第一章 冬の海の匂い
柏木湊(かしわぎ みなと)が営む古書店『幻燈書房』は、時間の流れが止まったような場所にひっそりと佇んでいた。埃と古い紙の匂いが混じり合った空気は、訪れる者の心を不思議と落ち着かせる。だが、この店の本当の役割は、古書を売ることだけではなかった。湊には、他人が「忘れたい」と強く願う記憶を、その身に引き受けるという特殊な能力があった。
ある冬の日の午後、ドアベルがちりんと寂しげな音を立てた。入ってきたのは、コートの襟で顔の半分を隠した若い女性だった。彼女は水野紗季(みずの さき)と名乗った。その瞳は、まるで凍てついた湖面のように、感情の色を失っていた。
「忘れたい記憶が、あるんです」
紗季の声は、か細く震えていた。湊は黙って頷き、カウンターの奥から白磁のカップを二つ取り出す。湯気の立つハーブティーを差し出すと、彼女は小さな声で礼を言った。
「どんな記憶ですか」
湊の問いに、紗季は俯いたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。三年前に亡くなった恋人のこと。彼との最後の日のこと。些細なことで喧嘩をし、背を向けたまま別れたこと。その数時間後、彼が事故に遭ったと知らされたこと。
「彼の最後の顔を、見ていないんです。謝ることも、好きだと伝えることもできなかった。その記憶が……冬の海の匂いと一緒に、ずっと私の中にこびりついていて、息ができないんです」
湊は彼女の震える手を見つめた。これまでにも、数えきれないほどの「忘れたい記憶」を引き受けてきた。事業に失敗した男の絶望、愛するペットを失った老婆の悲嘆、裏切られた友への憎悪。それらは全て、湊の中で無数の物語の断片として渦巻いている。
「わかりました。その記憶、お預かりします」
湊がそう言うと、紗季は顔を上げた。その瞳には、藁にもすがるような光が宿っていた。湊はカウンター越しにそっと手を伸ばし、彼女の手に触れる。目を閉じ、意識を集中させると、冷たい奔流が紗季から自分へと流れ込んでくるのを感じた。
それは、塩辛い風の匂い。凍てつく砂の感触。灰色の空と、怒りに任せて吐き捨てた言葉の痛み。そして、背を向けた恋人の、広く、寂しげな背中。あまりに鮮烈な情景と感情が、湊の脳裏に焼き付いた。
数秒後、湊が目を開けると、紗季は呆然とした表情で自分の手を見つめていた。
「……何も、思い出せない。冬の海のことも、彼のことも……どうして泣きそうになっていたのかも」
彼女の瞳から、凍てついていた氷が溶け出したかのように、一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、その表情には安堵の色が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げて店を出ていく紗季の背中を見送りながら、湊の胸には、冷たい冬の海の波音がいつまでも響いていた。
第二章 混濁する書架
紗季から引き受けた記憶は、湊の中でひときわ大きな存在感を放っていた。眠りに落ちれば、夢に見るのは見知らぬ恋人と訪れた冬の海辺だ。彼の優しい声、不器用な笑顔、喧嘩した時の悲しそうな瞳。それらはまるで、湊自身が体験したことであるかのように、生々しい手触りをもって心を締め付けた。
『幻燈書房』の日常は変わらず過ぎていく。湊は書棚の整理をしながら、ふと自分の過去を思い出そうとして、愕然とすることが増えた。幼い頃、両親に連れられて行った遊園地の記憶。それは本当に自分のものだろうか。それとも、かつてこの店を訪れた誰かの、幸福だった日々の記憶ではないのか。事業に失敗した男の絶望は、湊自身の将来への不安と重なり、夜中に悪夢となって彼を苛んだ。
他人の記憶は、インクが水に滲むように、湊自身の記憶と混じり合い、境界線を曖昧にしていく。彼はもはや、自分という存在が、他人の記憶の寄せ集めでできた不確かなものに思えてならなかった。
この能力は、呪いなのかもしれない。そう思い始めた矢先のことだった。
ある日、湊は書棚の奥から一冊の古い絵本を見つけた。色褪せた表紙には、灯台と小さな船が描かれている。その絵本を開いた瞬間、不意に温かい記憶が蘇った。父親の低い声、母親の優しい手の温もり。幼い自分が、この絵本を何度も読んでもらっていた光景。それは間違いなく、自分自身の記憶だった。濁流のような他人の記憶の中で、ようやく見つけた小さな浮島。湊はその絵本を胸に抱きしめ、久しぶりに心の底から安堵した。自分はまだ、自分を失ってはいない。
そんな穏やかな午後を打ち破るように、再びドアベルが鳴った。そこに立っていたのは、以前よりもさらに痩せたように見える紗季だった。彼女の顔には、あの日の安堵の色はなく、深い混乱と焦燥が浮かんでいた。
第三章 返せない頁
「あの……」
紗季は何かを言い出せずに、唇を噛みしめている。湊は黙って彼女をカウンター席に促し、再びハーブティーを淹れた。湯気が二人の間の沈黙を揺らしている。
「どうされましたか」
湊が静かに尋ねると、紗季は意を決したように顔を上げた。
「返してください。私があなたに預けた記憶を、返してください」
その言葉は、湊にとって青天の霹靂だった。これまで記憶を「返してほしい」と望んだ者など、一人もいなかった。忘れたいほどの痛みから解放されることこそが、彼らの願いだったはずだ。
「どうしてです?楽に、なったのではないのですか」
「楽になりました。……楽になりすぎたんです」紗季の声は、悲痛な響きを帯びていた。「彼との記憶を失くしたら、彼を愛していたという、この気持ちまでどこかへ行ってしまった。彼の写真を見ても、何も感じないんです。辛くて、苦しくて、それでも大切だったはずなのに。彼が私の人生にいたという証まで、消えてしまったみたいで……。空っぽなんです。私の中が、何もかも」
彼女は泣きじゃくりながら訴えた。忘れることは、救いではなかった。それは、人生の重要な一部を、根こそぎ奪われることだったのだ。
湊は言葉を失った。彼の胸に、激しい衝撃と罪悪感が突き刺さる。良かれと思って続けてきたこの行為は、果たして本当に人のためになっていたのだろうか。痛みを伴う記憶さえも、その人を形作る唯一無二の物語の一部なのではないか。
湊は、震える声で、残酷な真実を告げなければならなかった。
「……できないんです」
「え……?」
「この力は、記憶を引き受けることしかできない。一度預かったものを、お返しすることは……できないんです」
紗季の瞳から、最後の希望の光が消えた。絶望が彼女の全身を覆い尽くすのが、痛いほどに伝わってくる。彼女は静かに立ち上がると、ふらつく足取りで店を出ていこうとした。
その時、湊の脳裏に、あの古い絵本が浮かんだ。自分の核となる、温かい記憶。もし、この記憶の断片でも彼女に伝えることができれば。いや、彼女自身の記憶を、自分が追体験することで、その残響を彼女に届けられるかもしれない。それは一度も試したことのない、危険な賭けだった。自分の精神が、完全に他人の記憶に飲み込まれてしまう可能性さえある。
だが、湊は動いていた。
「待ってください!」
彼は紗季の腕を掴んだ。彼女は驚いて振り返る。
「一つだけ、方法があるかもしれません。保証はできません。でも、試させてください」
湊の真剣な眼差しに、紗季は小さく頷いた。彼の価値観が、そして運命が、根底から覆ろうとしていた。
第四章 きみの物語
湊は紗季を再び席に座らせ、自分もその向かいに腰を下ろした。窓の外では、夕暮れの光が街をオレンジ色に染め始めている。
「これから、僕があなたの記憶を、もう一度、僕の中で追体験します。あなたはその間、僕の手を握っていてください。あなたの記憶の残響が、あなた自身に届くかもしれない」
それはほとんど祈りに近い行為だった。湊は目を閉じ、紗季の冷たい手を両手で包み込んだ。
意識を集中させ、自分の中に流れ込んだ「冬の海の記憶」の源流へと潜っていく。塩辛い風、灰色の空、そして背を向けた恋人の姿。その悲しみが、再び津波のように湊の心を襲う。だが、今度はそれに飲み込まれなかった。彼は必死に、自分自身の記憶の錨を下ろした。父親が読んでくれた絵本の温もり、母親が握ってくれた手の感触。それらを道標に、他人の記憶の濁流の中で、かろうじて自我を保つ。
湊は、紗季の記憶の中で、彼女が言えなかった言葉を探した。
(ごめんね)
(行かないで)
(愛してる)
その感情の奔流を、握った手を通して紗季へと送り返そうと念じる。すると、湊の脳裏に、紗季の記憶だけでなく、これまで引き受けてきた数多の記憶が洪水のように溢れ出した。絶望、後悔、悲しみ、孤独。様々な負の感情が渦を巻き、湊の意識を飲み込もうとする。
――もう、やめろ。お前は誰なんだ。お前の人生は、どこにある?
内なる声が聞こえる。境界線が溶けていく。だがその時、湊は、渦の中心に小さな光を見た。それは、紗季が恋人と過ごした、何気ない日常の幸福な記憶の欠片だった。一緒に笑ったこと、同じ映画を見て泣いたこと、ただ隣を歩いただけの、温かい時間。
湊はその光を、ありったけの力で掴んだ。
「……っ!」
向かいに座る紗季の肩が、小さく震えた。彼女の閉じた瞼から、大粒の涙が次々と溢れ落ちる。
「……思い出した……」
紗季が、嗚咽混じりに囁いた。
「彼の……笑った顔。私の名前を呼ぶ声……。暖かかった、彼の手……」
完全に記憶が戻ったわけではないだろう。だが、彼女は失われた物語の最も大切な頁――彼を愛していたという感情の核――を取り戻したのだ。
湊がゆっくりと目を開けると、彼の頬にも涙が伝っていた。それは紗季の涙であり、彼自身の涙でもあった。しばらくして、紗季はしゃくりあげながらも、顔を上げて微笑んだ。それは、湊が初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。
「ありがとうございました」
深く、深く頭を下げた彼女は、もう一度湊の手をそっと握り、そして店を後にした。ガラスのドアの向こう、夕闇に溶けていく彼女の背中は、悲しみを再びその身に背負いながらも、前を向いて歩き出す力強さに満ちていた。
一人残された店内で、湊は自分の手のひらを見つめた。そこにはもう、他人の記憶がもたらす不確かな冷たさはない。代わりに、自分の心臓の鼓動と、確かな温もりが感じられた。
彼は静かに立ち上がると、書棚からあの古い絵本を取り出す。色褪せた表紙をそっと撫で、最初のページを開いた。そこに描かれた灯台の絵は、まるで彼の人生の道標のように、優しく光っているように見えた。
痛みも、悲しみも、全てはその人の物語。奪うのではなく、寄り添うこと。湊は、自分自身の物語を、これから紡いでいこうと心に決めた。古書のインクの匂いが、彼を優しく包み込んでいた。