忘却の調律師
第一章 錆びたナイフの囁き
カイの指先が、瓦礫に埋もれた錆びたナイフの柄に触れた瞬間、世界が軋む音がした。
視界に迸る、未来の断片。それは常に最悪の結末だけを映し出す呪い。血の匂い、兄弟の罵声、そして肉を裂く鈍い感触。これから数時間後、この場所で些細な口論から生まれる惨劇の光景だった。カイは顔を顰め、ゆっくりと指を離す。ナイフが囁く未来の悲鳴が、まだ耳の奥で反響していた。
彼は立ち上がり、広場へ向かう。そこでは、もうじき惨劇の主役となる兄弟が、父の遺した懐中時計をどちらが受け継ぐかで言い争いを始めていた。
「やめておけ」
カイの乾いた声は、熱を帯びた空気に吸い込まれるように消えた。
「なんだ、お前は」
兄の方が、訝しげな視線を向ける。カイは言葉を選ばず、ただ予知した光景の断片を告げた。
「その時計は、お前たちの血を吸う。どちらかが死ぬまで、争いは終わらない」
その瞳に宿る昏い光に、兄弟は怯えたように後ずさる。人々が遠巻きに囁き合う声が聞こえた。「まただ」「不吉なことを言う」「触れた物の未来が見えるらしい」「争いの記憶だけを拾う男だ」と。カイは背を向け、その場を去る。彼にできるのは、警告だけ。信じるか否かは、彼らの問題だ。
この世界には『感情の対価』という理が存在する。どこかで憎しみや争いが生まれ、その感情が一定量を超えると、世界のどこかで、誰かの幸福な記憶がランダムに消滅していく。広場の隅で、老婆が孫の名を思い出せずに狼狽えている。恋人たちが、初めて出会った日のことを忘れて戸惑っている。カイの見る最悪の未来は、その対価を生み出す源泉だった。彼は、失われゆく幸福の残骸が舞う街を、ただ独り歩き続けた。
第二章 色褪せたリボンの記憶
「カイさん、ですね」
路地裏の陽だまりで膝を抱えていたカイに、澄んだ声がかけられた。見上げると、一人の少女が立っていた。エリアと名乗る彼女は、少し色褪せたリボンで髪を結んでいる。
「私の……母の記憶が、消えかけているんです」
彼女の声は、か細く震えていた。
「このリボンは母の形見なのですが、どんな顔で、どんな声でこれをくれたのか、思い出せなくなる時があるんです。まるで、古い絵の具が水に溶けていくみたいに」
エリアの瞳は、カイの能力の噂を聞いても怯むことなく、真っ直ぐに彼を射抜いていた。
「お願いがあります。『灰色の谷』を調べてほしいのです」
灰色の谷。国境紛争が絶えない、憎しみが渦巻く不毛の地。そこでは、絶えず小競り合いが起きているという。
「あそこの人間だけが、何も失っていない、と。争いの対価を払っていないという噂があるんです。もし、その謎が解ければ、母の記憶を取り戻せるかもしれない」
カイは首を振った。
「俺が行っても、最悪の未来を見るだけだ。誰も救えない」
「それでも」
エリアは一歩踏み出した。彼女の指先が、カイの外套の袖にそっと触れる。その瞬間、カイの脳裏に、彼女がリボンの記憶を完全に失い、泣き崩れる未来が過った。あまりにも鮮明な喪失のビジョン。それは、カイが最も見たくない種類の、静かな悲劇だった。
「……わかった」
カイは、絞り出すように答えた。自分の呪われた力が、この少女の最後の希望を打ち砕く未来を、ただ座して待つことなどできなかった。
第三章 灰色の谷へ
灰色の谷へと続く道は、まるで世界の傷跡そのものだった。乾いた風が埃を巻き上げ、錆びた鉄の匂いを運んでくる。二人は道すがら、打ち捨てられた小さな祠で、奇妙な装飾が施された砂時計を見つけた。カイが何気なくそれに触れると、ガラスの中の白い砂が、まるで墨を垂らしたかのように一瞬で黒く変色し、不気味に渦を巻いた。
「これは……」
『調律の砂時計』。古い伝承に残る、世界の感情の均衡を計るという遺物。争いの記憶を吸うと、その砂は黒く染まるという。カイはそれを懐にしまい、再び歩き出した。
谷に近づくにつれて、空気はさらに張り詰めていく。遠くで金属音が響き、怒声が風に乗って聞こえてくる。憎しみの濃度が、肌を刺すように濃密になっていく。
しかし、谷の入り口で見かけた住民たちの表情は、カイの予想を裏切るものだった。彼らの顔には、憎悪も、悲しみも、そして喜びさえも浮かんでいない。まるで能面のように無表情なまま、互いに武器を交え、荷物を奪い合っている。その瞳は昏く淀み、喪失感を覚えるべき幸福な記憶など、初めから存在しないかのようだった。ここだけが、『感情の対価』の法則から切り離されている。その異常さが、カイの背筋を冷たくさせた。
第四章 調律の塔
谷の中心には、天を突くように古びた石造りの塔がそびえ立っていた。憎しみの元凶はここだと、カイの本能が告げていた。塔の扉は固く閉ざされていたが、カイが『調律の砂時計』をかざすと、共鳴するように重い音を立てて開いた。
塔の内部は、異様な光景だった。螺旋階段の壁一面に、無数の砂時計が埋め込まれ、その全てから黒い砂が絶え間なく流れ落ちている。サラサラという微かな音が、まるで鎮魂歌のように響いていた。ここは、世界中の争いの記憶を収集する巨大な装置なのだ。
最上階に辿り着くと、そこには一人の人物が佇んでいた。深いローブで全身を覆い、顔は見えない。その『存在』は、この谷の憎しみを糧とし、世界の『感情の対価』の法則を捻じ曲げ、その全てを一身に引き受けているようだった。
「お前が……世界の記憶を奪っているのか」
カイが問いかけると、『存在』はゆっくりと首を振った。言葉はない。ただ、静かな圧力がカイを包み込む。
カイは覚悟を決め、その『存在』に触れようと手を伸ばした。その瞬間、懐の『調律の砂時計』が激しい光を放ち、甲高い音を立てて砕け散った。黒い砂粒が爆ぜ、カイの全身を嵐のように包み込む。視界が白く染まり、彼は時間の奔流に呑み込まれた。
第五章 最悪の平和
カイが見たのは、今まで何度も予知してきた『最悪の未来』だった。
だが、それは彼の知る光景とは全く異なっていた。
そこには血も、悲鳴も、争いも存在しなかった。ただ、完全な静寂と平穏があるだけ。人々は無表情に行き交い、微笑むことも、涙することも、怒ることもない。鳥は歌わず、風は音を立てず、世界から感情という色彩が完全に抜け落ちていた。
憎しみが消え、争いが根絶された果てにある世界。
喜びも、愛も、悲しみも、全てが対価として支払われ、失われた後の、究極の無。
これが、カイの能力が示し続けてきた『最悪』の正体だった。争いがもたらす結末ではなく、争いが完全になくなった世界の、魂の死。
目の前で、ローブの『存在』がゆっくりとフードを外した。
その下から現れたのは、深い皺が刻まれ、全ての感情が削ぎ落とされた、年老いたカイ自身の顔だった。
「……なぜ」
「これが唯一の救済だからだ」
未来のカイは、乾いた声で言った。
「『感情の対価』は、やがて世界そのものを崩壊させる。だから私は、世界の憎しみをこの塔に集め、我が身をフィルターとして濾過し、全ての感情を緩やかに消し去る道を選んだ。私が世界の憎しみを引き受けることで、人々は記憶を失うことなく、緩やかな安楽死を迎えることができる。それが、私が導き出した調律の果てだ」
灰色の谷は、憎しみを効率よく生み出すための培養地。住民たちは、感情を抜き取られた人形。全ては、この『最悪の平和』を実現するために。
第六章 選択
「君にも見えたはずだ。感情こそが、争いを生む病なのだと」
未来の自分は、静かに語りかける。その瞳は、もはや何の光も映さない深淵となっていた。
カイは選択を迫られていた。
このまま、未来の自分に全てを委ね、感情が消え去る平穏な終末を受け入れるか。
あるいは、それに抗い、憎しみと悲しみに満ちているが、同時に愛と喜びに溢れた、不完全な世界を守るか。
脳裏に、エリアの顔が浮かんだ。母の記憶を失い、悲しみに暮れる彼女の姿。だが、その悲しみこそが、彼女の中に確かに存在する、母への愛の証明ではなかったか。喜びも悲しみも、どちらか一つだけを選ぶことなどできない。それらは、光と影のように分かちがたく結びついているのだ。
失うことを恐れて、初めから何も持たないことを選ぶのは、生きているとは言えない。
「違う」
カイは、はっきりと呟いた。
「俺は、忘れたくない。憎しみも、悲しみも、そして……喜びも」
第七章 忘却の彼方へ
カイは、未来の自分へと、一歩、また一歩と歩み寄った。そして、ためらうことなく、その冷たい手に自らの手を重ねた。
「その重荷を、俺にくれ」
カイは自らの能力を、初めて己の意志で逆流させた。予知の奔流が、未来の自分――感情を管理する装置と化した哀れな男――から、彼が永い時間溜め込み続けた、世界の全ての憎しみと争いの記憶を、カイ自身の魂へと注ぎ込み始めた。
「ぐ……あああああっ!」
想像を絶する苦痛が、カイの全身を駆け巡る。何億、何十億という人々の憎悪が、彼の精神を焼き尽くしていく。
塔が、その存在意義を失い、ガラガラと崩れ始めた。カイは最後の力を振り絞り、呆然と立ち尽くすエリアの腕を掴んで塔の外へと飛び出した。
陽の光の下に倒れ込んだカイの髪は、一瞬にして雪のように白く変色していた。彼がゆっくりと顔を上げた時、その瞳からは、かつて宿っていた苦悩の色が消え、底なしの虚無が広がっていた。
彼はエリアに向かって、微かに微笑んだ。だが、それは筋肉が形作っただけの、感情の伴わない空虚な笑みだった。世界の憎しみを一身に背負うことで、彼は自らの感情を対価として支払ったのだ。
空を見上げると、灰色の谷を覆っていた分厚い雲が切れ、青空が覗いていた。世界のどこかで、誰かが失われた幸福な記憶を、ふと思い出しているだろう。
世界はひとまず救われた。だが、その代償は一人の青年の魂だった。
カイは、終わりなき争いの記憶と、感情を失った永遠の中で戦い続ける『調律師』となった。彼がその瞳に映す未来は、今もなお『最悪』のままだ。だが、その本当の意味を知るのは、もう彼一人しかいなかった。