重たい瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井のシミだった。ひび割れた漆喰、安っぽい照明。ここはどこだ?
飛び起きると、全身に嫌な汗が滲んでいた。キングサイズのベッド、無機質な調度品。どうやらホテルの一室らしい。しかし、自分がなぜここにいるのか、全く思い出せない。それどころか、自分が誰なのかさえ、靄のかかった記憶の向こう側だ。
パニックになりかけた頭で、必死に手がかりを探す。ベッドサイドに置かれたジャケット。その内ポケットに手を入れると、冷たく硬い感触があった。取り出したのは、ずしりと重い黒光りする拳銃。そして、ホテルのカードキーと、一枚の折り畳まれたメモ。
メモを開く。そこには無骨な手書きの文字で、こう書かれていた。
『次の指示を待て』
心臓が氷の塊になったように冷える。俺は一体、何に巻き込まれているんだ? 刑事か? 犯罪者か? 窓の外に広がるのは、知らない街の夜景。煌めくネオンが、俺の空っぽな頭を嘲笑っているかのようだった。
その時、静寂を破ってテーブルの上のスマートフォンが震えた。非通知の着信。恐る恐る通話ボタンを押す。
「目覚めたようだな」
合成音声のような、感情のない男の声だった。
「質問は受け付けん。生き延びたければ、俺の言う通りに動け。まず、その部屋を出てロビーのコインロッカー、3番を開けろ。キーはジャケットのポケットだ」
言われるがままポケットを探ると、小さな鍵が出てきた。選択肢はない。俺は言われた通りに部屋を出て、薄暗い廊下をロビーへと向かった。
ロッカーの中には、くたびれた作業着と野球帽、そして新しいスマートフォンが入っていた。旧いスマホは置いていけ、と声は言う。
「その姿で、ハチ公前広場へ向かえ。急げ」
渋谷のスクランブル交差点。洪水のような人波に飲まれながら、俺は自分が巨大なゲームの駒になったような感覚に陥っていた。自分が何者なのかもわからないまま、見知らぬ誰かの指示で動くしかない。恐怖と、奇妙な高揚感が入り混じる。
新しいスマホが震える。
「目の前の大型ビジョンを見ろ。10秒後、赤いワンピースの女が映る。その女を追え」
視線を上げると、広告映像の合間に、一瞬だけ人込みを歩く赤い服の女が映し出された。いた。俺は人波をかき分け、必死にその背中を追う。
女は地下鉄の駅へと吸い込まれていった。追いついたホームで、再びスマホが鳴る。
「女が持っているショルダーバッグを奪え。中身が今回のターゲットだ。失敗は死を意味する」
電車が滑り込んでくる。ドアが開く瞬間、俺は女の背後に迫り、荒々しくバッグをひったくった。悲鳴が聞こえたが、振り返らずに反対側のホームへ駆け上がり、地上へと逃げた。
息を切らしながら裏路地へ逃げ込む。声の指示でバッグを開けると、中に入っていたのはUSBメモリが一つだけ。
「よくやった。最終目的地を送信する。そこへ向かえ」
示された場所は、湾岸地区の寂れた廃工場だった。潮風が錆びた鉄骨を揺らし、不気味な音を立てている。工場の最奥、剥き出しのコンクリートの上でUSBメモリをPCに接続するよう指示された。俺が持っていたノートPCだろうか。記憶はないが、背負っていたリュックの中に確かに入っていた。
PCを起動し、USBを挿す。画面に表示されたのは、複雑な暗号らしき文字列だけ。
「ご苦労だった。それが最終テストだ」
声が言った、その時。背後から乾いた拍手が響いた。
振り返ると、闇の中から一人の男が姿を現した。歳は40代半ば、鋭い目つきの精悍な男だ。男はにやりと笑い、俺に向かって言った。
「見事だ、新人。合格だ」
男が言葉を続けるにつれて、閉ざされていた記憶の扉が軋みながら開き始める。そうだ、俺は秘密情報組織の候補生で、目の前の男は俺の教官だ。これは、記憶を一時的に消去し、極限状況下での適性を試すための最終試験だったのだ。女から奪ったバッグも、全ては仕組まれた筋書き。
「これで君も我々の正式な一員だ」
教官が差し出した手を、俺は握り返そうとした。安堵が全身を包み込む。
その瞬間だった。最初に持っていた古いスマホ――教官の指示でロッカーに置いてきたはずが、なぜか作業着のポケットに入っていた――が、微かに震えた。
教官に気づかれぬよう、そっと画面を覗き込む。
一件のメッセージ。送信元は『本部』。
『本当のテストはここからだ。目の前の教官は組織を裏切った。証拠は君が奪ったUSBの中にある。速やかに彼を排除せよ』
血の気が引いた。USBの中身は、ただの暗号ではなかったのか。目の前の男は、恩師か、それとも裏切り者か。これもまた、テストの一部なのか? 俺を試すための、最後の罠なのか?
「どうした?」
俺の表情の変化を、教官は見逃さなかった。彼の目が、探るように細められる。差し出されたままの彼の手が、わずかに緊張したように見えた。
俺は、ジャケットの内ポケットに静かに手を滑り込ませた。ひやりとした拳銃の感触が、汗ばんだ手のひらに伝わる。
どちらが真実で、どちらが嘘か。
俺は、どちらの引き金を引くべきなのか。
廃工場に吹き込む夜風が、答えを知っているかのように、俺たちの間を通り抜けていった。
リセット・ゲーム
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