残響の耳録師

残響の耳録師

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第一章 黙し鐘の依頼

音羽(おとわ)の稼業は、奇妙なものだった。人は彼女を「耳録師(じろくし)」と呼ぶ。物に触れることで、そこに染み付いた過去の音を聴き、自らの声で寸分違わず再現する。それは、祝いの席で今は亡き祖父の祝い唄を再現して涙を誘うこともあれば、盗まれた品が辿った道筋を、その囁き声から探り当てることもあった。しかし音羽自身にとって、その力は祝福ではなく、絶えず耳元で響く他人の記憶という呪詛に近いものだった。

その日、彼女の陋屋(ろうおく)を訪れたのは、見るからに位の高い老武士だった。絹鳴りのする上等な羽織、節くれだった手に握られた黒檀の杖。その男、榊原(さかきばら)と名乗った老人は、深く腰を下ろすと、一つの依頼を口にした。

「城下の西、山手にある月影寺(げつえいじ)の鐘の音を、聴かせてはくれまいか」

月影寺の鐘。その名を聞いて、音羽の眉が微かに動いた。江戸の街で知らぬ者はいない。三十年前に起きた悲劇以来、一度たりとも鳴ったことのない「黙(もだ)し鐘」のことだ。どのような鐘つきの名人が力を込めても、ただ鈍い塊が揺れるだけで、決して音を発することはないという。

「あの鐘は、鳴りませぬ。鳴らぬものの音は、私にも聴けませぬ」

音羽の静かな拒絶に、榊原は顔を上げることなく続けた。

「無論、承知の上。わしが聴きたいのは、今の音ではない。三十年前……あの鐘が、最後に鳴った時の音だ」

その言葉は、冷たい雫のように音羽の心に落ちた。過去の音を聴く。それが彼女の生業。しかし、三十年という歳月は、音の記憶を風化させ、歪ませるには十分すぎる時間だ。それに、いわくつきの鐘に触れることは、尋常ならざる魂の叫びをその身に浴びることと同義だった。

「法外な礼金を約束しよう。それに……」

榊原はそこで言葉を切り、懐から小さな匂い袋を取り出した。白檀の、心が鎮まるような香りがふわりと漂う。

「これは、お主の心を苛む雑音を、少しばかり和らげる力がある。わしからの、ささやかな心遣いだ」

音羽は驚いて顔を上げた。なぜこの男が、自分の苦悩を知っているのか。彼女が常に微かな頭痛と耳鳴りに悩まされていることを、誰にも話したことはない。老人の顔には、全てを見透かすような深い皺が刻まれていた。その瞳の奥に宿る、痛切な光に射抜かれ、音羽は知らず頷いていた。

「……分かりました。お受けいたします」

断ることのできない、不思議な引力がそこにはあった。黙し鐘に秘められた三十年の沈黙。それは、音羽自身の空虚な過去とも、どこかで繋がっているような気がしたのだ。

第二章 響かぬ過去の断片

数日後、音羽は月影寺の山門をくぐった。苔むした石段、蝉時雨に混じる読経の声。全てが穏やかな昼下がりの情景であるにもかかわらず、鐘楼だけが異質な沈黙を纏い、空に聳えていた。

住職の許しを得て、音羽は一人、鐘楼に登った。巨大な梵鐘は、青銅の表面に緑青を浮かせ、まるで年老いた獣のように黙して動かない。その威圧感に、一瞬息を呑んだ。

彼女は、そっと目を閉じ、冷たい鐘の肌に両の掌を押し当てた。

途端、奔流のような音の断片が、彼女の意識を飲み込んだ。

――ゴォォン……ン……!

地を揺るがすような、しかしひび割れた悲鳴にも似た鐘の音。直後、凄まじい剣戟の音。肉を断つ生々しい響き。人々の怒声と絶叫。そして、嵐の中でかき消されそうになる、幼い少女の甲高い泣き声。

「……うっ!」

あまりの激しさに、音羽は思わず鐘から手を離した。額には脂汗が滲み、心臓が早鐘を打っている。断片的すぎる。これでは何一つ再現できない。音の記憶が、あまりにも深く、そして強い苦痛によって引き裂かれているのだ。

依頼主の榊原に、聴き取れた音の断片を伝えると、彼はただ黙って頷き、「それでよい。もう少し、探ってくれ」とだけ言った。彼の目的が分からない。なぜ、これほどまでに苦痛に満ちた音を求めるのか。

音羽は、三十年前の事件を調べ始めた。藩の公式記録によれば、当時の住職が寺宝に手をつけ、それに気づいた番士数名と斬り合いの末、自ら命を絶った、とある。住職は乱心していた、と。あまりに簡潔で、感情のない記録だった。

彼女は、事件について何か知る者はいないか、古老を訪ね歩いた。だが、誰もが固く口を閉ざす。まるで、街全体がこの事件に口枷を嵌められているかのようだった。

ある日、音羽は事件で死んだ番士の息子が営むという小さな武具屋を訪れた。老いた店主は、父の話になると顔を曇らせた。

「父は、忠義の篤い男でした。住職が乱心したなど、今でも信じられん」

そう言って、店主は父の形見だという古い脇差の鍔(つば)を音羽に見せた。彼女がその鉄の冷たさに指を触れる。

すると、新たな音が聴こえてきた。

『――やめろ! その子に手を出すな!』

悲痛な男の声。それは、鐘から聴こえた住職の声に似ていた。そして、鍔を通して伝わる、持ち主の恐怖と、何かを守ろうとする強い意志。公式記録とは明らかに違う、何かがそこにはあった。

音羽の心は揺れた。この力は、ただ音をなぞるだけの曲芸ではない。忘れられた人々の無念や、葬られた真実の声を掘り起こす、あまりにも重い業なのだ。聴けば聴くほど、三十年前の闇は深まり、彼女自身の空っぽの心に、他人の悲しみが澱のように溜まっていく。榊原からもらった匂い袋だけが、かろうじて彼女の精神を繋ぎ止めていた。

第三章 三十年の残響

調査は行き詰まった。手掛かりは途切れ、街の人々の沈黙の壁は厚い。音羽は再び、あの鐘楼へと足を向けた。答えは、やはりこの場所にあるはずだった。

今回は、鐘だけに意識を集中するのではなかった。彼女は、鐘楼の柱に、床板に、そして鐘を吊るす太い梁に、次々と手を触れていった。建物全体が記憶している、三十年前のあの日の空気を探るために。

床板からは、複数の草履が激しく動く音と、誰かが倒れる鈍い音。

柱からは、刀がぶつかり、火花が散る甲高い音。

そして、梁に触れた瞬間――音羽は、全てを視た。

音の記憶は、映像となって彼女の脳裏に流れ込んできた。

月明かりに照らされた鐘楼。血の匂い。対峙する二人の男。一人は住職。もう一人は……若き日の榊原。

野心に満ちた榊原は、住職が持つ「藩の不正を記した密書」を奪おうとしていた。拒む住職ともみ合いになり、榊原の刃が住職を貫く。

その時、物陰から小さな影が飛び出した。住職の幼い娘だ。父の惨状を見て、悲鳴を上げながら鐘楼に駆け上がり、警鐘を鳴らそうと綱に手をかける。

『やめろ!』

榊原の焦った声。彼は口封じのために、少女に刃を向けた。

少女の小さな肩を、切っ先が浅く切り裂く。その衝撃で、少女の手が綱を引いた。

ゴォォォン……ンン……!

それは、弔いの音でも、警鐘でもない。ただの、巨大な金属が発した、魂の断末魔だった。

そして、音羽は理解した。

血に濡れ、恐怖に泣き叫ぶその少女は、幼い頃の自分自身の姿だったのだ。

事件の衝撃で、彼女は全ての記憶と、一時期は声さえも失った。遠い親戚に引き取られ、自分の出自を知らぬまま育った。そして、いつしか身につけていたこの奇妙な能力だけが、失われた過去の唯一の証だった。

榊原の依頼。「決して鳴ることのない鐘の音を聴かせてほしい」。それは、贖罪だったのだ。三十年間、彼の胸の中で鳴り続けていた罪の音を、彼が人生を狂わせた娘自身の手で、白日の下に晒してほしかったのだ。

なぜ自分に正体を明かさなかったのか。それは、この耳録の力を持つ音羽に、他人の口伝ではない、汚されていない「真実の音」を聴き取ってほしかったからに他ならない。

全ての音が、一本の線で繋がった。

鐘が鳴らないのではない。三十年前の悲劇を記憶した鐘が、音羽が真実に辿り着くのを、ただじっと待ち続けていただけなのだ。

第四章 真実の音

音羽は、榊原の屋敷を訪れた。全てを悟った彼女の静かな瞳を見て、老人は観念したように深く頭を垂れた。

「……思い出したか」

「ええ。あなたの罪の音も、私の父の声も、全て」

音羽の声は、凪いだ水面のように穏やかだった。だが、その奥には、三十年分の悲しみと怒りが渦巻いていた。

榊原は、震える声で語り始めた。あの夜の後、彼は密書を手に入れ出世街道を駆け上がったこと。しかし、夜ごと鐘の幻聴と少女の泣き声に苛まれ、一日たりとも心の安らぎを得られなかったこと。そして、数年前に音羽の噂を耳にし、彼女こそがあの夜の少女だと確信したこと。

「わしを、断罪してくれ。お主の手で、わしの罪を終わらせてほしい。それが、わしの唯一の願いだ」

土下座し、嗚咽する老人を、音羽は冷たく見下ろした。憎しみで、今すぐこの男の命を絶ってしまいたい衝動に駆られた。しかし、それでは父は喜ばないだろう。そして、自分の魂も救われない。

月影寺の鐘楼に、二人の姿はあった。月が、三十年前の夜と同じように、静かに二人を照らしている。

音羽は鐘の前に立ち、深く息を吸った。

そして、自らの声で、三十年前の「真実」を再生し始めた。

榊原の傲慢な声。父の、娘を案ずる悲痛な声。刀がぶつかる金属音。肉の裂ける鈍い音。そして、幼い自分の、喉が張り裂けんばかりの泣き声。

最後に、鐘の音。

地獄の底から響くような、ひび割れた悲鳴にも似た、一度きりの鐘の音。

音羽の声が、三十年の沈黙を破り、夜のしじまに響き渡った。それは、彼女自身の魂の叫びでもあった。

全ての音を吐き出し終えた時、音羽の頬を涙が伝っていた。彼女は、ゆっくりと榊原に向き直った。老人は、まるで魂が抜け殻になったように、その場に崩れていた。

「あなたの罪の音は、もうこの鐘には残っておりません。私が、全て受け取りました」

音羽は静かに告げた。

「これからは、あなた自身の胸の中だけで、その音を鳴らし続けてください。死ぬまで、一日たりとも忘れずに」

それは、赦しではなかった。しかし、復讐でもない。罪を背負って生き続けるという、死よりも重い罰を、彼女は榊原に与えたのだ。

翌朝。

月影寺の住職や麓の村人たちは、耳を疑った。

三十年間、決して鳴ることのなかった「黙し鐘」が、澄み切った秋の空に、朗々とした音を響かせていたのだ。

ゴォーン……。

その音は、悲しみでも怒りでもなく、どこまでも深く、そして優しい響きを持っていた。まるで、一つの魂が長い眠りから覚め、夜明けを告げているかのようだった。

鐘楼の下、音羽は一人、その音に耳を澄ませていた。

過去は消えない。しかし、その音と共に生きていくことはできる。彼女は、失われた音を拾い集めるだけでなく、魂の声を未来へと繋ぐ「耳録師」として、生きていくことを決意した。

鐘の残響が、新たな道を歩み始める彼女の背中を、いつまでも優しく押していた。

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