第一章 錆びた子守唄
ヒビキは、錆びた鉄の匂いが支配する荒野に一人、膝をついていた。彼の名はヒビキ。失われた戦争の残響を聴く者。かつて「鷲ノ巣谷」と呼ばれたこの地は、半世紀前の大戦で空と大地が焦げ付いて以来、時間の流れが淀み、歪んでいる。彼の掌の上で、古びた『時を蝕む砂時計』の砂が、重力に逆らうように微かに揺らめいていた。
目を閉じると、彼の耳だけに世界の真実が流れ込んでくる。
――ゴウ、と風が唸る音ではない。それは、大地そのものが上げた断末魔の残響。
――カツン、と小石が転がる音ではない。それは、名もなき兵士の兜が岩に当たった、最後の響き。
ヒビキの能力は、単なる音の再生ではない。それは感情と時間の情報を伴う、魂のこだまだ。彼は、ここで散った兵士が母親に宛てて書いた、届かなかった手紙のインクの染みを聴く。砲弾が炸裂する直前、塹壕で震えながら口ずさんだ恋人のための子守唄を聴く。その歌声は、恐怖に擦り切れ、硝煙の味に染まっていた。
彼は、その一つ一つを丁寧に拾い上げ、心に記録していく。忘れられた者たちのための、弔いの儀式。それが彼の生業であり、呪いでもあった。
この能力が目覚めたのは、彼が故郷を戦火で失った幼い日。全てが燃え尽きた瓦礫の中で、彼は家族の最後の会話の残響を聴いた。その日から、彼の世界は過去の音で満たされた。
やがて彼は、世界中に点在する時間の歪んだ戦場を巡り始めた。目的は一つ。全ての残響が流れ着くという源泉、あらゆる音を吸い込み、完全な『無音』が支配する特異点――「静寂の戦場」の謎を解き明かすために。その中心に存在する『根源の沈黙』こそが、この世界を歪ませ、過去の悲鳴を永遠に響かせ続ける元凶だと、彼は信じていた。
第二章 逆流する砂
「静寂の戦場」へと続く道は、世界の理が剥がれ落ちる境界だった。昨日まで青々としていた森が、一歩踏み出した先では数百年後の姿であるかのように白骨化し、さらに進めば、まだ種子にもなっていない太古の湿原が広がっている。時間の流れが狂った奔流となり、ヒビキの感覚を揺さぶった。
彼が腰に下げた『時を蝕む砂時計』が、明確な反応を示し始めた。
くびれたガラスの中を、本来ならば下へ落ちるはずの砂が、まるで意思を持ったかのようにゆっくりと上へ、上へと逆流していく。そして、砂の一粒一粒が色を変え始めた。それは、彼がこれまで旅してきた戦場の色だった。百日戦争で流された血の色を映した緋色、焦土作戦で焼き尽くされた森の記憶を宿した灰白色、そして化学兵器が空を覆った「嘆きの沼」の不気味な緑色。
砂はもはやただの砂ではない。それは凝縮された過去、『記憶の砂』と化していた。
「……近い」
ヒビキは呟いた。聴こえてくる残響の質も変わってきていた。これまでは一つの戦場の音だったものが、今や複数の時代、複数の場所の戦争が混ざり合った、凄まじい不協和音となって彼の鼓膜を打つ。騎士の鬨の声と、戦車の履帯が軋む音が重なり、火縄銃の轟音と、未来兵器のレーザー照射音が交錯する。
無数の悲鳴と怒号が頭蓋の中で渦を巻き、立っていることさえ困難になる。ヒビキは歯を食いしばり、一歩、また一歩と足を前に進めた。この苦痛の先に、全ての答えがあるはずだった。
第三章 音のない心臓
そして、彼は辿り着いた。
世界の果てとでも言うべき、その場所。そこには何の音も存在しなかった。風の音、土を踏む音、自身の呼吸の音さえも、まるで分厚い壁に吸い込まれるかのように消え失せる。空気が振動するという物理法則そのものが、ここでは死んでいた。
「静寂の戦場」。
しかし、ヒビキの耳の奥には、その完全な『無音』の向こう側から、信じられないほどの音圧が感じられた。まるで巨大なダムの水門が、今にも決壊しようとしているかのような、膨大なエネルギーの胎動。人類が経験した全ての争いの残響が、この一点に集約され、圧縮され、解放の瞬間を待ちわびている。
彼はごくりと唾を飲んだ。その嚥下音さえ、喉で消えた。
砂時計の『記憶の砂』は、今はもう特定の色を持たず、虹色のプリズムのように乱反射する光を放っている。それは人類の闘争史そのものの輝きだった。
ヒビキは覚悟を決めた。震える足で、無音の領域へと一歩踏み入れる。
その瞬間、世界から色が褪せた。視界がモノクロームに染まり、肌を撫でる風の感触が消え、鉄と血の匂いも掻き消えた。五感のうち、聴覚以外の全てが奪われていく。ただ、脳内に直接響く過去の奔流だけが、より鮮明になっていく。彼は、音だけの存在になっていくようだった。
第四章 停止した世界の回廊
「静寂の戦場」の内部は、時が永遠に停止した、巨大なジオラマだった。
舞い上がった土埃が、空中で静止している。振り下ろされる寸前の剣が、陽光を反射したまま固まっている。兵士の口から吐き出された白い息が、凍てついた彫刻のように漂っていた。憎悪、恐怖、祈り。あらゆる感情が剥き出しのまま、永遠に展示されている。
ヒビキはその凍りついた悲劇の回廊を、ただ一人歩いていく。彼の耳にだけ響く無数の声が、道標のように彼を中心へと導いていた。
中心に近づくにつれて、ヒビキは奇妙な違和感に気づいた。流れ込んでくる数多の残響の中に、他のものとは異質な、しかしどこか懐かしい響きが混じっている。
『……やめろ……もう、誰も傷つけないで……』
それは、戦火で故郷を失った日の、幼い自分の泣き声だった。
『この力は、悲しみを記録するためだけにあるのではない。終わらせるためにあるのだ』
それは、この能力の使い方を教えてくれた、今は亡き師の厳しくも優しい声。
そして――。
『これで、終わるんだ。全ての争いの音は、僕がこの身で封じる……永遠に』
その声に、ヒビキは全身の血が凍るのを感じた。聴いたことのない声。だが、自分の声だと直感で理解した。それは、まだ経験していないはずの未来を語る、年老いた自分の声だった。
砂時計が、ひときわ強く輝いた。
第五章 我が名は沈黙
戦場の中心。そこには、巨大な黒曜石のような、滑らかで冷たい球体が鎮座していた。光も、熱も、そして音も、全てを飲み込む絶対的な虚無。それが『根源の沈黙』の正体だった。
ヒビキが恐る恐る手を伸ばし、その漆黒の表面に指先が触れようとした瞬間――彼の精神に、奔流となって真実が流れ込んできた。
ビジョンが見えた。
争いが絶えず、世界が滅びゆく未来。全ての希望が失われた中で、一人の男が立ち上がった。彼はヒビキだった。年老い、全ての残響をその身に宿した彼は、争いの連鎖を断ち切るため、究極の決断を下した。
彼はこの地に、人類史上の全ての『争いの音』を集め、自らの存在そのものを楔として、時間ごと封印したのだ。平和な世界の歌声も、愛を囁く恋人たちの声も、未来に生まれるはずだった赤子の産声も、争いの残響と区別がつかなくなった彼は、その全てを『音』として憎み、封じた。
しかし、その願いはあまりに強大すぎた。彼の意思は摩耗し、風化し、ただひたすらに『音』と『時間』を吸収し続けるだけの、意思なき法則へと成り果ててしまった。それが、この『根源の沈黙』だった。
未来の自分は、平和を願うあまり、世界から音という概念そのものを奪おうとしていた。喜びも悲しみも、全てを等しく無に還すことで。
第六章 世界が再び歌う日
目の前にあるのは、平和という理想が暴走した成れの果て。未来の自分自身の、巨大な墓標。
ヒビキは選択を迫られていた。
この『沈黙』を、自分が新たな楔となって受け継ぐか。そうすれば、争いのない、音のない静かな世界が維持されるだろう。
それとも。
この封印を解き、全ての音と時間を世界に還すか。そうすれば、世界は再び色彩と音を取り戻す。しかし、それは憎しみや悲しみの声、そして新たな争いの火種が生まれる可能性を受け入れることでもあった。
ヒビキは、虹色に輝く『記憶の砂』で満たされた砂時計を、そっと胸に抱いた。この砂の中には、確かに無数の悲しみがあった。だが、同じだけ、希望の音も眠っている。戦場で兵士が夢見た、故郷の祭りの喧騒。家族の笑い声。愛する人の、優しい歌声。
「悲しみも、喜びも……どちらかだけなんて選べない」
ヒビキは静かに呟いた。
「どちらもあって、世界なんだ」
それは、未来で過ちを犯す自分自身への、そして過去の悲しみに囚われていた自分自身への、訣別の言葉だった。
彼は砂時計を高く掲げ、『根源の沈黙』に叩きつけた。ガラスが砕け散り、虹色の『記憶の砂』が光の粒子となって、漆黒の球体に吸い込まれていく。それは、失われた喜びの音を、悲しみの塊に還していく儀式だった。
メシリ、と。
『沈黙』に、亀裂が走った。
亀裂から温かい光が溢れ出し、漆黒の球体は内側から崩壊していく。その瞬間、停止していた世界の時間が、ゆっくりと動き始めた。空中で静止していた土埃がはらりと落ち、固まっていた兵士たちの姿は砂のように崩れて大地に還っていく。
最初にヒビキの耳に届いたのは、頬を撫でる、優しい風の音だった。
次いで、遠くで鳥がさえずる声がした。
やがて、遥か彼方の街の、人々の営みのざわめきが聴こえてきた。
かつて彼を苛んだ、過去の残響はもう聴こえない。彼の耳には、ただ今を生きる世界の「音」だけが、美しく響いていた。特殊な能力は、役目を終えて消えたのかもしれない。
ヒビキは、生まれ変わった世界で、静かに微笑んだ。争いの可能性は、確かにこの世界に戻ってきた。だが、彼は信じたかった。悲しみの歌の隣で、いつか喜びの歌が生まれる未来を。
彼は、音に満ちた世界へと、確かな足取りで歩き出した。