シャドウ・ダイアログ

シャドウ・ダイアログ

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第一章 沈黙する影と饒舌な僕

僕が通うこの白鳳館(はくほうかん)学園は、一つの奇妙な法則に支配されている。それは、すべての生徒と教員の「影」が、本人の意志とは無関係に、その者の本音や隠された感情を代弁するというものだ。

午後の古典の授業。窓から差し込む気怠い光が、教室の床に僕たちの影を長く引き伸ばしている。教壇に立つ初老の教師の影が、「ああ、早くビールが飲みたい」と低い声で呟けば、生徒たちの影もてんでに囁き始める。「つまらない」「眠い」「昨日のドラマの続きが気になる」。もちろん、僕の影も例外ではない。

「建前だけの優等生を演じるのも楽じゃないな、海斗」

足元で、僕そっくりの黒い人型が、腕を組んで冷笑している。僕はその声に気づかぬふりをして、ノートに意味のない数式を書き殴った。僕、桐島海斗は、波風を立てずにこの異常な学園を卒業することだけを目標に生きてきた。そのためには、この饒舌で皮肉屋な自分の影を無視し、完璧な「普通の生徒」を演じきる必要があった。

この学園では、誰もが本音を垂れ流す影と共に生きることを余儀なくされる。だからこそ、人々は表面上、より丁寧で、より配慮のある言葉を選ぶようになった。本音と建前が分離した世界。それは息苦しく、滑稽で、そして時々、残酷だった。

そんな日常に、小さな波紋が生まれたのは、二年に進級してすぐのことだった。僕の隣の席になった少女、水無月(みなづき)しおり。彼女は、影たちの喧騒が嘘のような静寂を纏っていた。色素の薄い髪、感情の読めない大きな瞳。彼女自身がほとんど言葉を発しないだけでなく、彼女の影もまた、一切の声を立てなかったのだ。

他の生徒たちの影が嫉妬や好奇心をぺちゃくちゃと喋る中、水無月さんの影だけは、まるで音を失った映画の登場人物のように、身振り手振りだけで感情を表現していた。彼女が俯けば、影はくしゃりと泣き崩れるような形になり、僕が彼女にプリントを渡せば、影は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。しかし、声だけがない。

なぜだ? この学園の法則は絶対のはずだ。誰もが、その呪いのような祝福から逃れられない。なのに、なぜ彼女の影だけが沈黙を守っているのか。

「おい、見ろよ。またあの女の影、踊ってるぜ」僕の影が囁く。「案外、君に気があるんじゃないか? 本体はあんなにツンとしてるくせに」

「黙れ」と心の中で悪態をつく。だが、僕もまた、その沈黙の影から目が離せなくなっていた。声にならない本音とは、一体どんなものなのだろう。僕の目には、その沈黙が、学園中のどんな饒舌な影よりも雄弁に、彼女の心の深淵を物語っているように思えた。

水無月しおりの謎。それが、僕の退屈な学園生活を根底から揺るがす、最初の兆候だった。

第二章 揺れる輪郭

僕は、水無月さんの沈黙の影の謎に取り憑かれていた。彼女に話しかけようと試みるたび、僕の影は「下心丸見えだぞ」「どうせ断られるに決まってる」と野次を飛ばし、僕の決意を鈍らせる。周囲の生徒たちの影も、僕たちの動向を面白おかしく実況中継していた。この学園では、純粋な好奇心さえも、衆人環視の劇場で演じられる寸劇と化してしまう。

「水無月さん、この前の小テストの範囲、わかる?」

勇気を振り絞って話しかけると、彼女は僅かに肩を揺らし、無言で教科書の該当ページを指差した。その横顔は能面のように無表情だ。だが、床に落ちた彼女の影は、まるで祝福のダンスを踊るかのように、くるくると楽しげに回っていた。そして、僕の影に向かって、そっと手を伸ばすような仕草を見せる。

「ほら見ろ、やっぱりだ」と僕の影が勝ち誇ったように言う。「彼女の本心は君を求めてる。なのにお前ときたら、この体たらくか」

僕は混乱した。目の前の彼女の拒絶的な態度と、足元の影が示す好意。どちらが本当の水無月さんなのだろうか。いや、この学園の法則を信じるなら、影こそが真実だ。ならば、彼女はなぜ、これほどまでに本心と行動を乖離させなければならないのだろう。

その日から、僕は彼女を観察することに没頭した。昼休み、彼女は決まって図書室の片隅で、古い装丁の本を読んでいた。窓から差し込む光が彼女の輪郭を曖昧に溶かし、床に落ちた影との境界線をわからなくさせる。その光景はひどく幻想的で、彼女がこの世の者ではないような錯覚すら覚えた。

ある雨の日、僕は図書室で彼女の姿を探した。いつもの席は空席で、代わりに禁書と札が下げられた書庫の扉が、僅かに開いていた。胸騒ぎを覚え、そっと中を覗くと、薄暗がりの中、彼女が必死の形相で書棚を探っているのが見えた。床に伸びた彼女の影は、まるで何かを恐れるように、小さく震えている。

「水無月さん……?」

僕の声に、彼女はびくりと体を硬直させた。振り向いたその瞳には、初めて見る、剥き出しの焦りと怯えが浮かんでいた。

「来ないで!」

彼女はか細い声で叫ぶと、一冊の古い本をひったくるように掴み、僕の横をすり抜けて走り去っていった。

取り残された書庫には、カビと古い紙の匂いが満ちていた。床には、彼女が落としていったのだろう、一枚の写真が落ちている。それは、二人のよく似た少女が、幸せそうに笑っている写真だった。

「面倒なことに首を突っ込む天才だな、お前は」

僕の影が呆れたように言った。だが、その声にはいつものような刺々しさがなかった。僕の心は、ただ一つの思いで満たされていた。彼女を、水無月しおりという存在を、もっと知らなければならない。たとえそれが、僕の平穏な日常を壊すことになったとしても。

第三章 反転する世界

追いかけなければ。その一心で僕は図書室を飛び出した。雨が降りしきる渡り廊下の向こうに、彼女の姿を見つける。僕は息を切らしながら彼女の前に立ち塞がり、拾った写真を突きつけた。

「これは、何なんだ? 君は一体、何を探してるんだ?」

雨音が僕たちの間の沈黙を埋める。水無D月さんは俯き、唇を固く結んでいた。彼女の足元の影は、苦しげに身をよじり、その輪郭がぐにゃりと歪んでいる。まるで、二つの力がせめぎ合っているかのようだ。

「教えてくれ、水無月さん。君の影は、どうして喋らないんだ。君は、何を隠しているんだ」

僕の問いは、懇願に近かった。僕の影も、今は何も言わず、ただじっと彼女の影を見つめている。

長い沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は雨に濡れ、決意の色を宿していた。そして、僕の常識を、この学園の法則を、世界のすべてを反転させる言葉を紡いだ。

「私の影は、喋れないんじゃない。喋らないのよ」

彼女は震える声で言った。

「だって……あの子が、本当の『私』だから」

僕は何を言われたのか、瞬時に理解できなかった。本当の、私?

彼女は僕の足元、正確には僕の影の隣で、ただ静かに佇む自分の影を指差した。

「あの子が、水無月しおり。私は……私は、しおりの『影』なのよ」

全身の血が逆流するような衝撃。目の前にいる彼女が、影? では、あの沈黙を守っていた影こそが、本体?

「どういう……ことだ?」

「昔、事故があったの。双子の妹が、私のせいで……死んだ。そう、思い込んだ。私は心を閉ざして、喋れなくなって、動けなくなった。世界が怖くて、ただ自分の殻に閉じこもりたかった。そう強く願ったら……いつの間にか、こうなっていたの」

彼女、いや、本来は影である彼女が語る事実は、あまりに突飛で、しかし妙な説得力があった。

「心が、身体を拒絶したの。そして、私……私の本音や欲望の塊である『影』が、代わりに身体を動かすようになった。主従が、反転したのよ。だから、本体であるあの子は心を閉ざしたままで喋れない。影である私が、こうして喋ることができる」

この学園の法則は、「影が本音を話す」のではない。もっと根源的な、「魂の在り方が、影という形をとって現れる」現象だったのだ。ほとんどの生徒は魂と肉体が一致しているから、その本音が影として独立して現れる。だが彼女の場合、本体の魂が影の姿となり、影であった存在が肉体を支配していた。主客が転倒した、世界でただ一つの例外。

「私は、しおりを元に戻す方法を探していたの。この学園の禁書庫に、その手がかりがあるかもしれないって……。でも、もう疲れた。私は偽物だから。私が何をしても、あの子は救われない」

彼女はそう言って、その場に泣き崩れた。

僕がずっと追いかけていたのは、人間のように振る舞う「影」だったのだ。そして、僕が惹かれていた沈黙の影こそが、傷つき、心を閉ざした本当の少女だった。雨はますます強くなり、僕たちの世界の輪郭を洗い流していくようだった。

第四章 ふたりのシオリ

世界が反転してしまった。僕が「水無月しおり」だと思っていた存在は影で、影だと思っていた存在が「水無月しおり」だった。僕の価値観は粉々に砕け散った。

「面白いじゃないか」

不意に、僕の影が言った。僕は驚いて足元を見下ろす。僕の影は、いつもの冷笑ではなく、どこか興味深そうな表情で、泣きじゃくる「影のしおり」と、その傍で小さくなっている「本体のしおり」を眺めていた。

「どっちが本物で、どっちが偽物かなんて、誰が決めるんだ? お前が『水無月しおり』に惹かれたんなら、それでいいじゃないか。ごちゃごちゃ考えるなよ、桐島海斗」

影の言葉が、雷のように僕の胸を打った。そうだ。僕は今まで、この饒舌な影を、自分の汚い本音の塊として嫌悪し、無視し続けてきた。だが、こいつもまた、紛れもない僕自身の一部なのだ。建前を演じる僕と、本音を叫ぶ僕。二つで一つ。どちらか一方だけでは、桐島海斗にはなれない。

僕はゆっくりとしゃがみこみ、二人の「しおり」と視線を合わせた。

「どっちが本物かなんて、僕にはどうでもいい」

僕は、自分の影が言ったのと同じ言葉を口にした。

「僕が話したいと思ったのは、君だ。君の沈黙の影が気になったのも、君が話してくれたからだ。君たちがどっちであっても、君たちは二人で『水無月しおり』なんだろ?」

僕の言葉に、「影のしおり」は顔を上げた。その瞳には驚きが浮かんでいる。僕は、今度は床に佇む「本体のしおり」に向かって語りかけた。

「君が世界を怖がる気持ちは、僕には完全にはわからないかもしれない。でも、君の影は、君が本当は笑いたいって、僕と話したいって、教えてくれた。君は一人じゃない」

僕の真摯な言葉に呼応するように、僕の影がすっと前に出て、「本体のしおり」の影の手に、そっと触れた。それは、影同士の、魂の握手だった。

その瞬間、奇跡が起きた。

ずっと沈黙を守っていた「本体のしおり」の影が、ほんの少しだけ、輪郭を揺らした。そして、声にはならない、吐息のような音が、確かに漏れたのだ。

「……あり……がと……」

それは、あまりに微かで、雨音に消えてしまいそうな声だった。だが、僕たちにはっきりと聞こえた。

「影のしおり」の目から、再び涙が溢れた。しかし、それは絶望の涙ではなかった。

「しおりが……喋った……」

その日を境に、何かが劇的に変わったわけではない。水無月しおりは、相変わらず二人のままだった。身体を動かす「影のしおり」と、影として佇む「本体のしおり」。けれど、彼女たちの間には、確かな繋がりが再び生まれ始めていた。「本体のしおり」は、時々、途切れ途切れの単語を口にするようになった。そのたびに、「影のしおり」は、まるで自分のことのように、嬉しそうに微笑むのだ。

僕も変わった。自分の影を、もう一人の自分として受け入れることにした。彼の皮肉は相変わらずだが、僕はそれに笑って応えられるようになった。本音と建前。どちらも僕だ。その両方を抱えて生きていくことこそが、本当の意味で自分自身を生きることなのだと、僕は学んだ。

卒業式の日。桜吹雪が舞う校門の前で、僕は水無月さんと並んで立っていた。僕の隣には、いつも通り、少しだけ得意げな僕の影がいる。そして彼女の隣には、少しだけ輪郭が濃くなったような、彼女の本体が、静かに佇んでいた。

「桐島くん」

「影のしおり」が僕を呼んだ。

「ありがとう」

そして、その隣で、もう一人のしおりが、はっきりと、こう言った。

「ありがとう」

二つの声が重なり合い、春の光の中に溶けていく。それは奇妙で、不完全で、けれど、僕が今まで見たどんな景色よりも、美しく感動的な光景だった。僕たちは、それぞれの影を連れて、新しい世界へと歩き出す。本物と偽物の境界線が溶け合った、この優しい世界で。

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