終の指物師

終の指物師

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第一章 桜の櫛、終焉の香り

清十郎の指先から、最後の命が吹き込まれる。磨き上げられた山桜の木肌は、しっとりと艶を帯び、夜明け前の空の色を映していた。櫛の背には、彼が精魂込めて彫り上げた小さな花筏(はないかだ)が、まるで今にも流れ出しそうに瑞々しい。これは、薬種問屋「近江屋」の一人娘、お琴のために誂えられた祝いの品だった。

「見事なもんだ、清十郎。お前の腕は江戸一番だ」

注文主である近江屋の主人が、満足げに目を細める。清十郎はただ黙って頭を下げた。言葉とは裏腹に、彼の胸の内には、冷たい霧が立ち込めていた。完成した櫛を桐箱に収めた瞬間、あの、ぞわりと背筋を這い上がる感覚が再び彼を襲ったのだ。それは、美しいものを作り上げた達成感とは程遠い、言いようのない喪失感と哀しみの予兆だった。

職人長屋に戻る道すがら、清十郎の脳裏に過去の記憶が蘇る。半年前、ある老侍のために作った一位の木彫りの鷹。完成の三日後、老侍は穏やかに大往生を遂げたという。鷹は、彼の枕元に置かれていた。一年前、懇意にしていた茶屋の女将に頼まれて作った欅の菓子器。届けた翌週、女将は不慮の事故で命を落とした。彼女が最後に客に出した菓子は、その器に盛られていた。

偶然か。そう思おうとしても、胸を締め付けるこの不吉な感覚がそれを許さない。清十郎が魂を込めて作り上げた物は、必ずと言っていいほど、持ち主の「最後の品」となるのだ。彼の作る物は、祝いの品ではなく、終焉を飾るための供物なのかもしれない。

案の定、十日後、風の噂が彼の耳に届いた。近江屋の一人娘お琴が、流行り病で儚くなった、と。聞けば、熱に浮かされ意識も朦朧とする中、彼女は「あの櫛で、髪を…」と繰り返し、侍女がその桜の櫛で黒髪を梳いてやると、満足したように静かに息を引き取ったという。

その話を聞いた瞬間、清十郎の世界から音が消えた。鑿(のみ)を振るう音も、鉋(かんな)が木を削る小気味よい響きも、もはや彼には喜びをもたらさない。彼の類稀なる才能は、祝福ではなく、死神の刻印を彫るための呪いだった。その日を境に、清十郎は仕事道具を箱に仕舞い、固く蓋を閉ざした。

第二章 鑿の沈黙と若武士の願い

指物師が木を断って三月(みつき)が過ぎた。清十郎は日雇いの力仕事で糊口をしのいでいたが、心は満たされなかった。夜ごと、指がうずく。木肌の滑らかさ、木目の美しさ、そして、命なき木に形を与えるあの瞬間の官能的なまでの喜びを、身体が覚えていた。だが、その喜びの先に待つものを思うと、彼は頑なに鑿を握ることを拒んだ。

そんなある雨の日の午後、彼の侘しい住まいを、一人の若武士が訪ねてきた。歳は二十歳を少し過ぎた頃だろうか。涼やかな目元に強い意志を宿しているが、その顔にはどこか拭いがたい翳りがあった。

「あなたが、指物師の清十郎殿か」

「……今はもう、廃業した身だ」

「噂は聞いている。あなたほどの腕を持つ者が、そう易々と鑿を置けるはずがない」

武士は、名を相良隼人(さがらはやと)と名乗った。彼は、清十郎がかつて作ったという、子供向けの小さな木馬の話を切り出した。持ち主であった商人の息子は、その木馬を抱いて病の床で亡くなったが、その最期の顔は笑っていたと。

「私の話も、同じようなものだ」隼人は静かに続けた。「病に臥せる妹がいる。名は千代。医者からは、もう幾許もないと……。あの子に、最後に笑ってほしいのだ。何か、あなたの手で、あの子が喜ぶような絡繰(からくり)の細工物を作ってはもらえまいか」

清十郎の心臓が、氷の塊を飲み込んだように冷えた。まただ。また、死にゆく者のための最後の慰めを求められている。断らねばならない。これ以上、自分の手で誰かの終焉を飾りたくはない。

「できぬ。あんたの望むようなものは、俺には作れん」

「なぜだ。礼ならいくらでもする」

「金の問題ではない!」

思わず、荒い声が出た。隼人は驚いたように清十郎を見つめたが、やがて悲しげに目を伏せた。

「……そうか。無理を言った。だが、考えてみてはくれまいか。死にゆく者が最後に触れる品を作ることは、本当に呪いなのだろうか。それは、その者の最期の瞬間に、この上ない慰めと安らぎを与える、尊い務めではないのか」

隼人の言葉は、清十郎の心の固い殻に、小さなひびを入れた。彼は何も答えられなかった。去り際に隼人が置いていった手付金の包みを、清十郎はただ見つめることしかできなかった。その夜、彼は眠れなかった。呪いか、務めか。答えの出ない問いが、彼の心を苛み続けた。隼人の妹を想う真摯な眼差しが、脳裏から離れなかった。

第三章 絡繰人形に託された偽り

数日後、清十郎は工房の戸を開けた。埃をかぶった道具箱の蓋を開け、久しぶりに愛用の鑿を手に取る。ひやりとした鉄の感触が、彼の指先に決意を伝えた。作る。隼人の妹のために。それが呪いであろうと務めであろうと、目の前の依頼から逃げるのは、職人としての己の魂を殺すことと同じだ。

彼は最高の材料を求め、自らの足で木材問屋を巡った。人形の身体には、肌理の細かい朴(ほお)の木を。着物には、鮮やかな模様が美しい神代欅(じんだいけやき)を。彼は寝食を忘れ、製作に没頭した。これはただの人形ではない。一人の少女の、人生最後の友人となるのだ。

設計したのは、手を二度叩くと、内蔵された絡繰が作動して、くるくると舞を踊るというものだった。何度も失敗を重ね、指を傷だらけにしながら、清十郎は精緻な歯車を一つひとつ削り出していく。彼の脳裏にあったのは、病床の少女の笑顔。そして、妹の幸せだけを願う、兄のひたむきな姿だった。

一月後、奇跡のような絡繰人形が完成した。身の丈一尺にも満たない小さな人形だったが、その顔は慈愛に満ち、着物の木目はまるで本物の友禅のように華やかだった。清十郎はそっと手を二度叩いた。カチリ、という小さな音と共に、人形はまるで魂が宿ったかのように、優雅に舞い始めた。それは、悲しみを忘れさせるような、可憐で美しい舞だった。これならば、きっと千代殿を笑顔にできる。清十郎は、久しぶりに心の底からの満足感を覚えていた。

約束の日、清十郎は人形を桐箱に収め、隼人の来訪を待った。しかし、やってきたのは見知らぬ武士だった。彼は隼人の同僚だと名乗り、深々と頭を下げた。

「相良隼人に代わり、某が参った。急なことで、知らせが遅れたこと、お許し願いたい」

「隼人殿は、ご多忙かな」

清十郎の問いに、同僚の武士は痛ましげに顔を歪めた。

「……隼人は、昨夜、息を引き取った」

「なに……?」

清十郎は耳を疑った。病だったのは、妹の千代ではなかったのか。

「病に臥せっていたのは、妹君ではなく、隼人自身だったのだ。己の命が長くないと悟ったあいつは、たった一人の肉親である妹の千代殿が、自分が死んだ後も寂しくないようにと、最後の力を振り絞って貴殿にこれを頼んだ。妹は兄の病を知らない。兄もまた、妹に余計な心配をかけまいと、最後まで病状を偽っていたのだ」

衝撃の事実に、清十郎は言葉を失った。全身の血が逆流するような感覚。彼が作っていたのは、死にゆく妹のための「最後の品」ではなかった。妹を遺して逝く兄の、「最後の願い」そのものだったのだ。隼人は、この人形の舞を見ることなく逝ってしまった。彼が守りたかった妹の笑顔も、見届けることは叶わなかった。清十郎の胸を、これまで感じたことのないほどの激しい痛みが貫いた。

第四章 終の贈り物、始まりの涙

隼人の屋敷は、静まり返っていた。案内された一室で、千代は一人、ぽつんと座っていた。兄の突然の死を受け入れられずにいるのか、その瞳は虚ろで、涙さえ枯れ果てたように見えた。清十郎は、同僚の武士に促され、静かに桐箱を彼女の前に置いた。

「これは、兄上が、あなたのために」

千代はゆっくりと顔を上げた。その目に、ようやく生気が戻る。彼女はおずおずと箱を開け、中の人形を取り出した。その瞬間、人形の優しい顔立ちに、在りし日の兄の面影を見たのかもしれない。千代の瞳から、大粒の涙がはらりとこぼれ落ちた。

清十郎は、震える声で告げた。

「その人形は……手を二度、叩いてみてくだされ」

千代は、泣きじゃくりながら、言われた通りに小さな手を二度、合わせた。ぱん、ぱん、と乾いた音が響く。すると、彼女の手の中の人形が、静かに舞い始めた。くるり、くるりと回るその姿は、不器用で、けれど懸命に誰かを励まそうとしているかのようだった。それは、口下手だった兄が、妹を慰めようとするときの姿そのものだった。

舞う人形を見つめる千代の唇が、かすかに綻んだ。涙に濡れたその顔に、微かな、しかし確かな微笑みが浮かんでいた。それは、悲しみの中に見つけた、一筋の光のような笑顔だった。

その光景を見届けたとき、清十郎はすべてを悟った。

自分のこの力は、呪いではなかった。死を招く不吉なものではなく、死者の想いを形にし、遺された者へと繋ぐための天命だったのだ。彼が作るものは、終焉の象徴などではない。それは、遺された者が明日を生きるための、「最後の贈り物」であり、新たな物語の「始まりのしるし」なのだ。隼人の願いは、確かに妹の心に届いた。そして、その橋渡しをしたのは、紛れもなく自分のこの手だった。

長屋に戻った清十郎は、工房の窓を大きく開け放った。夕暮れの光が差し込み、工房の隅々までを暖かく照らし出す。彼は、静かに鑿を握った。もう、迷いも恐れもない。彼の顔には、自らの運命を受け入れた職人の、静かで穏やかな微笑みが浮かんでいた。

これから先も、彼は作り続けるだろう。誰かの「最後の物語」を、慈しみをもって、その指先で紡いでいく。それは時に哀しく、時に切ない仕事に違いない。だが、その終の贈り物が、遺された誰かの心に小さな灯火をともすのだと、彼はもう知っていた。

夕陽に照らされた木屑が、きらきらと光りながら、まるで祝福のように工房の中を舞っていた。

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