残響の言霊師

残響の言霊師

1 4474 文字
文字サイズ:

***第一章 沈黙の詠(うた)***

文政の江戸は、爛熟の頂にあった。人々の声、行き交う下駄の音、物売りの威勢の良い呼び声。それらが混じり合い、一つの巨大な生命体のように町は呼吸していた。しかし、その生命の脈動が、今、不気味に細り始めていた。

「沈黙の病」――いつしか、人々はそう呼ぶようになった。はじめは些細な物忘れから始まり、やがて言葉が不明瞭になり、ついには一切の言葉を発せなくなる。声を失った者は、まるで魂の芯を抜かれた人形のように生気をなくし、ただ虚空を見つめて日々を過ごすのだ。病は、じわじわと江戸の空気を蝕んでいた。

神田の裏通りにひっそりと佇む一軒家。表向きは腕の良い書家として知られる桐生蒼一郎の住まいだが、その真の顔を知る者は幕閣でもごく一握りしかいない。彼は、言葉に宿る力を操り、事象を捻じ曲げる秘儀「言霊」の使い手。幕府直属の秘匿部署「言祝ぎの処(ことほぎのところ)」に籍を置く、孤独な言霊師であった。

その日、蒼一郎のもとを老中首座の密使が訪れた。「沈黙の病」の調査と鎮圧。それが、彼に下された密命だった。
「桐生殿。これは単なる疫病ではあるまい。邪な言霊の気配がする」
障子越しに告げられた言葉に、蒼一郎は墨を含んだ筆をぴたりと止めた。硯に落ちた雫が、静寂に重い波紋を広げる。
「……承知」
短い返答。彼の声には、感情というものが欠落しているかのように平坦だった。

言葉は力だ。祝福にも呪詛にもなる、両刃の剣。蒼一郎はその力を誰よりも畏れ、同時に憎んでいた。力を使うたび、彼は代償を支払わねばならない。その力で紡いだ言葉が強力であればあるほど、彼の内側から、かけがえのない「記憶」が一つ、永遠に消え去るのだ。

彼は文机の引き出しから、一枚の白紙を取り出した。そこに、ただ一滴、己の血を垂らす。そして、低く、しかし芯のある声で紡いだ。
「道、開け」
血の染みが、まるで生き物のように紙の上を走り、複雑な地図のような模様を描き出した。それは、病の発生源が集中する地域を示していた。日本橋、薬研堀。
代償に、脳裏から一つの情景がふっと霧散した。幼い頃、母に手を引かれて見た祭りの夜の、鮮やかな提灯の記憶。温かい手の感触が、急速に冷えていく。蒼一郎は微かに眉を寄せたが、その表情を変えることはなかった。失われたものに心を砕けば、次の一歩が踏み出せなくなる。彼は、そうやって心を殺して生きてきた。

江戸の喧騒が、少しずつ色褪せて聞こえる。彼は、沈黙が支配し始めた町へと、静かに足を踏み出した。

***第二章 忘れじの面影***

薬研堀は、重い沈黙に支配されていた。昨日まで聞こえていたはずの子供のはしゃぎ声も、職人たちの槌音も、どこにもない。蒼一郎が歩を進めるたび、家々の窓から投げかけられるのは、不安と諦観の入り混じった視線だけだった。

病に倒れた人々の家を訪ね歩く中で、彼は一人の少女に出会った。名を小夜(さよ)という。年の頃は十五、六だろうか。大きな瞳に理知的な光を宿した少女は、言葉を失い床に伏せる兄を、一人で懸命に看病していた。
「お侍様も、この病のことで?」
小夜の声は、淀んだ空気の中ですら凛として響いた。蒼一郎は、彼女の真っ直ぐな視線から目を逸らすことができなかった。
「……そうだ」
「兄は、もう三日も口をききません。でも、私は諦めません。必ず、また兄の声が聞きたいのです」
その言葉には、悲壮感よりも強い意志が滲んでいた。蒼一郎は、何故だかその姿から目が離せなかった。これまで幾度となく切り捨ててきたはずの「情」というものが、胸の奥で微かに疼くのを感じた。

小夜は、蒼一郎の調査に協力してくれた。彼女の兄が倒れる直前に会っていた人物、立ち寄った場所。その一つ一つを辿るうち、蒼一郎は病に罹った者たちの奇妙な共通点に気づき始める。彼らは皆、誰かの「言葉」によって深く傷ついた経験を持つ者たちだった。

「兄は……優しい人でした。でも、商売で人を信じすぎて、騙されて……。『お前のような正直者は馬鹿を見るだけだ』と、そう罵られたそうです。その日から、少しずつ元気がなくなって……」
小夜が淹れてくれた茶は、ほんのりと温かかった。その温もりが、凍てついた蒼一郎の心にじんわりと沁みていく。彼は、この少女と兄を救いたいと、柄にもなく強く思った。

だが、敵の正体は依然として掴めない。焦りが募る中、蒼一郎は再び禁忌の力に手を伸ばした。夜陰に紛れ、誰もいない辻に立つ。
「縁(えにし)、繋がれ」
囁くと、彼の足元から銀色の糸のような光が伸び、闇の中へと続いていく。それは、邪な言霊の使い手へと繋がる道筋だった。
そして、代償が訪れる。今度は、初めて師から「言霊師」としての才能を認められた日の記憶。誇らしさと共に胸に満ちた熱い高揚感が、跡形もなく消え去った。空虚感が彼の全身を襲う。彼は膝から崩れ落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。

ふと、背後に人の気配がした。小夜だった。
「大丈夫ですか、桐生様……?」
心配そうに覗き込む彼女の顔を見て、蒼一郎は言葉を失った。何故だ。この少女を見ていると、胸の奥深くにしまい込んだはずの何かが、必死に思い出せと叫んでいるような気がする。それは、痛みにも似た、切ない感覚だった。

***第三章 言霊の代償***

銀色の糸が導いた先は、荒れ果てた寺の境内だった。月明かりが、本堂から漏れ出る禍々しい気配を青白く照らし出している。その中心に、一人の男が立っていた。痩身の、しかし鋭い眼光を放つ男。その顔を見て、蒼一郎は息を呑んだ。
「……影山、殿」
影山玄道。かつて「言祝ぎの処」で蒼一郎と共に術を学んだ、兄弟子だった男。彼は、誰よりも強い言霊の力を持ちながら、ある事件を境に姿を消していた。

「やはり来たか、蒼一郎」
影山の声は、乾いた砂のようだった。
「この静寂が分からぬか。言葉など、人を傷つけ、絶望させるだけの呪いよ。ならば私が、その呪いを江戸から消し去ってやる。悲しみのない、静かなる理想郷を創るのだ」
「そのために、人々から心を奪うのか!」
「心だと? 言葉に惑わされなければ、心は常に平穏だ」
影山の瞳は、狂信的な光に満ちていた。彼は、かつて愛した女を病から救うため、最強の言霊を使った。しかし、術は不完全に終わり、女は一命を取り留めたものの、代償として影山は「愛した女に関する全ての記憶」を失ったのだ。愛していたという事実だけを残して、その温もりも、声も、顔さえも思い出せない地獄。それが彼を歪ませた。

蒼一郎は刀に手をかけた。だが、影山は嘲るように笑う。
「お前に私を斬れるかな、蒼一郎。お前もまた、言霊によって最も大切なものを失ったというのに」
「……何のことだ」
「思い出させてやろう。お前がまだ未熟だった頃、師が重い病に倒れた。お前は師を救うため、己の許容量を遥かに超える治癒の言霊を放った。師は救われたが、お前が支払った代償が何だったか、覚えているか?」

影山の言葉が、蒼一郎の脳髄に突き刺さる。そうだ、そんなことがあった。だが、何を失ったのかが思い出せない。記憶の深淵に、ぽっかりと空いた巨大な穴があるだけだ。

影山は、愉悦に顔を歪めて続けた。
「お前には、年の離れた弟がいただろう。病弱だが、心優しく、お前を誰よりも慕っていた……そう、今、小夜という娘が看病している、あの男が、お前のたった一人の弟、桐生春馬だ」

―――時が、止まった。

世界から音が消える。小夜の面影。彼女の兄の虚ろな瞳。感じていた既視感。理由の分からない胸の疼き。全てのピースが、絶望という名の形に組み上がった。
俺は、弟を救うために師を……? いや、違う。師を救うために、弟の記憶を差し出したのか? どちらでも同じことだ。俺は、自分の力で、最も守るべき家族との絆を断ち切ってしまったのだ。
「ああ……ああああ……っ!」
蒼一郎は、生まれて初めて声を上げて慟哭した。それは、記憶を失くした男の、魂からの悲鳴だった。

***第四章 光、ただ一文字***

絶望の底で、蒼一郎の脳裏に小夜の顔が浮かんだ。
『私は諦めません。必ず、また兄の声が聞きたいのです』
そうだ。俺は弟の記憶を失った。だが、小夜は違う。彼女は兄を想い続けている。俺がここで潰えれば、彼女の想いも、江戸の全ての人々の声も、永遠に失われる。

蒼一郎は、ゆっくりと立ち上がった。涙で濡れた顔には、もはや迷いはなかった。失われた記憶は戻らない。だが、これから守れるものはある。たとえ、その代償に、今この胸にある温かい感情さえも失うことになったとしても。

「影山殿。あんたの悲しみは分かる。だが、言葉は呪いだけじゃない」
蒼一郎は懐から最後の白紙を取り出した。
「言葉は、誰かを想う祈りにもなる」

影山が江戸全域を沈黙に包むための、最終言霊の詠唱を始める。禍々しい言霊が渦を巻き、空が暗く染まっていく。
蒼一郎は目を閉じ、これまでの人生で出会った人々を、失った記憶の断片を、そして小夜の真っ直ぐな瞳を心に描いた。感謝、後悔、希望、愛情。全ての感情を束ね、一つの言葉へと昇華させる。

彼は筆も血も使わなかった。ただ、己の魂そのものを込めて、高らかに、そして澄み切った声で紡いだ。

「――万象、響き合え。声よ、想いとなれ!」

光が、蒼一郎の体から迸った。それは呪詛を打ち消す浄化の光。影山の歪んだ言霊は、温かい光に触れた瞬間、朝霧のように掻き消えていった。
静寂に包まれていた江戸の町に、赤子の産声が、鳥のさえずりが、そして人々の囁きが、少しずつ戻り始める。

しかし、蒼一郎はその場に立ち尽くしていた。彼の内側で、何かが決定的に消えていく。健気に兄を看病していた少女の面影。彼女と交わした言葉。彼女が淹れてくれた茶の温もり。それらが急速に色褪せ、陽炎のように揺らめいて、消えた。胸に残ったのは、理由のわからない、温かくもひどく切ない、巨大な空洞だけだった。

数日後、すっかり回復した一組の兄妹が、神田の書家を礼に訪れた。
「桐生様、この度は誠にありがとうございました」
深々と頭を下げる青年に、蒼一郎は僅かに首を傾げた。隣に立つ少女の、澄んだ瞳に見つめられても、彼の心には何も浮かばなかった。ただ、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……人違いでは?」
そう言って戸惑う蒼一郎に、青年と少女は顔を見合わせた後、それでも深々と、もう一度頭を下げて去っていった。

一人残された蒼一郎は、文机に向かった。理由のわからない感情の残響が、彼の心を揺らし続ける。彼は墨をすり、筆を取ると、真っ白な紙の中心に、ただ一文字だけを記した。

『光』

記憶を失っても、彼が守りたかったもの。彼の魂が、最後に掴んだもの。その一文字は、まるで夜明けの空のように、静かに、そして力強く輝いていた。

この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る