第一章 腐った梔子と静寂
桐谷朔(きりたに さく)の世界は、香りで構成されていた。朝露を含んだ土の匂い、古書のページが放つ甘いバニリン、そして人の感情が発する微かな香り。調香師である彼にとって、嗅覚は第六感であり、世界の真実を映す鏡だった。だが、その鏡は時として、残酷なまでに歪んだ現実を突きつける。
特に、人の吐く「嘘」は、彼の鼻腔を耐え難い悪臭で満たした。腐りかけた梔子(くちなし)の花。甘美さの裏側で、じっとりと腐敗が進む、あの背徳的な香りだ。この呪いのような能力のせいで、朔は他人と深く関わることを避け、香りのアトリエという城に閉じこもっていた。
その城壁を、現実が無慈悲に打ち破ったのは、湿った風が初夏を告げる夜のことだった。一本の電話が、彼の静寂を切り裂いた。姉、桐谷響子(きょうこ)が、自宅で死体となって発見された、と。
警察の許可を得て足を踏み入れた姉の部屋は、朔の知る、陽だまりのような空間ではなかった。鉄錆の匂いが鼻をつく。その中心に、響子が大切にしていたアンティークの香水瓶が無残に砕け散り、フローラル系の甘い香りが血の匂いと混じり合って、むせ返るような不協和音を奏でていた。だが、朔の意識を奪ったのは、それら全ての匂いを圧殺するほどの、強烈な悪臭だった。
腐った梔子の香り。
部屋の隅々まで、まるで霧のように満ち満ちている。事情聴取にあたる刑事たちの言葉の端々から。心配そうに遠巻きにする隣人の囁きから。そして、現場の空気そのものから。誰もが嘘をついている。何かを隠している。この空間にいる全ての人間が、腐臭を放っていた。
「最後に、お姉さんと話したのはいつですか?」
年配の刑事の問いに、朔は息を詰めた。刑事の呼気からも、微かにあの匂いがした。それは職務上の建前という名の嘘か、あるいはもっと深い何かか。朔には判別がつかない。ただ、この場所に真実はない、ということだけが、嫌というほど分かった。
「……三日前です」
自分の声からも、嘘の香りがしないことに安堵しながら、朔は答えた。警察は信用できない。この悪臭に満ちた世界で、信じられるのは自分の鼻だけだ。姉の死の真相は、この呪われた嗅覚で、自分自身で暴き出すしかない。朔は固く拳を握りしめ、静かな決意を胸に刻んだ。
第二章 偽りの容疑者
姉の葬儀が終わり、日常が空虚な輪郭を取り戻し始めると、朔は本格的に調査を開始した。姉の遺品が詰められた段ボール箱を開けるたび、彼女の愛用していたリネンウォーターの柔らかな香りが立ち上り、胸が締め付けられた。その中で、一冊の研究ノートが朔の目に留まる。そこには「忘却の香り - Memento Mori」と題された研究が、詳細に記されていた。記憶に作用するとされる、伝説的な調合。姉はなぜ、こんなものを?
ノートに記された名前を頼りに、朔は響子の交友関係を辿り始めた。大学時代の友人、趣味のサークルの仲間、そして、研究のパートナーだったという男、伊吹渉(いぶき わたる)。会う人間、会う人間が、程度の差こそあれ、例外なく腐った梔子の香りを漂わせていた。「響子さんは素晴らしい人だった」「まさか、あんなことになるなんて」。追悼の言葉は、ことごとく嘘のベールに包まれているようだった。彼らは何を隠しているのか。苛立ちと不信感が募る。
中でも、伊吹渉から発せられる香りは異常だった。製薬会社の研究室で会った彼の全身からは、まるで腐臭のオーラが立ち上っているかのようだった。痩せた体にサイズの合わない白衣をまとい、神経質そうに指を組む。
「響子さんの研究は、画期的なものでした。特に……『忘却の香り』は」
伊吹は目を伏せながら言った。彼の言葉は、強烈な悪臭を伴って朔の嗅覚を殴りつける。
「姉は、なぜあんな研究を?」
朔は単刀直入に尋ねた。
「さあ……。彼女は、誰かの記憶を消したがっているようにも見えました。辛い記憶を、抱えている誰かのために、と」
嘘だ。全てが嘘だ。こいつが犯人だ。朔の中で、直感と嗅覚が警鐘を鳴らす。「あなたがあの日、姉に会っていたんじゃないですか?」と喉まで出かかったが、証拠は何もない。この嗅覚は、法廷では何の役にも立たない。
朔は伊吹をマークし続けた。彼の後をつけ、周辺を聞き込み、何かしらの物証を掴もうと躍起になった。しかし、伊吹のアリバイは完璧で、動機に繋がりそうなものは何も見つからない。焦りが募るほど、伊吹から漂う腐臭は強くなるように感じられた。朔は確信していた。この男が姉を殺した。だが、その確信は、音を立てて崩れ去る運命にあった。
第三章 姉の日記
捜査が行き詰まり、無力感に苛まれていた朔は、最後の望みを託して姉の部屋をもう一度訪れた。段ボールに詰め忘れた遺品がないか、隅々まで探す。書棚の裏、埃をかぶった床板の隙間に、小さな鍵が落ちているのを見つけた。それは、響子がいつも身につけていたロケットペンダントの鍵だった。
遺品の中からロケットを探し出し、鍵を差し込む。カチリ、と小さな音を立てて開いた中には、写真ではなく、折り畳まれたメモが入っていた。『机の三番目の引き出しの奥』。
言われた通りに机の引き出しの奥を探ると、硬い感触があった。二重底になった板を剥がすと、そこには一冊の古びた日記帳が収められていた。響子の日記だった。朔は息を呑み、震える手でページをめくった。そこに綴られていたのは、彼の知らない姉の苦悩と、そして、彼自身の呪いに関する、衝撃的な仮説だった。
『朔の"能力"は、本当に嘘を嗅ぎ分けているのだろうか。幼い頃、あの子は友達の些細な嘘に傷つき、心を閉ざしてしまった。もしかしたら、あの香りは嘘そのものではなく、人が嘘をつかざるを得ない状況で抱える、強い"罪悪感"や"後悔"の念に反応して、朔の脳が作り出す幻臭なのではないか』
ページをめくる指が止まる。全身の血が逆流するような感覚。
『もしそうなら、あの子は世界中の人々の後悔を、たった一人で嗅ぎ続けていることになる。あまりにも過酷だ。だから、私は「忘却の香り」を完成させなければならない。薬効で記憶を消すのではない。後悔の香りを中和し、心を安らげる香りを。朔を、この呪いから解放するために』
世界が、反転した。姉は、朔のために研究を続けていたのだ。そして、彼が今まで「嘘」だと断罪してきたあの香りは、人々の「罪悪感」や「後悔」の香りだった……?
伊吹が放っていた強烈な腐臭。あれは、響子を殺した罪悪感ではなかったとしたら? 彼女を救えなかった、研究を完成させてやれなかったという、研究者としての、友人としての、深い後悔の念だったとしたら?
刑事たちの微かな香り。それは、犯人をまだ捕らえられない無念さの香りだったのかもしれない。隣人たちの香り。それは、「もっと何かできたはずだ」という後悔の香りだったのかもしれない。
朔は、事件当日の記憶を必死に手繰り寄せた。最後に姉と話した三日前。些細なことで口論になった。「姉さんには僕の苦しみなんて分からない!」。そう叫んで電話を切ってしまった。あれが、最後の会話だった。
その記憶が蘇った瞬間、朔は嗅いだ。
自分自身の内側から湧きあがる、むせ返るような、腐った梔子の香りを。
誰よりも濃く、誰よりも深く、吐き気を催すほどの、後悔の香りを。
第四章 再生の香り
呆然自失としていた朔のもとに、刑事から連絡が入った。響子を殺害した容疑で、男が逮捕された、と。響子の研究成果を狙っていた、大手製薬会社の産業スパイだった。彼は響子から研究データを奪おうとし、抵抗されたため、偶発的に殺害してしまったと供述しているという。伊吹は無関係だった。事件は、あっけないほどの結末を迎えた。
だが、朔にとっての本当の物語は、そこから始まろうとしていた。
彼は姉の研究室に立った。ガラス器具や薬品の匂いに混じり、壁に染みついた響子の優しい香りがする。彼はもう、他人から漂う腐臭に怯えたり、苛立ったりすることはなかった。あの香りは、人が人であることの証なのだ。誰もが過ちを犯し、何かを悔やみ、それでも前を向いて生きていこうとする。その不器用な営みそのものが、あの切ない香りの源だった。
自分が人々を「嘘つき」と一方的に断罪してきたことが、いかに傲慢で、独りよがりなことだったかを思い知る。姉は、そんな弟の世界を、少しでも優しいものに変えようとしてくれていた。
朔は、姉が遺した研究ノートを手に取った。彼女が作ろうとしていた「忘却の香り」ではない。後悔や罪悪感を消し去るのではなく、その痛みを、そっと包み込み、受け入れるための香りを、彼は作り始めようと決めた。
ベルガモットの爽やかな悲しみ、サンダルウッドの深い鎮静、そして、微かなジャスミンの、夜に咲く希望。一つ一つの香りを丁寧に選び、ブレンドしていく。それは、姉への鎮魂歌であり、自分自身と、そして彼が拒絶し続けた世界との、和解の儀式だった。
試行錯誤の末、小さな香水瓶に琥珀色の液体が満たされる。その香りを嗅いだ瞬間、朔の胸の奥で燻っていた、腐った梔子の悪臭が、ふっと霧散していくのを感じた。完全に消えたわけではない。だが、それはもう呪いの香りではなく、姉との最後の記憶を抱きしめるための、切ない道標となっていた。
朔はアトリエの窓を開け放つ。雨上がりの風が、湿った土と若葉の匂いを運んできた。それは、喪失の先にある、確かな再生の香りだった。
彼の鼻はもう、世界を断罪するためのものではない。世界に満ちる無数の哀しみと、それでも失われない微かな希望を嗅ぎ分けるための、繊細な感覚器官へと生まれ変わったのだ。朔は静かに目を閉じ、その新しい世界の香りを、深く、深く吸い込んだ。