第一章 青の消失
リヒトが世界の異変に気づいたのは、火曜日の朝だった。窓から差し込む光が、いつもより重く、鈍いことに違和感を覚えて目を開けた。空が、灰色だった。雲ひとつない快晴のはずなのに、そこには鉛を溶かしたような、のっぺりとした無彩色が広がっているだけだった。
「また、煙霧か……」
この街では、三年に及ぶ「東部戦線」の影響で、空が煤けることは珍しくなかった。だが、今日のそれは質が違った。彼の机の上には、昨夜書きかけだった手紙と、一本の万年筆。そのペン先からこぼれたインクの染みは、彼が愛してやまないウルトラマリンの色を失い、ただの黒ずんだ湿りになっていた。彼は慌てて窓を開け、眼下に広がる港を見た。海もまた、空と同じく生気のない灰色に沈黙していた。
世界から、「青」が消えていた。
街は静かなパニックに陥った。人々は空を見上げ、互いの青い瞳が色を失っていることに気づき、言葉をなくした。国営放送は昼過ぎ、「敵国による新型化学兵器の影響で、大気中の光の屈折率が一時的に変化している。人体に害はない」と繰り返した。だが、リヒトには分かっていた。これは戦争そのものが引き起こした現象なのだと。
リヒトは画家ではなかった。だが、彼は誰よりも色を愛し、その sắc彩を記憶し、記録することを自らの天命としていた。戦火が街の建物を破壊し、人々の笑顔を奪っていく中で、彼だけは失われゆく世界の美しさを、小さなスケッチブックに閉じ込めていた。茜色の夕焼け、新緑の公園、少女の黄色いリボン。それらがいつか失われることを予感していたからだ。だが、色が、その概念そのものが世界から剥奪されるなど、想像すらしていなかった。
彼はアトリエに駆け込み、絵の具のチューブを片っ端から開けた。コバルト、セルリアン、プルシアン。どれもがチューブから絞り出された瞬間、生命を失ったかのように灰色の塊へと変わった。リヒトの胸を、これまで感じたことのない種類の絶望が締め付けた。それは、故郷を失う悲しみとも、友人を失う痛みとも違う、世界の魂が根こそぎ抜き取られていくような、空虚な喪失感だった。
この日から、リヒトの戦いが始まった。それは銃も爆弾も使わない、たった一人の、記憶を巡る戦い。彼は残された色――赤、黄、緑――を、狂ったように紙片に描き留め始めた。世界が完全に色を失う前に。人間が、かつて世界がどれほど美しかったかを忘れてしまう前に。
第二章 記憶の番人
「青」が消えて一月が経った。人々は灰色の空に慣れ始め、青という色の記憶すら、日々の喧騒の中で薄れさせていた。そんな中、リヒトは街の片隅にある古書店で、一人の老人と出会った。エリアスと名乗るその老人は、色褪せた植物図鑑を手に、リヒトが熱心に模写している深紅の薔薇のスケッチを覗き込んできた。
「見事な赤だ。まるで血が通っているようだ」しわがれた声だったが、その瞳にはリヒトと同じ、世界に対する深い憂いが宿っていた。「君も、『番人』かね?」
「番人?」リヒトが問い返すと、エリアスは静かに頷いた。
「我々のように、失われゆくものを記憶し、留めようとする者のことさ。色はな、単なる光の波長ではない。それは感情の言語であり、記憶の錨だ。空の青は希望を、森の緑は平穏を、そして血の赤は生命そのものを我々に語りかける。政府はそれを『化学兵器』のせいだと言うが、儂は知っておる。これは、我々の魂が枯渇していく音なのだ」
エリアスもまた、リヒトと同じく色彩の記録者だった。だが、彼の方法は違った。彼は絵を描くのではなく、言葉で色を記録していた。「朝焼けの薔薇の、恥じらうような赤」「熟した檸檬の、弾けるような黄」。彼のノートには、色を表現する詩的な言葉がびっしりと綴られていた。
二人はすぐに心を通わせた。リヒトはエリアスに自らのスケッチを見せ、エリアスはリヒトに言葉の力を教えた。彼らは、互いの存在に一条の光を見出していた。灰色の世界で、二人だけがまだ色彩豊かな記憶の庭園を共有していた。
ある日、エリアスはリヒトに古い伝説を語った。
「この街の旧市街、戦争で封鎖された植物園の最奥に、『原色の花』が咲くという。赤、青、黄の三つの花弁を持つその花は、世界から色が失われる時に、すべての色彩を取り戻す力を持つと言われている」
「そんなものが、本当に?」
「さあな。だが、希望というものは、いつだって伝説の姿をして現れるものだ」エリアスは穏やかに笑った。
その言葉は、リヒトの心に深く刻まれた。以来、彼はスケッチブックの最後のページに、想像で描いた「原色の花」を何度も描き、来るべき日に備えた。残された色が、一つ、また一つと世界から薄れていくのを感じながら。
第三章 赤の殉教
運命の日は、前触れもなく訪れた。世界から、「赤」が消えたのだ。
それは夕暮れ時のことだった。リヒトがアトリエの窓から西の空を眺めていると、燃えるようだった夕焼けが、すうっと音もなく色を失い、墨汁を垂らしたような濃淡のグラデーションへと変わった。彼は自分の指先をナイフで浅く切った。流れ出た血は、黒いインクのように見えた。情熱も、愛も、怒りも、その象徴たる色を失った。人々はもはやパニックにさえならなかった。ただ、無感動に、無気力に、色褪せた世界を受け入れていた。感情の起伏そのものが、緩やかに摩耗し始めていた。
「行かねばならん」
夜、リヒトのアトリエを訪れたエリアスの顔は、固い決意に満ちていた。「赤を失った世界は、生命を失ったも同然だ。伝説が真実でなくとも、我々は確かめなければならん。我々が最後の番人なのだから」
二人は闇に紛れ、鉄条網が張り巡らされた旧市街の封鎖区域へと忍び込んだ。砲撃で半壊した建物の間を抜け、目的地である植物園跡地へと向かう。ガラスが砕け散った巨大なドームの中は、月明かりもなく、完全な闇が支配していた。懐中電灯の光が、枯れ果てた植物の骸を不気味に照らし出す。
ドームの中央、最も開けた場所に、それはあった。だが、それは花ではなかった。
鈍い金属光を放つ、巨大な機械だった。いくつものパイプやケーブルが絡み合い、心臓のように低く、不気味な唸りを上げていた。そして、その機械を守るように、数人の兵士が立っていた。彼らが着ていたのは、敵国のものではない、リヒトたちの祖国の軍服だった。
「……どういうことだ?」リヒトが呟いたその時、兵士の一人が彼らに気づいた。
「誰だ!」
閃光が走り、乾いた発砲音がドームに響いた。リヒトは咄嗟に身を伏せたが、隣にいたエリアスが、呻き声と共にゆっくりと崩れ落ちた。
「エリアスさん!」
リヒトが駆け寄ると、老人の胸から黒い液体が流れ出ていた。エリアスは震える手でリヒトの腕を掴み、機械を指差した。
「あれは……花ではない……あれは、人の感情を……吸い取っているのだ……」
老人の目は、機械の中心にある、脈動するガラス管に向けられていた。そこでは、 희미な光の粒子――おそらくは、この街の人々から奪われた色彩の残骸――が渦を巻いていた。
「恐怖、憎しみ……戦争に必要な感情を増幅させ……不要な感情……希望や、愛……それを色と共に消し去る装置……自国の、手で……」
リヒトは戦慄した。敵は外部にいるのではなかった。国は、国民を従順で無感動な駒にするために、自ら世界の色彩を、人間性を奪っていたのだ。すべては、戦争に勝つためという大義名分のもとに。
エリアスの瞳から、最後の光が消えた。その瞬間、リヒトの内で何かが焼き切れた。悲しみ、絶望、そして裏切られたことへの激しい怒り。彼の心象風景の中で、失われたはずの「赤」が、鮮烈な炎となって燃え上がった。それは、エリアスの血の色であり、リヒト自身の魂の色だった。
第四章 心に灯る色
リヒトがどうやってその場から逃げ出したのか、記憶は曖昧だった。気づけば彼は、夜明けの灰色の街を、エリアスの古いノートを抱きしめて彷徨っていた。彼の内面で燃え盛る赤い怒りとは裏腹に、世界は静まり返り、すべての感情が死に絶えたかのように見えた。
アトリエに戻った彼は、絵筆を握った。だが、何も描けなかった。紙の上に広がるのは、虚しい灰色だけ。色を奪われた世界で、色を再現することの無意味さに打ちのめされた。エリアスは死に、伝説は嘘だった。もう、何も残されていない。
絶望の淵で、彼は手に持っていたエリアスのノートを開いた。そこには、老人が生涯をかけて綴ってきた、色彩の言葉たちが並んでいた。
『空の青。それは、無限の可能性を映す魂の鏡』
『夕焼けの赤。一日の終わりに世界が流す、感謝の涙』
『若葉の緑。どんな冬の後にも訪れる、約束の徴』
言葉の一つ一つが、リヒトの心に染み渡り、彼の記憶の奥底に眠っていた色彩を鮮やかに呼び覚ました。そうだ、色は絵の具の中にあるのではない。チューブの中にあるのでも、光の波長にあるのでもない。色は、我々の記憶の中に、心の中に生きているのだ。
リヒトは絵筆を置いた。そして、街の中心にある、人々が無気力に行き交う広場へと向かった。彼は瓦礫の上に立ち、震える声で叫んだ。
「聞いてください!空は、灰色ではありません!」
人々は奇妙なものを見るように彼に視線を向けた。
「空は、青かったんです。どこまでも澄み渡る、希望のような青色だった!夏の入道雲は眩しいほどの白で、その影は深い藍色をしていた!皆、覚えていますか!」
彼は語り始めた。エリアスのノートにある言葉を、自らの記憶を紡ぎ合わせ、失われた世界の美しさを、人々の心に直接届けようとした。彼は夕焼けの赤を語り、新緑の息吹を語り、黄金色の麦畑を語った。彼の言葉は、最初はか細い響きでしかなかったが、次第に熱を帯び、力強くなっていった。
すると、奇跡が起きた。彼の話に耳を傾けていた一人の少女の瞳に、ほんの一瞬、微かな青色が宿ったように見えた。泣き出した老婆の頬を伝う涙は、夕陽の赤を映してきらめいた気がした。物理的に色が戻ったわけではない。だが、人々の心の中で、凍てついていた感情が、色彩の記憶と共に溶け出し始めていたのだ。
リヒトは悟った。これが、彼の新しい戦い方なのだと。彼はもはや色彩の記録者ではない。記憶の伝承者であり、希望の語り部なのだ。政府が機械で感情を奪うなら、自分は言葉で感情を、色彩を、人々の心に灯し続ける。
それから毎日、リヒトは広場で語り続けた。彼の周りには、少しずつ人が集まるようになった。彼らは、灰色の世界の中で、リヒトの言葉に耳を澄ませ、心の中にそれぞれの花を、空を、海を描いた。世界が再び色を取り戻す日は、来ないのかもしれない。だが、彼らの心には、誰にも奪うことのできない鮮やかな色彩が、確かに息づき始めていた。それは、絶望の灰色に対する、ささやかで、しかし何よりも気高い抵抗だった。