星屑の心臓

星屑の心臓

0 4585 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 止まった心臓

リヒトの世界は、真鍮の歯車と磨き上げられたルビーの軸受け、そして秒針が刻む規則正しい音だけで構成されていた。戦時下にあって、彼が工房主を務める時計店は、まるで時間の流れから切り離された孤島だった。窓の外では、日に日に深刻さを増す戦争の気配が色濃くなっていたが、リヒトは意図的にそれに背を向けていた。ルーペ越しに見るミクロの宇宙に没頭することだけが、彼の心を世界の混沌から守る唯一の術だったのだ。

その日、工房のドアベルが乾いた音を立てた。入ってきたのは、背の曲がった一人の老女だった。使い古された黒いショールを目深にかぶり、その顔には深い皺が、まるで乾いた大地に刻まれた川筋のように走っていた。

「時計の修理を、お願いできますでしょうか」

掠れた声だった。彼女が震える手で差し出したのは、銀製の古びた懐中時計だった。ごくありふれた、何の変哲もない時計に見えた。リヒトは無感動にそれを受け取り、裏蓋を開けようとした。

「お待ちください」老女が静かに制した。「ただの修理では、ないのです」

リヒトは眉をひそめた。老女は続けた。その目は、渾身の力を込めて何かを訴えかけていた。

「この時計は、遠い東の戦線で戦う、たった一人の息子のものなのです。息子が出征する時、これを私に預けて言いました。『母さん、この時計が動いている限り、僕の心臓も動いている。だから、絶対に止めないでくれ』と」

リヒトは思わず口元を緩めそうになった。非科学的で、感傷的な迷信。戦地に赴く兵士が、残される家族にかける感傷的な言葉など、聞き飽きていた。

「ですが、一週間前、この時計は突然止まってしまいました。それ以来、私の胸は張り裂けそうで……。どうか、お願いです。この時計を、もう一度動かしてはいただけませんか。この時計が止まると、本当にあの子の命が……」

言葉は途切れ、老婆の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。リヒトは、その涙に狼狽した。彼の整然とした世界に、感情という名の不純物が混じり込んだような居心地の悪さを感じた。彼はため息をつき、無言で懐中時計を受け取った。非合理だと切り捨てることは簡単だった。しかし、老婆の絶望に満ちた瞳が、彼の心のどこか、硬く閉ざしていた扉をわずかにこじ開けた。

「……お預かりします。ただ、古いものですから、直る保証は」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

老女は何度も頭を下げ、リヒトの手を握りしめた。その手は氷のように冷たかった。彼女が去った後、工房には再び静寂が戻った。リヒトは手の中の銀の塊を見つめる。それはもはや単なる壊れた機械ではなく、見知らぬ兵士の「心臓」であり、母親の祈りの結晶だった。カチ、とも言わない沈黙が、やけに重く感じられた。

第二章 歯車の囁き

懐中時計の修理は、リヒトの予想をはるかに超えて難航した。裏蓋を開けた瞬間、彼は息をのんだ。そこには、彼が見たこともないほど複雑で、緻密な機構が収まっていた。まるで、満天の星空を小さな円の中に凝縮したような、狂気じみた美しさがあった。歯車の一枚一枚が、まるで手作業で削り出されたかのように繊細で、その配置は既存のどの設計思想にも当てはまらなかった。

リヒトは来る日も来る日も、その小さな宇宙と向き合った。町では配給の列が長くなり、夜ごと鳴り響く空襲警報のサイレンが、彼の集中を乱した。それでも彼は、ルーペを覗き込み続けた。それはもはや単なる仕事ではなかった。この謎めいた機構を解き明かしたいという、職人としての純粋な探求心が彼を駆り立てていた。

修理を始めて数週間が経った頃、彼はムーブメントの受け板に、微細な文字が刻まれているのを発見した。それは、インクで書かれたものではなく、針の先で彫られたような、か細い傷だった。

『君がこれを読む時、私は星になっているだろうか』

その言葉は、リヒトの胸を鋭く突いた。これは、老女の息子の字なのだろうか。戦地から送られた手紙に、この時計のことを認めていたのかもしれない。リヒトは初めて、顔も名前も知らない兵士の存在を、生身の人間として意識した。彼はどんな声で笑い、何を愛し、何を恐れていたのだろう。

時折、老女が心配そうに工房を訪れた。彼女は息子の話をした。息子は絵を描くのが好きで、特に空の雲を描くのが得意だったこと。出征前夜、二人でこの懐中時計の音を聞きながら、いつかまた平和な空を一緒に眺めようと約束したこと。リヒトは黙って耳を傾けながら、止まったままの時計と、老婆の語る思い出とを、心の中で重ね合わせていた。

戦争の影は、リヒトの日常にも侵食し始めていた。近所のパン屋の主人が徴兵され、向かいの家の窓には黒いカーテンが引かれた。通過する軍用列車が立てる地響きは、工房の床を微かに震わせ、棚に並んだ時計の振り子を一瞬だけ狂わせた。遠い世界の出来事だったはずの戦争は、すぐそこまで迫っていた。リヒトは焦燥感に駆られた。早く、この心臓を動かさなければ。何かに間に合わなくなる。そんな、根拠のない予感が彼を苛んだ。

第三章 灰と紋章

その夜、悪夢は現実になった。けたたましいサイレンが闇を引き裂き、遠くで地鳴りのような爆発音が響き渡った。大規模な夜間空襲だった。リヒトは修理途中の懐中時計を懐にしまい、慌てて工房の地下室へ避難した。揺れは数時間にわたって続き、彼の整然とした世界は、暴力的な力によって根底から揺さぶられた。

夜が明け、リヒトが地上へ戻った時、見慣れた街並みは消え失せていた。空は黒煙に覆われ、彼の工房の周囲は瓦礫の海と化していた。奇跡的に工房は倒壊を免れたが、窓ガラスはすべて吹き飛び、壁には大きな亀裂が入っていた。そして、彼の視線の先、老女が住んでいたはずの一角は、黒く焼け焦げた木材と瓦礫の山に変わっていた。

リヒトは言葉を失い、その場に立ち尽くした。絶望が、冷たい水のように彼の全身を浸していく。約束は、守れなかった。あの優しい祈りは、灰となって空に消えたのだ。

彼はふらふらと工房に戻り、作業台の前に座った。もう、意味などない。それでも、彼の指は自然に工具を手に取っていた。それはもはや、誰かのための行為ではなかった。失われた命への、そして無力だった自分自身への、贖罪の儀式だった。彼は寝食を忘れ、一心不乱に作業に没頭した。

そして、空襲から三日目の夕暮れ。ついにその瞬間が訪れた。リヒトが最後の一つの歯車をそっと噛み合わせ、極小のネジを締め上げた時、奇跡が起きた。

カチ……。

か細く、しかし確かな音が、静寂を破った。止まっていた心臓が、再び鼓動を始めたのだ。秒針が滑らかに動き出す。リヒトは涙が溢れそうになるのを堪え、安堵のため息をついた。その時だった。彼は、光の加減で裏蓋の内側に、これまで気づかなかったもう一つの刻印が浮かび上がるのを見た。

それは、鷲が歯車を掴む意匠の、小さな紋章だった。

リヒトの全身に鳥肌が立った。その紋章は、彼の祖父がかつて営んでいた時計工房の印だったのだ。そして、紋章の下には、さらに小さな文字でこう刻まれていた。

『1928年 我が息子、アルフレートへ』

アルフレート。それは、リヒトが生まれるずっと前、戦争に行くこともなく病で夭折した、父の名前だった。

頭が真っ白になった。どういうことだ? この時計は、祖父が父のために作ったもの? では、老女の息子とは一体誰なのだ?

リヒトは憑かれたように、祖父が遺した古いトランクを屋根裏から引きずり下ろし、中身をぶちまけた。黄ばんだ書類の束の中から、一通の手紙の写しを見つけ出した。それは、祖父が戦友の妻、つまり未亡人に宛てたものだった。

『……君の夫であり、私の親友であったクラウスの忘れ形見、ハンス君を、私が引き取り、我が息子アルフレートの弟として育てたい。しかし、様々な事情がそれを許さない。せめてもの償いに、アルフレートのために作ったこの時計を、ハンス君が大きくなった時に渡してほしい。この時計には、息子を想う父親の気持ちが込められている。血は繋がらずとも、ハンス君は私にとってもう一人の息子だ……』

老女の息子、ハンス。それは、祖父の親友の遺児。リヒトにとって、会ったことのない、血の繋がらない「叔父」にあたる存在だった。老女は、祖父の親友の妻だったのだ。一つの時計に込められた想いが、血の繋がりを超え、世代を超えて、今、この瓦礫の街でリヒトの手に委ねられていた。遠いと思っていた戦争は、彼の出生の、まさにその根幹に深く食い込んでいた。

第四章 未来を刻む音

すべての真実を知った時、リヒトは瓦礫の街の真ん中で、ただ静かに涙を流した。彼が修理していたのは、単なる機械ではなかった。それは、祖父の友情、父への叶わなかった愛情、そして見知らぬ叔父への祈りが幾重にも織り込まれた、時間の結晶そのものだったのだ。無関心でいられる戦争など、この世界のどこにも存在しなかった。遠い戦場の銃声は、巡り巡って自分の心臓を撃ち抜く一発だったのだ。

彼は、老女の家の焼け跡から、奇跡的に半分だけ形を留めていた小さな木製のオルゴールを見つけ出した。老女が「息子の宝物だった」と語っていたものだ。リヒトはそれを工房に持ち帰り、懐中時計の隣に置いた。そして、今度はそのオルゴールの修理を始めた。煤を払い、歪んだ櫛歯を一本一本丁寧に調整していく。それは、新しい使命のはじまりだった。

数年後、長く続いた戦争は終わりを告げた。リヒトの工房は再建され、街には少しずつ活気が戻ってきた。彼は、あの銀の懐中時計を、陽光が差し込む窓辺の一番目立つ場所に飾っている。持ち主のいないその時計は、今も正確に時を刻み続けている。それはもはや誰か一人のものではなく、この街で失われたすべての命のための、そして忘れ去られたすべての記憶のための時計だった。

人々は彼を「記憶の番人」と呼ぶようになった。彼は壊れた時計を修理するだけではない。時計にまつわる持ち主の物語を聞き、それを記憶し、次の世代へと語り継ぐ。彼は、無関心な職人から、人々の時間を繋ぐ語り部へと生まれ変わっていた。

ある晴れた午後、リヒトは窓辺に立ち、懐中時計の音に耳を澄ませていた。

カチ、カチ、カチ……。

その規則正しい音は、かつて彼が逃避していた無機質な音とは違って聞こえた。それは、祖父の囁きであり、父の心臓の音であり、会えなかった叔父ハンスの足音のようでもあった。

窓の外では、新しい時代に生まれた子供たちの屈託のない笑い声が響いている。その声と懐中時計の音が重なり合う。失われた命の鼓動と、未来の産声が織りなす、ひとつの音楽のように。

リヒトは静かに目を閉じた。星屑のように散っていった無数の命。その一つ一つに、守りたかった時間があった。その時間を、自分はこれからも刻み続けていく。それが、星になれなかった者として、この地上で生かされている意味なのだと、彼は確信していた。懐中時計の秒針は、これからも決して止まることはない。未来へと続く、希望の音を響かせながら。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る