忘却へ哭く樹

忘却へ哭く樹

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第一章 泥濘と走馬灯

雨が降っている。

泥と油、それから鉄錆の臭いが鼻腔にこびりついて離れない。

「……う、あ……」

軍靴の下で、男が痙攣した。

喉笛から漏れる空気の音が、壊れた笛のように鳴る。

僕は震える指先を、泥水に濡れた男の額へと伸ばした。

触れたくない。

吐き気がする。

けれど、拒めない。

指の腹が、冷え切った皮膚に触れた。

瞬間、視界が白く弾ける。

――焦げたバターの匂い。

――暖炉の爆ぜる音。

――幼い少女の高い笑い声。

『パパ、おひげ痛い!』

温かな食卓の情景が、僕の脳髄を直接殴りつけてくる。

心臓がドクンと跳ねた。

他人の幸福が、熱湯のように血管を駆け巡る。

痛い。眩しい。羨ましい。

僕は歯を食いしばり、自分の記憶にしがみついた。

意識の深層、たった一つだけ残っている「僕」の色彩。

夏の川辺。

釣り竿を握る父さんの、分厚い手のひらの熱。

水面を跳ねる光の粒。

リールを巻く、カリカリという乾いた音。

(混ざるな……これは僕のものだ……!)

必死に自我の堤防を築く。

だが、死にゆく男の絶望は、黒い津波となって僕の抵抗を飲み込んだ。

視界が反転する。

男の意識の底、故郷の村。

その中心にそびえる『嘆きの記憶樹』。

樹皮は老婆の皮膚のようにひび割れ、蠢いている。

男の魂から、「帰りたかった」という無念が黒い樹液となって滲み出し、根に吸い上げられていく。

その代償として、故郷で眠る娘の枕元に、悪夢の胞子が降り注ぐのが見えた。

「ぁ……あ……」

男の瞳から光が消える。

同時に、僕の喉元まで胃液がせり上がった。

泥の中に顔を突っ込み、嘔吐する。

「おい、カイ。収穫は?」

頭上から降ってきたのは、氷のような声だった。

隊長だ。

彼は汚物を見るような目で、僕の背中を軍靴で小突いた。

「敵の補給路か? 伏兵の配置か?」

僕は激しく咳き込みながら、地面を掻きむしる。

爪の間に泥が食い込む。

「……か、彼には……五歳になる娘が……」

「ゴミくずめ」

隊長は吐き捨て、僕の髪を乱暴に掴み上げた。

「お前は『道具』だ。感情などという不純物を混ぜるな。必要な情報だけを濾過しろ」

無理やり顔を上げさせられる。

死んだ男の、見開かれた目と視線が絡んだ。

その濁った瞳の鏡に、僕自身の顔が映っている。

恐怖に歪み、涙と泥にまみれた、人殺しの顔。

僕の中で、川辺の記憶と、暖炉の記憶が混濁する。

僕はカイなのか?

それとも、故郷に娘を残して死んだ兵士なのか?

境界線が、またひとつ、音もなく溶けていった。

第二章 ガラスの棺

前線の塹壕は、巨大な胃袋のようだった。

腐敗していく肉塊を、泥濘がゆっくりと消化している。

敵も味方もない。

ただ、静寂だけが横たわっている。

僕はその死体の山をかき分け、光るものを探していた。

ぬるりとした泥の中から、奇妙な感触が指に触れる。

ガラス片のような、虹色の結晶。

『源流の記憶石』。

拾い上げた瞬間、脳が焼けるような頭痛に襲われた。

「ぐっ……!」

視界の端で、瓦礫にもたれかかっていた敵兵の老人が動いた気がした。

腹部がない。

内臓がこぼれ落ちている。

助かるはずのない傷だ。

老兵は僕を見なかった。

虚空を見つめ、ただ口をパクパクとさせている。

声にならない言葉を吐き出しながら、彼は震える手で懐から何かを取り出した。

古びたロケットペンダント。

中には、若い女性の写真。

老兵の指がペンダントに触れ、そして力が尽きた。

首ががくりと落ちる。

僕は吸い寄せられるように、彼の手からこぼれ落ちたペンダントと、その指先に残る『死の残滓』に触れた。

その瞬間、世界が裏返った。

言葉ではない。

映像でもない。

もっと生々しい『感覚』が、脳内に濁流となって流れ込んでくる。

――寒い。

――暗い。

――吸われている。

老兵の最期の視覚情報が、僕の視界をジャックする。

彼は見ていた。

戦場の地下深く、大地の血管のように張り巡らされた、醜悪な『根』を。

その根は、地上の『嘆きの記憶樹』へと繋がっているのではない。

逆だ。

すべての樹の根が、地下の『何か』に栄養を送っている。

僕たちの悲鳴。

後悔。

絶望。

それらが極上のスープとなって、地下で蠢く巨大な口へと注がれている。

(……牧場?)

唐突に、そのイメージが浮かんだ。

戦場ではない。

ここは、感情を搾取するための肥育場だ。

敵国も、祖国も、憎しみ合うように『仕向けられて』いる。

老兵の記憶の中で、空が剥がれ落ちた。

青空だと思っていたものは、精巧な舞台装置の書き割りに過ぎない。

その向こう側には、冷たく、飢えた『捕食者』の目が無数に並んでいる。

「……う、そだ」

僕は後ずさり、尻餅をついた。

背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。

老兵が最期に感じたのは、家族への愛慕ではなかった。

自分がただの『餌』として消費されたことへの、底知れぬ虚無。

手の中の記憶石が、ドクドクと脈打ち始めた。

まるで心臓のように。

鋭い角が掌に食い込み、血が滲む。

熱い。

石が僕の血を吸って、赤く輝き始める。

(許さない)

心の奥底で、何かが弾ける音がした。

僕が読み取ってきた何千もの死。

奪われてきた温かな夕食の記憶。

娘を呼ぶ声。

恋人の体温。

その全てが、ただ奴らを太らせるための肥料だったなんて。

「終わらせる」

僕は泥だらけの手で涙を拭った。

立ち上がる足に、もう震えはなかった。

僕の中には、死んでいった何千人もの『怒り』が渦巻いている。

そして、決して手放してはならない『川辺の記憶』が、冷たく澄んだ光を放っていた。

第三章 希望の飽和

地下遺跡の最深部。

そこは、生物の内臓の中を歩いているようだった。

壁も床も、脈動する肉の膜で覆われている。

湿った空気が、生温かい呼吸音を立てていた。

「……ここか」

僕はよろめきながら、空間の中央へと進んだ。

そこには、巨大な結晶体が鎮座していた。

『源流の記憶石』の親玉。

いや、これは石ではない。

半透明の被膜の中で、無数の神経束が蠢く、巨大な脳髄だ。

『憎イ……憎イ……』

『痛イ……殺シテ……』

結晶体から、無数の声が響いてくる。

地上から吸い上げた怨嗟の声だ。

その圧だけで、鼓膜が破れそうになる。

僕以外の兵士なら、ここに立った瞬間に発狂していただろう。

だが、僕には聞こえすぎた。

死者たちの声に慣れすぎていた。

「お前が、元凶か」

結晶体が反応し、紫色の光を放つ。

触手のような血管が、僕に向かって伸びてきた。

拒絶。殺意。

僕は逃げなかった。

むしろ、そのブヨブヨとした表面に、両手を突き立てた。

「ぐああああああ!」

皮膚が焼ける。

神経が沸騰する。

絶望という名の猛毒が、僕の血管を逆流してくる。

心をへし折ろうとする圧倒的な『否定』の力。

だが、僕はその波に逆らって、心の鍵をこじ開けた。

「食らえ……!」

僕の中に蓄積された、兵士たちの最期の記憶。

彼らが死の瞬間に縋った、人生で最も美しかった瞬間。

それを全て、解き放つ。

母のシチューのコクのある味。

初めて繋いだ手の、汗ばんだ温もり。

赤ん坊のミルクの匂い。

金色の夕焼け。

雨上がりの草の香り。

『ギ、ギギギ……!?』

結晶体が痙攣した。

紫色の光が乱れる。

奴らは『負の感情』しか消化できない。

純粋で、温かく、輝かしい『肯定』の奔流は、奴らにとって致死性の猛毒だ。

「もっとだ……まだ足りない!」

結晶体の内部で、色が混ざり合い、濁っていく。

不協和音が空間を揺らす。

異質な悲鳴があがり、肉の壁が剥がれ落ちていく。

僕は、最後の一線を越える覚悟を決めた。

懐かしい川のせせらぎ。

父さんの大きな背中。

冷たい水飛沫。

僕という人間を繋ぎ止めていた、唯一の錨。

(さよなら、父さん)

僕は、僕自身の記憶を捧げた。

川の音が、結晶体の中へと流れ込んでいく。

眩しい夏の日差しが、紫色の闇を切り裂いていく。

記憶が抜けていく。

名前が消える。

痛みが遠のく。

自分が誰だったのか、思い出せなくなる。

目の前の醜悪な塊が、内側から白く発光し始めた。

亀裂が入る。

そこから溢れ出したのは、神々しい黄金色の光。

ドクン。

ドクン。

パーン!

何かが弾け飛ぶ音がした。

機械的なエラー音ではない。

もっと有機的な、巨大な命が砕け散る音。

ああ、なんて綺麗なんだろう。

戦争も、痛みも、嘆きもない。

ただ、温かい光だけがある。

僕はその光に抱かれ、溶けていった。

最後に残ったのは、名前のない願いだけ。

(みんな……しあわせに……)

最終章 空白の碑文

柔らかな風が、草原を渡っていく。

かつてそこが大虐殺の行われた戦場だったとは、誰も信じないだろう。

塹壕の跡も、焼け焦げた鉄条網も、不気味にそびえ立っていた『嘆きの記憶樹』も、跡形もなく消え去っていた。

一面のシロツメクサ畑。

小高い丘の上で、一組の親子がピクニックをしている。

「ねえ、パパ。これなあに?」

七歳になる少年が、草むらから何かを拾い上げた。

錆びついた金属片だ。

かつての軍用ライフルの遊底に見えるが、土に侵食され、ただの鉄屑になり果てている。

父親はサンドイッチをバスケットに戻すと、その金属片を受け取った。

指先で錆のザラついた感触を確かめる。

「……なんだろうな。昔の農具かもしれない」

「ふーん。汚いの」

少年はすぐに興味を失い、白い蝶を追いかけて走り出した。

父親は金属片を投げ捨てようとして、ふと手を止めた。

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

なぜだろう。

とても大切なことを、忘れている気がする。

この鉄の冷たさを、泥の匂いを、僕は知っている気がする。

世界は平和だ。

国境線は曖昧になり、人々は手を取り合っている。

歴史の教科書を見ても、過去数百年の記述は白く霞んでいる。

『大忘却時代』。

そう呼ばれる期間に何があったのか、誰も思い出せない。

ただ、世界中の人々がある日同時に涙を流し、そして目覚めた時には、争う理由を忘れていたという。

父親は空を見上げた。

雲ひとつない、突き抜けるような青空。

完璧で、美しく、そしてどこか悲しいほど澄んだ空。

「……ありがとう」

無意識に、言葉が口をついて出た。

誰に向けた言葉なのか。

風だけが知っている。

一筋の涙が頬を伝い、顎から滴り落ちて、シロツメクサを濡らした。

「パパ? どうしたの? 泣いてるの?」

少年の声に、父親は我に返った。

慌てて目元を拭い、優しい笑顔を作る。

「いいや、なんでもないよ。……ただ、昔、川へ釣りに行った夢を見た気がしてね」

「つり? パパ、お魚きらいじゃん」

「はは、そうだったな」

父親は金属片をそっと草むらに戻した。

風が吹く。

緑の波が金属片を飲み込み、二度と見えなくなった。

世界は今日も美しい。

その穏やかな光景が、ひとりの青年の『全て』と引き換えに手に入れたものであることを、誰も知らないまま。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
主人公カイは、他者の記憶と自己の境界が曖昧な「道具」として利用され苦悩します。しかし、世界が負の感情を搾取する「肥育場」だと知った時、自己の消滅への恐怖を超え、怒りと使命感に突き動かされます。最終的に、自己の全てを捧げ、無償の希望を世界にもたらす「無名の英雄」へと昇華します。

**伏線の解説**
「嘆きの記憶樹」や「源流の記憶石」は、負の感情を地下の『巨大な脳髄』へと集約させるシステムの一部でした。カイが執着した「川辺の記憶」は、唯一の自我の錨であると同時に、彼が自己を完全に手放し、世界に「肯定」を解き放つための最後のトリガーとなります。「大忘却時代」は、その壮絶な自己犠牲がもたらした、代償を誰も知らない平和の象徴です。

**テーマ**
本作は、記憶と自我の喪失、そして個人が世界のために捧げる究極の犠牲を描きます。負の感情に依存するシステムに対し、純粋な希望や愛といった「肯定」の力が、いかに世界を変えうるかを問いかけます。誰も語り継がれない無名の英雄の献身と、その上で築かれた儚い平和の尊さを哲学的に提示する物語です。
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