血の味はオーロラに溶けて
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血の味はオーロラに溶けて

第一章 錆色の追憶

カイは膝をつき、乾いた土に指を突き立てた。ここは「嘆きの平原」。百年前に滅びた王国の最後の戦場。彼の舌が、ざらついた土くれを捉える。目を閉じると、味覚が過去の扉を開いた。

まず、鉄錆の味が奔流となって広がる。それは数万の兵士が流した血の味。すぐに、じわりと滲む苦味へと変わった。それは故郷に残した妻子を想う絶望の味。次いで舌を焼くような酸味が襲う。裏切られた王への怨嗟。そして最後に、ほんの一瞬、砂糖菓子のような淡い甘みが舌の奥を掠めた。それは、死の間際に見たであろう、幼き日の幸福な記憶。

「……今回も、後味が悪い」

カイは口の中の幻の味を唾と共に吐き出した。彼の能力は呪いだった。戦場で流された血の量に比例して、その土地に刻まれた感情を「味覚」として追体験する。勝利の祝杯は蜜の味となり、敗北の慟哭は腐肉の味となる。彼はこの呪われた舌で、歴史の真実を味わい続けてきた。

ふと顔を上げると、夜空に淡い紫色の光の帯が揺らめいていた。「感情のオーロラ」。この大規模な紛争が続く時代、兵士たちの集合的な感情が空に描き出す不吉なカーテンだ。オーロラが濃くなるほど、大地は呻き、物理法則がその輪郭を曖昧にしていく。

そのオーロラの真下、平原の中央で人影が動いていた。掲げられた松明の光が、帝国軍の紋章を鈍く照らし出す。彼らは何かを掘り起こしているようだった。好奇心ではない。胸騒ぎが、カイの足をそちらへと向かわせた。

第二章 呼び声の石

帝国軍が掘り起こしていたのは、黒曜石のように鈍く輝く、人頭大の石だった。その表面には、見たこともない紋様がびっしりと刻まれている。カイが息を殺して見守る中、一人の将校が石を高々と掲げた。男の名はヴァルガス。現在の戦争を泥沼化させている帝国の猛将だ。

「これぞ『共鳴石』!古の英雄の魂を呼び覚ます至宝なり!」

ヴァルガスの声が響いた瞬間、夜空のオーロラが脈動し、その紫を深くした。呼応するように、共鳴石が心臓のような鼓動と共に淡い光を放ち始める。石から陽炎のような人影が立ち上った。それは半透明の鎧を纏った、百年前の王国の騎士だった。

「……我は、なぜここに」

亡霊の声は、風の音に掻き消えそうなほどか細い。

「目覚めよ、古の戦士!卿が用いた陣形、敵将の弱点、そのすべてを我らに授けよ!さすれば、この国に再び栄光を!」

ヴァルガスの言葉は、亡霊の輪郭を苦痛に歪ませた。カイの口の中に、腐った卵のような吐き気が込み上げる。それは、安らかな眠りを妨げられた魂の冒涜に対する拒絶の味だった。

「やめろ……」

カイは思わず声を漏らした。兵士たちが一斉に彼を睨む。まずい、見つかった。彼は身を翻して闇へと駆け出した。背後でヴァルガスの怒声が響く。逃げる途中、彼の足が何かに躓いた。転がりながらも掴んだそれは、手のひらに収まるほどの小さな砂時計だった。中には、銀色に輝く微細な砂が半分ほど溜まっている。名もなき兵士が遺した「遺言の砂時計」だった。

第三章 砂時計の幻影

追手を振り切り、カイは岩陰に身を潜めていた。そこに、静かな足音が近づく。現れたのは、質素な旅装を纏った一人の女だった。

「あなたも、石の呼び声を聞いたのですね」

女はエリアナと名乗った。彼女は古代の遺物を守る一族の末裔で、帝国軍の動きを監視していたという。

「彼らは死者の魂を道具にするつもりだ。許されることじゃない」

カイの言葉に、エリアナは静かに首を振った。

「あれは魂そのものではありません。大地に染み込んだ、強すぎる記憶の残滓。……共鳴石は、世界の傷を癒すために生まれた、瘡蓋のようなものなのです」

意味が分からなかった。カイは懐から、拾った砂時計を取り出した。エリアナはそれを見て、悲しげに目を伏せる。カイは、衝動的にその砂時計を逆さにした。

銀色の砂が、さらさらと流れ落ち始める。すると、彼の目の前に淡い光の粒子が集まり、一人の若い兵士の幻影を結んだ。豪華な鎧ではない。使い古された革の胸当てをつけた、どこにでもいる若者だ。彼は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

「リナ……お前の焼いたパンが、もう一度食べたい……」

幻影は、故郷に残した妻であろう女の名を呼び、懐かしそうに目を細めた。その表情に、英雄的な覚悟も、国への忠誠もない。ただ、愛する者への切実な想いだけがあった。砂がすべて落ちきると、幻影は光の粒となって消え、砂時計の中の砂は僅かに量を減らしていた。

カイの口の中に、焼きたてのパンのような、温かく、そしてどうしようもなく切ない甘みが広がった。彼は拳を握りしめた。ヴァルガスがやっていることは、このささやかな願いさえも軍靴で踏みにじる行為に他ならなかった。

第四章 歪む真実

帝国軍の拠点である中央祭壇に、最大の共鳴石「始祖の石」が運び込まれた。ヴァルガスの目的は、建国の英雄王を呼び出し、彼の不敗の戦術を手に入れることで、この長きにわたる戦争を終わらせることだった。彼もまた、彼なりの正義と覚悟で、この禁忌に手を染めていたのだ。

カイとエリアナは、祭壇を見下ろせる崖の上からその光景を見ていた。空のオーロラは、今や血のような赤黒い色に染まり、空間そのものが歪み始めている。重力が不安定になり、小石が宙に浮かんでは落ちる、異様な光景が広がっていた。

「ヴァルガスは分かっていない」エリアナが静かに、だが強い口調で言った。「共鳴石は魂を呼び戻しているのではありません。世界そのものが、過去の戦争という悲劇を『消化』しようとしているのです」

カイは息をのんだ。

「世界は、大地に刻まれた記憶を、共鳴石という舌で味わい、理解し、乗り越えようとしている。あのオーロラは、その消化活動によって発生する熱のようなもの。でも、ヴァルガスのように無理やり記憶を引きずり出せば、世界は消化不良を起こす。癒えることのない痛みだけが残り、世界は永遠に過去の悲劇に囚われてしまう」

それが真実だった。共鳴石の活性化は、未来へ進むための自然な治癒プロセスだったのだ。ヴァルガスの行いは、善意から始まった、世界を破滅させる行為だった。

「止める方法は?」

「全ての共鳴石を、砕くしかありません。世界の『舌』を、全て」

第五章 最後の味覚

カイは祭壇へと乗り込んだ。ヴァルガスが驚愕の目で彼を見つめる。

「愚か者が!この儀式を邪魔する気か!過去の叡智なくして、未来の平和は築けんのだ!」

「過去に囚われたままじゃ、未来なんて来ない!」

カイは叫び、ヴァルガスの制止を振り切って祭壇に駆け上がった。そして、懐から取り出した短剣で、自らの手のひらを深く切り裂いた。滴り落ちる鮮血が、「始祖の石」に吸い込まれていく。

彼の血は、媒介だった。彼がこれまで味わってきた、ありとあらゆる戦場の記憶が、血を通じて共鳴石へと流れ込んでいく。勝利の甘露、敗北の腐臭、勇気の塩味、恐怖の酸味、愛の温かさ、憎しみの苦さ。何十万という兵士たちの人生そのものが、奔流となって石を満たした。

カイの全身を、凄まじい味覚の嵐が駆け抜けた。それはもはや個別の味ではなかった。甘さも苦さも辛さも、全てが渾然一体となった、言葉では表現できない味。生命そのものが持つ、原初の味だった。

「ぐ……あああああっ!」

絶叫と共に、彼の意識は膨大な記憶の奔流に飲み込まれていった。

第六章 忘却の夜明け

カイの血と記憶を受け止めた「始祖の石」は、悲鳴のような甲高い音を発した。その振動は大地を伝い、世界中に散らばる全ての共鳴石へと伝播していく。共鳴、共振、そして崩壊。各地で石が砕け散る音が、地鳴りのように響き渡った。

祭壇の石が砕け散った瞬間、閉じ込められていた無数の記憶が光の粒子となって解き放たれ、空へと昇っていく。兵士たちの幻影が、安らかな表情で天に還っていくのが見えた。

血のように赤黒かったオーロラが、全ての悲しみと怒りを抱きしめるかのように、純白の輝きを放った。それは、夜明け前の空を照らす、最も優しい光だった。そして、まるで役目を終えたかのように、静かに、静かに消えていった。

物理法則の歪みは収まり、宙に浮いていた小石がことりと音を立てて落ちた。

世界から、戦争の記憶が抜け落ちていく。憎しみも、悲しみも、戦う理由さえも。ヴァルガスは、なぜ自分がここにいるのかさえ思い出せないかのように、呆然と立ち尽くしていた。

カイもまた、祭壇の上に倒れ込んでいた。彼はゆっくりと手のひらの傷を舐める。そこには、ただの鉄の味しかしなかった。呪われた能力は、オーロラと共に消え去ったのだ。彼は、この世界でただ一人、戦争の「味」を知る人間となった。

第七章 無味の世界で

数年後。世界は穏やかな平和を享受していた。国境線は意味をなさなくなり、人々は互いに手を取り合っていた。歴史の教科書から、かつてあった大戦の記述は綺麗に消え去り、その空白を誰も不思議に思わなかった。

カイは、オーロラが見えない谷間の小さな村で、静かに暮らしていた。ある晴れた日の午後、子供たちが木の棒を剣に見立てて、無邪気に遊んでいるのが目に入った。彼らの遊びには、憎しみも痛みも伴わない。ただ、楽しいだけの戯れだ。

カイは、近くの木になっていたリンゴをもぎ取り、かじりついた。口の中に、ただ瑞々しい甘さだけが広がる。そこには、何の記憶も宿っていない。

平和は、こんなにも無味だったのか。

彼は、失われた記憶の重さと、手に入れた平和の尊さを同時に噛みしめる。世界はあまりに多くのものを忘れてしまった。だが、だからこそ、この子供たちの笑顔がある。

カイはもう一度、リンゴをかじった。何一つ過去の味を持たない、未来の味。そのあまりにシンプルな甘さを、彼は涙のしょっぱさと共に、静かに飲み込んだ。


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