記憶の織り手、時の繭

記憶の織り手、時の繭

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第一章 灰色の静寂と失われゆく温もり

私の村は、音を失いつつあった。

鳥のさえずりも、小川のせせらぎも、子供たちのはしゃぎ声も、すべてが分厚い灰色の静寂に塗り込められていく。原因は、村を蝕む奇妙な病。「石化病」と誰かが呼んだそれは、命あるものの時間を奪い、永遠の彫像に変えてしまう呪いだった。草木は硬質なオブジェとなり、風にそよぐこともない。家畜は息を止めたままの姿で立ち尽くし、そして、人々もまた、その毒牙から逃れることはできなかった。

私の祖母も、その一人だった。かつて温かい皺を刻んでいたその手は、今は冷たい石のようだ。日に日に灰色の領域は広がり、昨日は動いていた指先が、今朝にはもうぴくりともしない。祖母の瞳だけが、まだかろうじて生きた光を宿し、私を捉えていた。

「レナ……」か細く、ひび割れた声が、静まり返った部屋に響く。「お前しかいないのだよ。我らの一族に伝わる『時詠み』の力を使う時が来た」

時詠み。それは、万物の時間を巻き戻す禁忌の奇跡。触れたものの「時」を遡らせることで、枯れた花を咲かせ、壊れたものを元に戻す力。しかし、その代償はあまりにも大きかった。力を使うたびに、術者は自らの大切な記憶を一つ、忘却の彼方へと差し出さなければならないのだ。

「嫌です」私は首を横に振った。私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。「私には、失くせない記憶があるんです」

脳裏に浮かぶのは、もうこの世にいない両親の笑顔。幼い私を抱きしめてくれた父の腕の温もり。子守唄を歌ってくれた母の優しい声。それらは私の全てであり、私が私であるための錨だった。時詠みの力で村を救うことは、この錨を自ら手放し、記憶の荒波に呑まれることを意味する。そんなことは、死ぬことよりも恐ろしかった。

祖母の瞳に、深い悲しみの色が浮かぶ。その光さえも、ゆっくりと翳っていくのが分かった。まるで、蝋燭の炎が消える寸前のように。村が死んでいく。祖母が死んでいく。そして私は、大切な思い出という名の小さな殻に閉じこもり、ただ震えているだけだった。窓の外では、最後の葉を石に変えた樫の木が、灰色の空に向かって亡霊のように枝を伸ばしていた。

第二章 忘れられた言葉と小さな奇跡

祖母の瞳から完全に光が消えた日、私は村の書庫に駆け込んだ。埃と古紙の匂いが立ち込めるその場所で、一族の禁書とされてきた羊皮紙の巻物を手にした。震える指でそれを開くと、そこには忘れ去られたインクの文字で、時詠みの力の真実が記されていた。

『時詠みは、失われた時を取り戻す力。されど、その代償は術者自身の時。記憶は魂の欠片なり。力を使うは、魂を削るに等しきことと知れ』

巻物は、石化病が村全体にかけられた「時の停止呪い」である可能性を示唆していた。そして、それを解く唯一の方法は、村の中心に聳え立つ「始まりの樹」の心臓部に、強大な時詠みの力を注ぎ込み、村全体の時間を強制的に動かすことだと。

魂を削る。その言葉に、私は再び恐怖した。しかし、石と化した祖母の顔が脳裏をよぎり、私を苛んだ。このまま何もしなければ、私も、この村も、ただの記憶の化石になるだけだ。

「……試してみよう」

誰に言うでもなく呟き、私は書庫を出た。

最初にしたことは、中庭で完全に石化していた一輪の野バラに触れることだった。ひんやりとした石の感触。目を閉じ、心の奥底に眠る力に意識を集中させる。両親との記憶を、絶対に手放すまいと固く握りしめながら、ほんの少しだけ、力の扉を開いた。

――その瞬間、脳裏を何かが掠めた。夏の日に食べた、甘酸っぱい木苺の味。それは確かに私が知っているはずの記憶だったが、その輪郭がふっと霞み、溶けて消えていくような奇妙な感覚に襲われた。

目を開けると、灰色のバラが、鮮やかな真紅の花びらを取り戻していた。朝露に濡れたように、艶やかな光を放っている。小さな奇跡。しかし、私はその代償に、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えていた。木苺の記憶は、もう二度と戻らない。

それでも、私は力を使い続けた。動かなくなった井戸のポンプを直し、ひび割れたパンを焼きたてに戻し、石化した小鳥を再び空へと羽ばたかせた。そのたびに、私の記憶は虫食いのように失われていった。初めて雪を見た日の感動。転んで膝を擦りむいた時の痛み。幼馴染と交わした他愛ない約束。それらが一つ、また一つと消えていく。私は次第に、自分が何者であったのか、その輪郭さえも曖昧になっていくのを感じていた。

それでも、両親の記憶だけは、最後の砦のように守り続けた。これさえあれば、私はまだ私でいられる。日に日に力を増していく時詠みの感覚と、日に日に薄れていく自己の存在。その危うい均衡の上で、私は決戦の時を待っていた。

第三章 時の繭が開くとき

満月の夜、私は始まりの樹の前に立っていた。月光を浴びて、巨大な樹の石化した樹皮が青白く光っている。村の命運も、私自身の魂も、全てがこの一瞬にかかっていた。

両親の温かい記憶を胸に抱き、私は樹皮に手を触れた。ありったけの力を、魂の全てを注ぎ込む覚悟で、意識を集中させた。

「レナ、待ちなさい」

その声は、私の頭の中に直接響いた。驚いて振り返っても、そこには誰もいない。いや、違う。声は、私の背後から聞こえた。石と化したはずの、祖母の像から。

『それは呪いではない。繭なのだよ』

祖母の言葉は、思念となって私の心に流れ込んできた。石化病は、呪いなどではなかった。それは、この世界を周期的に襲う「忘却の嵐」から村を守るための、究極の防御魔法だったのだ。嵐は、存在した全ての記憶、歴史、文化を根こそぎ消し去ってしまう。我々の一族は、嵐が来るたびに村全体の時間を「石化」させて停止させ、嵐が通り過ぎるのを待っていた。それは、村という存在そのものを、記憶ごと守るための、巨大な「時の繭」だったのだ。

『そしてレナ。時詠みが失う記憶は……お前の記憶ではない』

その言葉は、雷となって私を撃ち抜いた。

『力を使うたびに、お前は忘却の嵐によって世界から消し去られた、誰かの記憶を受け継いでいるのだ。我ら時詠みの一族は、失われた時の番人。忘れられた人々の喜びや悲しみを、その身に宿し、語り継ぐために存在する』

混乱する私の脳裏に、祖母の思念が次々と映像を送り込んでくる。私が失ったと思っていた木苺の記憶。それは、百年前に生きていた、見知らぬ少女の夏の思い出だった。擦りむいた膝の痛みは、勇敢な若い狩人のもの。幼馴染との約束は、遠い昔に交わされた、恋人たちの儚い誓い。

そして――私が何よりも大切に守ってきた、両親の記憶。温かい腕、優しい声。それもまた、私が生まれるずっと前に、この村で生きていた、ある家族の幸福な日々の断片だった。

私は、他人の記憶を自分のものだと信じ込み、それに固執していたのだ。本当の私の記憶は、もっとずっとおぼろげで、不確かだった。

愕然とする私の前で、始まりの樹がかすかに光を放ち始める。忘却の嵐が、すぐそこまで迫っている。

価値観が、世界が、根底から覆った。記憶を「失う」ことへの恐怖は、消えゆく記憶を「受け継ぐ」という、荘厳な使命感へと変わっていた。私が恐れていたのは、自分の喪失ではなかった。私が受け継いだ、名もなき人々の大切な記憶を、再び失うことだったのだ。

もう迷いはなかった。私は自分の空っぽの魂を恐れなかった。むしろ、その空っぽの器で、世界からこぼれ落ちる全ての記憶を受け止めようと決意した。

私は再び始まりの樹に手を触れ、今度は何の躊躇もなく、力の全てを解放した。

瞬間、私の意識は、何億、何兆という記憶の奔流に飲み込まれた。初めて火を手にした原始の民の驚き。王国を築いた王の誇り。恋人に裏切られた姫の絶望。戦場で散った兵士の無念。名もなき母親が赤子に注いだ無償の愛。それら全てが、喜びも悲しみも、善も悪も、等しく私の中に流れ込んでくる。私の個人的な意識は、その巨大な記憶の海の中で、一滴の雫のように溶けて消えていった。

どれほどの時が流れただろう。

ふと意識が浮上した時、私の視界には、朝陽に照らされた村が広がっていた。石化は解け、鳥がさえずり、人々が家々から顔を出す。全てが元に戻っていた。

私の隣には、すっかり元の姿に戻った祖母が、静かに立っていた。

「おかえり、時詠み」

その声は、優しさに満ちていた。

私はゆっくりと頷いた。私の瞳には、もう以前のような不安や恐怖の色はなかった。そこには、幾千もの人生の記憶が星のように瞬き、深い湖のような静けさと、海のような慈愛が満ちていた。

私はもはや、レナという一人の少女ではなかった。私は、この村が、この世界が紡いできた、記憶そのものだった。

両親のものだと信じていた、あの温かい記憶を思い返す。それが誰の記憶だったのか、もはや知る由もない。しかし、その温もりだけは、今も確かに私の胸を満たしている。私はその温もりを抱きしめ、これから先も、忘れ去られようとする全ての物語を、この身に織り込み、守り続けていくことを誓った。空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

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