残響のエクリプス
第一章 影の輪郭
柏木湊(かしわぎ みなと)の日常は、薄いガラス細工のように静かで、脆かった。古びた喫茶店のカウンターに立ち、豆を挽く音と客のひそやかな会話に身を浸していると、自分がこの世界の正しい構成要素であるかのように錯覚できる。だが、その錯覚は唐突に破られる。予兆もなく、心臓を氷の指で鷲掴みにされるような、理由のわからない罪悪感が胸を締め付けるのだ。
「……っ」
湊は息を詰め、カップを置く手が微かに震えるのを客に悟られぬよう、ゆっくりとカウンターの陰に隠した。なぜ苦しいのか。何を悔いているのか。答えのない問いが、彼の内側で空虚に反響する。
異変は、一月ほど前からだった。自身の足元に、陽光の角度とは無関係に、黒く揺らめく染みのようなものが現れ始めた。それはまるで、地面に焼き付いた影法師。だが、それは音を立てず、形をなさず、ただそこに在るという事実だけが、湊の視界の端で不気味に蠢いていた。
「無音の影」。
この世界には、過去に犯した「重大な過ち」を背負う者がいるという。その過ちが具現化した影は、他者の目には決して映らない。当事者だけが、その影に一生監視され続けるのだと。湊は、自分にそんな大それた過去があるとは思えなかった。記憶のどこを探っても、誰かを決定的に傷つけた覚えはない。
しかし、影は日に日に濃さを増していた。そして今日、湊は気づいてしまった。その不定形な影の先端が、まるで羅針盤の針のように、店の外、雑踏の中の特定の方向を、じっと指し示していることに。
第二章 消えたはずの旋律
影に引き寄せられるように、湊は店を出た。アスファルトの熱気と排気ガスの匂いが入り混じる中を、まるで夢遊病者のように歩く。影は人波を縫い、路地を抜け、やがて開けた駅前の広場でぴたりと動きを止めた。
その中心に、彼女はいた。
夕陽を浴びて、낡(ふる)びたヴァイオリンを奏でる女性。長く艶やかな黒髪が、弓の動きに合わせて静かに揺れる。彼女が奏でる旋律は、どこか物悲しく、それでいて透き通るような響きを持っていた。
その姿を見た瞬間、湊の胸を激しい痛みが貫いた。息が止まるほどの後悔と、どうしようもないほどの愛おしさ。感情の嵐が、記憶という土台のないまま、彼の魂を揺さぶる。だが、彼女とは初対面のはずだった。
演奏が終わり、まばらな拍手が起こる。湊は吸い寄せられるように彼女に近づき、ヴァイオリンケースに数枚の紙幣を入れた。
「素晴らしい演奏でした」
「ありがとうございます」
彼女は柔らかく微笑んだ。橘栞(たちばな しおり)、と名乗った。彼女の瞳は、湊を全く知らない他人を見る目をしていた。当然だ。だが、湊の心臓は、まるで旧知の恋人に再会したかのように、狂ったリズムを刻み続けていた。
第三章 古鏡の囁き
栞への不可解な感情と、足元の影の謎。二つの事象が頭の中で絡み合い、湊を苛んだ。眠れない夜が続き、彼は祖父の遺品である骨董品が仕舞われた桐の箱を開けた。その奥に、黒檀の枠に収められた手鏡が静かに眠っていた。
持ち主の「無音の影」だけは、決して映さない。
そんな言い伝えのある古鏡だった。
湊は半信半疑で、鏡を覗き込んだ。磨き上げられた鏡面には、疲れの滲む自分の顔が映っている。だが、足元に目をやると、そこにあるはずの黒い影の姿はどこにもなかった。言い伝えは、本当だった。
安堵したのも束の間、鏡面がぐにゃりと歪んだ。そして、一瞬だけ、脳裏に焼き付くような鮮烈な映像がフラッシュバックした。
――激しい雨。濡れたアスファルトに乱反射する車のヘッドライト。
――甲高いブレーキ音と、女の悲鳴。
――砕け散るヴァイオリンケース。宙を舞う楽譜。
――そして、赤い染みに沈んでいく、栞の姿。
「あ……」
声にならない呻きが漏れた。湊はすべてを思い出したのではない。理解したのだ。自分は、この凄惨な「瞬間」を、自らの能力で世界から消し去ったのだ。だから栞は生きている。そして、胸を苛むこの痛みは、彼女を救ったという安堵と、彼女を死なせてしまったという、消されたはずの過去から漏れ出す感情の残滓なのだと。
第四章 歪みの観測者
自分が過去を改変した。そのおぞましい事実に、湊は眩暈を覚えた。だが、一つの疑問が残る。なぜ、過去を正しく修正したはずなのに、「無音の影」が現れたのか。なぜ、影は救ったはずの栞を指し示すのか。
答えを求め、湊は再び栞に会いに行った。彼女の傍にいれば、何かがわかるかもしれない。二人は公園のベンチで、他愛ない話をした。彼女の指先が不意に空を掴む。
「あれ? さっきまで、ここに鳩がいたのに」
彼女がそう呟いた瞬間、すぐ隣の木の枝に、今までいなかったはずの鳩が突然現れた。まるで、映像のコマが一つ飛んだかのような、些細だが明らかな世界の綻び。栞の周囲でだけ、物理法則が僅かに揺らいでいる。彼女の存在そのものが、この世界にとって異物であるかのように。
その日の夕暮れ。別れ際、彼女が横断歩道を渡ろうとした、まさにその時だった。
けたたましいクラクション。一台のトラックが、信号を無視して猛スピードで交差点に突っ込んできた。運転手の顔は驚愕に歪んでいる。まるで、見えない力にハンドルを奪われたかのように。
「危ない!」
湊は咄嗟に栞の腕を引き、歩道へと突き飛ばした。トラックは二人の数センチ脇を、轟音と共に駆け抜けていく。それは、湊が古鏡で見た、消し去ったはずの事故の光景と不気味なほど酷似していた。世界が、歪みを正そうと、運命を「再演」し始めたのだ。
第五章 再演される悲劇
湊はすべてを悟った。足元の影は、罪の証ではなかった。消された歴史が、本来あるべき姿に戻ろうとする「世界の抵抗」そのものだったのだ。影は、本来死ぬべきだった栞という「歪み」を指し示し、運命の修正を警告し続けていた。
「僕が、君を守る」
湊は決意した。彼は栞の傍を片時も離れず、世界の修正力から彼女を護衛し始めた。工事現場の足場から鉄パイプが落ちてくれば、彼女を庇って走り抜ける。駅のホームで、見えない誰かに背中を押されかけた彼女の手を、強く握りしめる。
その度に、湊は能力を使った。危険が迫る「瞬間」そのものを、次々と消していく。だが、それは悪循環だった。消せば消すほど、世界の歪みはさらに大きくなり、湊の足元の影はより濃く、胸を抉る痛みは増していく。まるで、世界の摂理そのものと、たった一人で綱引きをしているようだった。彼の精神は、限界まで引き絞られていた。
第六章 エクリプスの刻
冷たい雨が窓を叩く夜だった。湊の部屋で、二人は寄り添っていた。栞は何も知らず、ただ自分に付き添ってくれる湊の優しさに、不安げな表情で身を委ねていた。
「大丈夫だよ」
湊がそう囁いた瞬間、凄まじい音がして、部屋の窓ガラスが内側に向かって砕け散った。ありえない。風など吹いていない。世界の拒絶が、物理的な形を取り始めたのだ。
ガラスの破片から栞を庇った拍子に、湊の懐からあの古鏡が滑り落ち、床で甲高い音を立てて砕けた。
その瞬間、無数の鏡の破片の一つ一つに、異なる光景が映し出された。栞が別の事故で死ぬ未来。病に倒れる未来。湊が庇いきれずに共に死ぬ未来。何をしても、どのように抗っても、彼女の死という結末だけが、無数の分岐の果てに揺るぎなく存在していた。
そして、すべての破片が最後に映し出したのは、たった一つの光景だった。
あの日、あの時、湊が最初に消し去った、雨の交差点。
運命は変えられない。歴史の修正は、一度や二度の介入で揺らぐものではない。それは、最も根源的な形で、原初の出来事を再現しようと、今この瞬間も力を収束させている。
第七章 残響だけが残る
絶望が湊の全身を支配する。抗うか、受け入れるか。もはや、彼に選択肢はなかった。彼は震える手で、栞の手を握った。その温もりだけが、崩壊していく世界の中で、唯一の真実だった。
「湊さん……?」
栞が不安そうに顔を上げた。その顔に何かを伝えようとした瞬間、湊の意識がブラックアウトした。
次に目を開けた時、彼は土砂降りの雨の中、あの交差点に一人で立っていた。現実感がなかった。まるで、他人の記憶を追体験しているかのように、世界がスローモーションで動いている。
目の前で、一台の乗用車が雨に濡れた路面でスリップする。コントロールを失った車体は、横断歩道を渡っていた、ヴァイオリンケースを抱えた黒髪の女性へと滑っていく。
橘栞。
湊は叫ぼうとした。動こうとした。能力を使おうとした。だが、何もできなかった。見えない壁が、世界の摂理が、彼の介入を完全に拒絶していた。
金切り音と、鈍い衝撃音。
すべてが終わった時、湊の足元を縛り付けていた「無音の影」は、跡形もなく消え去っていた。世界は正常に、本来あるべき歴史の流れを取り戻したのだ。橘栞という女性は、今日、この場所で、交通事故に遭って亡くなった。それが、唯一の正しい事実となった。
だが、湊の胸の中には、燃え尽きることのない業火のような感情だけが残されていた。彼女を救おうとした焦燥。彼女と過ごした日々の愛おしさ。そして、目の前で彼女を失った、耐え難いほどの喪失感。
原因を消し去られ、結果だけが永遠に刻み込まれた「感情の痕跡」。
彼は、決して消えることのない残響を抱きしめ、ただ一人、世界の歪みが正された雨の中に、立ち尽くすしかなかった。