第一章 静寂の観測室
リオンは、硝子のように冷たい静寂の中で息を殺していた。彼の世界は、この防音処理の施された観測室と、目の前のホログラム・スクリーンに映し出される「空白」だけで構成されていた。スクリーンの向こう側では、一人の帝国兵が、焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。彼の頭部には銀色のヘッドギアが装着され、そこから伸びる無数のケーブルが、壁面の巨大な演算装置「レテ」へと繋がっていた。
「記録官、被験体シグマ-7の記憶消去プロセス、最終段階に移行します」
天井のスピーカーから、感情を排した合成音声が響く。リオンは頷き、指先でコンソールを操作した。彼の任務は、共和国が開発した記憶消去装置「レテ」によって、捕虜から軍事機密に関する記憶を消し去る際、そのプロセスが完璧に行われているかを監視することだ。消去された記憶は、意味をなさない情報のノイズ、すなわち「残響」としてリオンの感覚器に流れ込んでくる。彼はその残響を分析し、情報漏洩の危険がないことを確認する。共和国の勝利のため、敵の魂を洗い流す「魂の清掃人」。それがリオンの仕事だった。
普段ならば、流れ込んでくる残響は、砂嵐のような映像と、不快な高周波音の羅列に過ぎない。しかし、その日は違った。
被験体シグマ-7のプロセスが完了に近づいた瞬間、リオンの脳裏に、嵐の中の灯台の光のように、鮮烈なイメージが突き刺さった。
―――暖かい陽光が降り注ぐ、小さな庭。白いペンキが塗られた柵には、黄色い花が絡みついている。そばかすの浮いた小さな手が、彼の人差し指をぎゅっと握りしめている。振り向くと、亜麻色の髪を二つに結んだ少女が、歯の抜けた口で笑いかけてきた。「兄ちゃん、またね」と、鈴を転がすような声が聞こえる。風が頬を撫で、焼きたてのパンの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「うっ……!」
リオンは思わず目を見開き、コンソールに手をついた。今の情景は何だ? いつもの無意味なノイズとは全く違う。あまりにも鮮明で、温かく、そして―――なぜか、ひどく懐かしい。まるで自分が体験したことであるかのような、奇妙な既視感。
「記録官、問題発生ですか?」
「……いや、問題ない。プロセスを完了させろ」
リオンは動揺を押し殺し、平静を装って応答した。スクリーンの向こうで、被験体シグマ-7は、まるで操り人形のように立ち上がり、無表情のまま部屋を出ていく。彼はもう、自分の名前も、家族の顔も、守るべき祖国のことも覚えていない。ただの抜け殻だ。
その空っぽになったはずの男の記憶が、なぜこれほどまでにリオンの心を揺さぶるのか。観測室の冷たい壁に、自分の心臓の鼓動だけが不気味に響いていた。それは、彼の完璧に構築された日常に穿たれた、最初の小さな亀裂だった。
第二章 響き始める不協和音
あの日以来、リオンの世界は静かに変容し始めた。観測任務のたびに、彼の頭にはあの少女の記憶の断片が、より鮮明に、より頻繁に流れ込むようになったのだ。
ある時は、シチューの湯気が立ち上る食卓。木製のスプーンが皿に当たる音。暖炉の爆ぜる音。別の時には、雨の日の窓辺で、少女と二人で本を読む情景。ページをめくる乾いた音と、彼女の小さな寝息。それらの記憶は、帝国兵という記号の向こう側に、確かに息づいていた「生活」の匂いをリオンに突きつけた。
「敵にも家族がいる。だが、その情に流されれば、共和国が敗北する」
彼は自分にそう言い聞かせた。上官から叩き込まれた言葉だ。憎むべき帝国。故郷を脅かす侵略者。彼らの記憶を消し去ることは、共和国の平和を守るための、必要悪なのだと。しかし、流れ込んでくる記憶の温かさは、その信念を内側から少しずつ溶かしていくようだった。
リオンは、あの最初の「残響」の主、被験体シグマ-7の記録を密かに調べ始めた。データベースの奥深くに保存された彼の個人ファイルには、名前も経歴もなく、ただ無機質な識別番号と、数枚の顔写真が添付されているだけだった。黒い髪、意志の強そうな瞳。リオンは、その顔に見覚えがないはずなのに、スクリーンから目を離すことができなかった。
「最近、どうも集中力を欠いているようだな、リオン」
休憩室で、先輩記録官のエイベルが声をかけてきた。彼は数少ない、リオンが心を許せる相手だった。
「少し、考え事を……。エイベルさんは、この仕事に疑問を感じたことはありませんか?」
「疑問?」エイベルはコーヒーを一口啜り、皮肉っぽく笑った。「毎日、人の頭の中を覗き見て、空っぽにする仕事だぞ。疑問を感じない方がどうかしている。だがな、リオン。俺たちは兵士だ。疑問を持つことと、任務を遂行することは別問題だ」
「……そうですね」
その通りだ、とリオンは思った。だが、彼の内側で鳴り響く不協和音は、もはや無視できないほど大きくなっていた。あの記憶は、本当にただの「敵の記憶」なのだろうか。なぜ、パンの香りが、雨の匂いが、少女の笑い声が、これほどまでに自分の五感を揺さぶるのか。まるで、失くしたパズルのピースを無理やり心に押し込まれているような、痛みを伴う違和感。
その夜、リオンは観測室に一人残り、再びシグマ-7のデータを開いた。そして、消去された記憶のコアデータ――通常はアクセスが固く禁じられている領域――に、自分の認証コードを打ち込んだ。警告音が鳴り響く。だが、彼は止めなかった。真実を知らなければ、自分という存在が崩れてしまいそうな予感がした。
第三章 砕かれた万華鏡
コアデータへのアクセスが許可された瞬間、リオンの世界は爆発した。
それはもはや「残響」などという生易しいものではなかった。記憶の洪水だ。ダムが決壊したかのように、膨大な情景と感情が彼の意識を飲み込んでいく。
―――軍の士官学校の卒業式。誇らしげに自分を見つめる両親の顔。
―――泥と硝煙の匂いが立ち込める塹壕。隣で倒れていく戦友の、最後の喘ぎ。
―――初めての休暇で故郷に帰り、少し大人びた妹と再会する。彼女が焼いてくれた、少し焦げたパンの味。
―――そして、あの黄色い花の咲く庭で、亜麻色の髪の妹に誓った言葉。「必ず、帰ってくるから」
それは、帝国兵「カイ」の、二十年にわたる人生の記憶だった。
リオンは椅子から崩れ落ち、床に蹲った。頭が割れるように痛い。違う、これは俺じゃない。俺は共和国の記録官リオンだ。帝国を憎み、共和国に忠誠を誓った兵士だ。
だが、洪水は止まらない。
―――共和国軍との激しい戦闘。閃光と爆音。身体を突き抜ける衝撃。意識が遠のく中、最後に見たのは、こちらに駆け寄ってくる敵兵の顔。
―――次に目覚めたのは、白い部屋だった。見知らぬ男たちが、自分に何かを語りかけている。「君は幸運だ。我々は君に新しい人生を与えよう。共和国の英雄としての人生を」
―――ヘッドギアが装着され、脳を直接焼くような激痛が走る。カイとしての記憶が、引き裂かれ、消去され、そして上書きされていく。両親の顔が霞み、妹の名前が思い出せなくなる。代わりに、「リオン」という新しい名前と、帝国への憎悪、共和国への忠誠という偽りの記憶が、彼の魂に刻み込まれていった。
「……あ……あぁ……」
リオンは、自分の喉から漏れる呻き声を聞いていた。それは絶望の叫びだった。
被験体シグマ-7。帝国兵カイ。
それは、彼自身だった。
彼がずっと観測してきた「敵の記憶の残響」は、消されたはずの自分自身の魂の断片が、記憶の隙間から漏れ出していた悲鳴だったのだ。あの懐かしさは、失われた故郷への郷愁だった。あの少女は、彼が命に代えても守ると誓った、たった一人の妹だった。
リオンは震える手で顔を覆った。そしてゆっくりと顔を上げ、観測室の壁に設置された鏡を見た。そこに映っているのは、見慣れたはずの自分の顔。だが、今の彼には、それが得体の知れない誰かの顔にしか見えなかった。守るべき祖国だと思っていた共和国は、彼の魂を奪った敵だった。憎むべき敵だと思っていた帝国は、彼が帰るべき故郷だった。
彼の信じていた世界は、万華鏡のように粉々に砕け散った。残ったのは、空っぽの自分と、決して消えることのなかった、妹への約束だけだった。
第四章 追憶の在り処
砕かれた自己の破片の中で、リオンはただ一点を見つめていた。それは、記憶の洪水の最後に残った、確かな光。妹の笑顔と、「必ず帰る」という自分の声。その約束だけが、今の彼を繋ぎとめる唯一の錨だった。
彼はもはや、共和国の記録官リオンではない。かといって、帝国の兵士カイに戻ることもできない。ならば、何者になるべきか。答えは一つしかなかった。彼は、ただの兄として、妹の元へ帰らなければならない。
静寂の観測室に、リオンのキーボードを叩く音だけが響き渡る。怒りでも、悲しみでもない、鋼のような決意が彼を突き動かしていた。彼は共和国のメインフレームに侵入し、自分が知り得た非人道的な記憶操作計画「レテ」に関する全ての機密データと、自分自身――カイ――に施された処置の全記録を、一つのファイルにまとめていく。
これは復讐ではない。これは、彼のような犠牲者をこれ以上生まないための、彼がカイとして、そしてリオンとして生きた証だった。記憶は、国家やイデオロギーのために、都合よく消したり書き換えたりしていいものではない。それは、その人間をその人間たらしめる、魂そのものなのだ。
彼は暗号化されたファイルを、中立国の報道機関へと送信するタイマーをセットした。数時間後、このデータが世界に公開されれば、戦争の潮目は大きく変わるだろう。共和国も帝国も、大きな混乱に見舞われるに違いない。
最後に、彼は自身の記録官日誌に、短いメッセージを打ち込んだ。
『記憶は消せない。ただ、心の奥底で鳴り続ける残響となるだけだ。この声が、この響きが、いつかどこかで、誰かの耳に届くことを願う』
全てを終えたリオン――カイは、静かに立ち上がった。観測室の重い扉に手をかける。この扉の向こうには、彼を追う共和国の追手と、彼を受け入れるかどうかも分からない故郷が待っている。未来はあまりにも不確かで、危険に満ちていた。
しかし、彼の目に迷いはなかった。
扉を開けると、夜の冷たい空気が彼の頬を撫でた。見上げた空には、星が瞬いていた。それは、故郷の庭から妹と二人で見上げた夜空と、同じ色をしていた。彼は闇の中へ、一歩を踏み出す。偽りの自分を脱ぎ捨て、たった一つの約束を果たすためだけの、長い旅が始まった。