クロノス・ポスト
第一章 十五日の預言者
水原湊(みずはらみなと)の人生は、古書のインクの匂いと、静寂に満ちていた。彼が店長代理を務める『時紡ぎ堂』は、街の片隅で百年近く時を刻んできた古書店だ。高い天井まで届く本棚、日に焼けた背表紙の列、そして床板の軋む音。そのすべてが、湊にとって揺るぎない日常だった。
だが、彼の日常には、誰にも話したことのない秘密が一つだけあった。毎月十五日、午前七時きっかりに、郵便受けに投函される一通の手紙。それはいつも、宛名も差出人もない、素っ気ないクリーム色の封筒に入っている。切手もなければ、消印もない。まるで、空間から滲み出すようにそこに出現するのだ。
湊はそれを「未来からの手紙」と呼んでいた。中に入っている便箋には、三十年後の自分が書いたとしか思えない、彼自身の筆跡に酷似した文字で、近未来に起こるささやかな出来事が記されている。
『今週の木曜、紺のコートを着た老婦人が夏目漱石の初版本を探しに来る。北側の棚、上から三段目の奥にある。予め出しておくといい』
『来週は雨が多い。特に火曜の帰りは土砂降りになる。折り畳み傘を忘れるな』
『月末に仕入れる予定の詩集は、思ったより人気が出ない。三冊に留めておけ』
予言は、これまで一度も外れたことがなかった。おかげで湊の人生は、大きな失敗もなければ、急なトラブルもない、凪いだ海のように平穏だった。彼はこの不思議な現象を、未来の自分が過去の自分へ送る、親切な道標なのだと解釈していた。幼い頃に物理学者の父を事故で亡くし、母も数年前に後を追うように病で逝ってしまった湊にとって、その手紙は孤独な心を支える唯一の杖でもあった。
しかし、その杖は、彼の足から歩く力を少しずつ奪っていた。手紙に示された道をなぞるだけの毎日は、彼から「決断する」という主体性を奪い、穏やかだがどこか空虚な人間へと変えていた。そのことに、湊自身はまだ気づいていなかった。今日もまた、書架の整理をしながら、次の十五日が来るのをぼんやりと待っている。埃の粒子が西日を受けてきらきらと舞う。その光景は美しく、そしてひどく静かだった。
第二章 座標のズレ
その月の十五日に届いた手紙は、いつもと何かが違っていた。封筒の手触り、インクの掠れ具合。気のせいかもしれない。だが、湊の胸には小さなさざ波が立った。深呼吸をして便箋を広げた彼の目は、そこに綴られた一行の文章に釘付けになった。
『来月、時紡ぎ堂を辞めろ。ここがお前の居場所ではない』
血の気が引くのが分かった。時紡ぎ堂を、辞めろ? なぜ。ここは、本好きだった父が唯一、研究室以外で心安らげる場所として通っていた店だ。父の死後、先代の店主が、まるで息子を引き取るかのように湊を雇ってくれた。本に囲まれ、父の残り香を感じられるこの場所は、湊にとって聖域そのものだった。未来の自分は、なぜそれを手放せと命じるのか。
「どうしたの、湊くん。顔色が悪いわよ」
カウンターで文庫本を読んでいたアルバイトの美咲が、心配そうに顔を上げた。湊は慌てて手紙をポケットにねじ込んだ。
「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
「ふーん?」
美咲は疑わしげに首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
その日から、湊の心は乱れた。眠りは浅くなり、本のページをめくる指もどこか覚束ない。初めてだった。手紙の指示に、心が真っ向から「否」と叫んでいるのは。本当にこれは、未来の自分が望んだことなのだろうか。三十年後の俺は、父との思い出が詰まったこの場所を、そんなに簡単に見捨てられる人間になってしまうのだろうか。
数日後、湊は思い切って美咲に打ち明けてみた。もちろん、「未来からの手紙」という非現実的な部分は伏せて。「もし、すごく信頼している人から、今の仕事を辞めろって言われたら、どうする?」と。
美咲はきょとんとした後、少し考えてから言った。
「うーん……。でも、私の人生だもん。最後に決めるのは、私自身かな。どんなに信頼してる人でも、私の未来の責任までは取ってくれないでしょ」
その言葉は、湊の胸に深く突き刺さった。そうだ。これは俺の人生だ。未来の俺からの手紙だとしても、今の俺の気持ちを無視していいはずがない。
葛藤の末、湊は一つの決断を下した。初めて、手紙の指示に背く。俺は、時紡ぎ堂を辞めない。
その決意は、錆び付いていた歯車に油を差し、ぎしりと音を立てて回し始めるような、痛みを伴う覚醒だった。同時に、湊の中で巨大な疑問が鎌首をもたげた。あの手紙は、本当に未来の俺が書いたものなのだろうか、と。
第三章 時を渡るインク
自分の意志で未来を選択した湊は、まるで憑き物が落ちたかのように、あの手紙の正体を突き止めようと決意した。平穏な日常を揺るがした手紙は、今や彼の探求心に火をつけていた。
まず、筆跡だ。自分のものにそっくりだと思い込んでいたが、改めて過去の手紙をすべて並べてみると、僅かな違いが見えてきた。特に「水」や「光」といった漢字の跳ね方。そこには、自分にはない、力強くも優しい癖があった。記憶の海の底から、おぼろげなイメージが浮かび上がる。そうだ、これは……幼い頃、書斎で見た父の筆跡に似ている。
まさか。父は二十年前に死んだはずだ。あり得ない。だが、一度芽生えた疑念は、蔦のように湊の心に絡みついて離れなかった。
彼は藁にもすがる思いで、一番最近届いた手紙の封筒と便箋を、大学で古文書学を研究している友人に送り、分析を依頼した。
「冗談だろ、湊。こんなもの、どうしたんだ?」
数日後、電話口の友人は興奮を隠しきれない様子だった。
「この紙、少なくとも製造から二十年は経ってるぞ。それにインクが凄い。普通の染料じゃない。ごく微量だけど、特殊な素粒子の反応が出てる。こんなの、見たこともない」
素粒子。その言葉が、湊の脳裏に稲妻を走らせた。彼は転がるように実家の物置へ向かい、埃を被った段ボール箱をこじ開けた。そこには、父の遺品が詰め込まれている。異端の物理学者と呼ばれた父が遺した、膨大な研究ノート。その一冊を手に取り、ページをめくった。
『時空連続体における情報伝達の可能性についての考察』
難解な数式と理論物理の記述が続く。湊にはほとんど理解できなかったが、ノートの後半に差し掛かった時、彼の目はある図表に吸い寄せられた。そこには、特定のブラックホールの重力レンズ効果が地球に作用する周期が記されており、その影響で時空に微小な「裂け目」が生じる可能性が示唆されていた。そして、その現象が最も安定して観測される予測日が、驚くべきことに、毎月「十五日」前後と記されていたのだ。
父は、この時空の裂け目を利用して、過去から未来へ何かを送ろうとしていたのではないか。ノートの最後のページに、その答えはあった。震えるような、しかし愛情に満ちたインクの文字。
『湊へ。未来のお前が道に迷わぬように。父さんは、いつでもお前のそばにいる』
全身の力が抜けた。そういうことだったのか。未来の自分などではなかった。手紙は、二十年前に亡くなった父が、自らの死を予期しながら、遺される息子の未来を案じ、たった一人で書き溜めていたものだったのだ。来る日も来る日も、息子の三十年後までの人生を思い描き、道に迷わぬようにと、ささやかな道標を記し続けていたのだ。それは、物理学という名の魔法を使った、時空を超えた壮大なラブレターだった。
父の途方もない愛の大きさに、湊はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。インクの匂いが、インクが乾く音だけが支配していた静かな世界に、初めて響いた慟哭だった。
第四章 最後の手紙
真実を知ってから初めて迎える、十五日の朝が来た。湊は、これまでとは全く違う感情で郵便受けの前に立っていた。胸が張り裂けそうなほどの切なさと、温かい感謝の念が入り混じっている。父の研究ノートによれば、時空の裂け目が安定して繋がるのは、計算上、もう間もなくだった。これが、最後の手紙になるかもしれない。
郵便受けには、いつもと同じクリーム色の封筒が、静かに横たわっていた。
湊は震える指でそれを取り出し、ゆっくりと封を切った。中の便箋を取り出すと、そこには見慣れた、しかし今ははっきりと父のものだとわかる、温かい筆跡があった。
『湊へ。
この手紙がお前に届く頃、父さんはもうこの世界にはいないだろう。そして、これが本当に最後の手紙だ。私の計算では、クロノス・ポストが繋がるのはここまでらしい。
お前はもう、十分に大人になった。父さんの道標などなくとも、自分の力で歩いていける。いや、もしかしたら、私の手紙は、お前の歩みを邪魔していたのかもしれないな。すまなかった。
これからは、お前の人生だ。自由に、間違いを恐れずに、お前の足で歩いていけ。本をたくさん読み、たくさんの人と出会い、たくさん恋をしなさい。時には道に迷い、傷つくこともあるだろう。だが、それもすべて、お前自身の物語の一部だ。
どんな未来を選んだとしても、父さんはいつでもお前を誇りに思っている。
愛しているぞ、私のたった一人の息子よ』
手紙を握りしめ、湊の頬を涙が伝った。それはもう、孤独や悲しみの涙ではなかった。父から受け取った、計り知れないほどの愛に対する、感謝の涙だった。失われた二十年という時間が、この一通の手紙によって、確かに埋められた気がした。
翌日、湊は時紡ぎ堂の老店主に深々と頭を下げた。
「これからも、ここで働かせてください。僕自身の意志で、この店を守っていきたいんです」
店主は何も聞かず、ただ優しく微笑んで湊の肩を叩いた。
その夜、湊は久しぶりに屋上に上がり、夜空を見上げた。満天の星が、まるで父が瞬きかけているかのように輝いている。手紙はもう来ない。彼の未来は、誰にも予言できない、真っ白なページに戻った。だが、湊の心にはもう、何の不安もなかった。父の愛という、決して失われることのない羅針盤を胸に抱いているのだから。
彼は星空に向かって、そっと呟いた。
「ありがとう、父さん。僕の物語は、ここから始まるよ」
それは、時空を超えて父に届ける、湊からの最初で最後の手紙だった。