きみがいた夏の焦点距離

きみがいた夏の焦点距離

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第一章 ファインダー越しの都市伝説

シャッターを切る瞬間、僕は世界から切り離される。ファインダーという四角い窓だけが、僕と世界を繋ぐ唯一の接点だった。潮風が錆びつかせた屋上のフェンス。その向こうに広がる、どこまでも青い空と海。被写体はいつも、そこに「在る」だけのもの。人じゃない。人の心は複雑で、レンズを通してもその本質を捉えることなどできやしないからだ。

「ねえ、私のこと、撮ってくれない?」

背後からの声に、心臓が跳ねた。振り向くと、そこに立っていたのは月島陽菜。一週間前に都会から転校してきた、色素の薄い髪が太陽の光を吸い込んでキラキラと輝く少女。彼女の首からは、僕のデジタル一眼レフとは対照的な、古めかしいフィルムカメラが提げられていた。

「……悪いけど、人は撮らない主義なんだ」

ぶっきらぼうに答えてカメラを構え直す。早くこの場から立ち去ってほしかった。彼女には、奇妙な噂がつきまとっていたからだ。

『月島さんの写真を撮ると、その写真から彼女の姿だけが消える』

まるで子供だましの都市伝説。だが、実際に何人かの生徒がスマートフォンで撮った写真を見せ合った結果、確かに彼女の写った部分だけが、奇妙な光の滲みやノイズになっていたという。だから皆、彼女にカメラを向けることを恐れ、遠巻きに眺めているだけだった。

「どうして? きみ、写真部なんでしょう? だったら上手じゃない」

「上手い下手じゃない。撮らないって決めてるんだ」

陽菜は、僕の拒絶にも怯むことなく、一歩近づいてきた。ふわりと、夏草と陽光が混じったような匂いがする。

「そっか。じゃあ、気が変わったらお願いね、相沢湊くん」

僕の名前を、彼女は知っていた。その事実に少しだけ動揺しながら、僕はファインダーを覗き込み、シャッターを切った。カシャリ、と乾いた音が響く。もちろん、レンズが向いていたのは、彼女ではなく、遠くの水平線だった。

僕、相沢湊は、この海辺の町の高校で、たった一人の写真部員だった。廃部寸前の部室の、薬品の匂いが染みついた暗闇だけが、僕の聖域。そこで一人、撮りためた風景写真を現像する時間だけが、心の安らぎだった。誰にも踏み込ませず、誰の心にも触れない。それが僕の守ってきた世界のルールだった。

月島陽菜という存在は、そのルールを根底から揺るがす、予期せぬ光の粒子みたいだった。

第二章 色褪せないシャッター音

陽菜は、僕のテリトリーに土足で、しかし楽しそうに踏み込んできた。昼休みには屋上に現れ、僕の隣で持参した弁当を広げる。放課後、僕が部室に籠っていると、ドアをノックして「今日の夕焼け、すごいよ!」と呼びに来る。僕はその度に、迷惑だという顔を隠さずにいたが、彼女のペースに巻き込まれていくのを、どうすることもできなかった。

「湊くんは、どうして風景しか撮らないの?」

ある日の帰り道、夕暮れの砂浜を二人で歩きながら、陽菜が尋ねた。彼女は自分のフィルムカメラで、波打ち際に残された誰かの足跡を撮っている。

「……風景は、裏切らないから」

「ふうん」

「それに、嘘もつかない。ただ、そこにあるだけだ」

昔、たった一枚の写真で、大切な友人を深く傷つけたことがあった。僕が撮った何気ない彼の表情が、周囲の悪意ある解釈によって、彼を孤立させる原因になったのだ。「お前の写真は、真実を写さない」。そう言い放たれた言葉が、今も耳の奥で棘のように刺さっている。それ以来、僕はレンズを人に向けることができなくなった。

「でも、風景だって嘘をつくよ」と陽菜が言った。「今見ているこの夕焼けだって、もう八分以上も前の光なんだよ。私たちが見ているのは、いつだって過去の光なんだから」

彼女の言葉は、まるで詩の一節のようだった。僕は何も言い返せず、ただ黙って波の音を聞いていた。

陽菜の噂が、どうしても頭から離れなかった。好奇心は、恐怖に勝る。ある日、僕は部室の窓から、校庭で友達と笑い合っている陽菜に、望遠レンズを向けた。心臓が早鐘を打つ。指先に汗が滲む。僕は息を止め、シャッターを切った。

その夜、赤いセーフライトだけが灯る暗室で、僕は現像液に印画紙を浸した。揺れる液体の中で、像がゆっくりと浮かび上がってくる。校庭の木々、楽しそうに笑う生徒たち……。だが、その中心にいるはずの陽菜の姿だけが、まるでそこに初めから誰もいなかったかのように、白く抜け落ちていた。背景はくっきりと写っているのに、彼女がいた場所だけが、不自然な光の染みになっている。

背筋が凍りついた。都市伝説は、本当だった。

月島陽菜は、一体何者なんだ?

僕は印画紙を掴む指が震えるのを感じながら、この正体不明の少女に、抗いがたいほど強く惹かれている自分に気づいていた。彼女が放つ、儚く、そしてどこか懐かしい光に。

第三章 ひかりの中に君はいない

翌日、陽菜は学校に来なかった。その次の日も。

何の連絡もなく、彼女の席はがらんとしたままだった。クラスメイトは「またどこかに転校したんじゃないか」と噂していたが、僕の胸騒ぎはそれとは違う種類のものだった。いてもたってもいられず、僕は放課後、彼女から聞いた住所を頼りに、海を見下ろす高台にある一軒家へと向かった。

古びた木製のドアをノックするが、返事はない。何度か呼びかけても、家の中はしんと静まり返っている。ふと、隣の家の庭先で、老婆が植木に水をやっているのが目に入った。

「あの……すみません。こちらの、月島さんのお宅に……」

僕が言いかけると、老婆は怪訝そうな顔でこちらを見た。

「月島さん? ああ……。でも、あそこはもう何年も空き家だよ。気の毒なことだったねえ」

「え?」

「三年前だったかねえ。あの一家がこの町に越してくる直前に、家族旅行の帰りに事故に遭っちまってね。ご両親と、高校生くらいの娘さんが一人……。本当に、これからだって時だったのに」

老婆の言葉が、頭の中で反響する。意味が、理解できない。三年前の事故? じゃあ、僕が会っていた月島陽菜は? 僕と一緒に笑い、話をしたあの子は、誰なんだ?

全身の血が引いていくのを感じた。僕はふらつく足でその場を離れ、夢中で走った。向かう先は、写真部の部室。自分の聖域だったはずの場所。

ドアを開け、棚の奥から陽菜を撮ったあの白い抜け殻の写真を引っ張り出す。

写真に写らないんじゃない。

彼女は、この世界の「記録」に残ることができない存在だったんだ。

愕然と立ち尽くす僕の脳裏に、陽菜の言葉が蘇る。

『私たちが見ているのは、いつだって過去の光なんだから』

彼女自身が、届かなかった未来から僕たちを見ていた「過去の光」だったとしたら?

彼女がいつも持っていたフィルムカメラ。あれで撮っていたのは、何だったんだろう。彼女が生きていたら見たかった風景? 過ごしたかった時間?

僕に「撮ってほしい」と頼んだのは、なぜだ。

消えてしまうと分かっているのに。

答えは、すぐに見つかった。

撮ってほしかったんだ。たとえ記録に残らなくても、誰か一人にでも、自分の存在を「見て」ほしかった。ファインダー越しに、真剣な眼差しで、ただ自分だけを見つめてほしかった。

そして、覚えていてほしかったのだ。月島陽菜という少女が、確かにこの世界に存在したことを。

僕は、今まで自分がどれほど傲慢だったかを思い知った。人を傷つけることを恐れるあまり、誰かを記憶に刻むことからも、誰かの記憶に残ることからも逃げていた。写真の本質は、記録なんかじゃない。それは「記憶」そのものなんだ。シャッターを切った瞬間の光、空気、感情。そのすべてを焼き付ける、心の作業。

僕は床に散らばった風景写真を踏みつけ、暗室の壁を殴りつけた。込み上げてくるのは、後悔と、陽菜へのどうしようもない愛おしさだった。

ひかりの中に君はいない。

ならば、僕の心の中に、君を焼き付けるしかない。

第四章 きみのためのシャッター

僕はカメラを手に、部室を飛び出した。

陽菜と歩いた砂浜。一緒にジュースを飲んだ駄菓子屋の前。彼女が「秘密基地みたい」と笑った、港の古い倉庫。

僕は、彼女がいたはずの場所にカメラを向け、夢中でシャッターを切り続けた。

カシャリ、カシャリ。

ファインダーを覗くと、そこに彼女の笑顔が見える気がした。幻でも構わない。僕の目には、僕の記憶には、確かに彼女が写っている。

陽が傾き始め、空と海が燃えるようなオレンジ色に染まる頃、僕はあの岬に立っていた。陽菜が「この町で一番好きな場所」だと言っていた、小さな灯台のある岬。

案の定、そこに彼女はいた。

夕日を背に、こちらを向いて微笑んでいる。その姿は、前よりもずっと透き通っていて、今にも風に溶けてしまいそうだった。

「……遅かったじゃない、湊くん」

声は、風の音に混じって、かろうじて聞こえるくらいだった。

「ごめん」

僕はカメラを構えた。もう、迷いはなかった。

「陽菜、撮るよ。世界で一番、綺麗に撮ってやる」

「うん」

陽菜は嬉しそうに頷くと、少しだけはにかんだ。それは、僕が初めて見る表情だった。

ファインダーを覗く。

夕日の光がレンズの中で乱反射し、美しい光の輪(フレア)が、彼女の輪郭を優しく包み込んでいる。僕は彼女の瞳の奥にある、寂しさと、喜びと、感謝のすべてを見つめた。そして、ゆっくりと息を吸い込み、シャッターボタンに指をかけた。

カシャッ。

それは、今までで一番、優しくて、そして切ないシャッター音だった。

数日後。文化祭の準備で賑わう校舎の片隅で、僕は一枚の写真を額縁に入れていた。

現像した写真に、陽菜の姿はなかった。

ただ、岬の灯台と、燃えるような夕焼けが写っているだけ。しかし、その写真の中心には、確かに彼女がいた場所にだけ、不思議なほど柔らかく、温かい光が満ち溢れていた。まるで、彼女の魂がそこに溶け込んだかのように。

僕はその写真に、『ひかりの記憶』というタイトルをつけた。

写真部の展示スペースに、その一枚だけを飾った。多くの生徒が足を止め、風景写真なのに、なぜか涙が出そうになる、と不思議そうな顔で囁き合っていた。

文化祭の最終日。僕はカメラを首から提げ、校庭の喧騒の中にいた。レンズの先には、クラスメイトたちの弾けるような笑顔がある。

「おーい、相沢! こっちも撮ってくれよ!」

友人の声に、僕は笑って応えた。

「おう、今行く」

ファインダーを覗き込む。そこには、僕が失って、そして取り戻した世界が広がっていた。誰かを記憶し、誰かに記憶されることの、温かさと切なさを胸に。

僕はもう、レンズを人に向けることを恐れない。

僕の撮る写真は、いつだって君に繋がっているから。

カシャリ。

シャッター音が、澄み渡った秋空に、どこまでも優しく響いていった。

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