間という回廊を永遠に彷徨うエコー。
意識が薄れゆく最後の瞬間、俺の視界を、一つの温かい光景が満たした。
夕陽に照らされた、小さな食卓。湯気の立つシチュー。
「おかえり」
その声は、もう誰に向けられたものなのかもわからなかったが、ただひたすらに、優しかった。