第一章 褪せたインクと忘れられた歌
桐生慧(きりゅう けい)の仕事は、歴史を修復することだった。ただし、彼が扱うのは朽ちた建造物やひび割れた陶器ではない。彼が修復するのは、人々の記憶からこぼれ落ち、時の流れに溶けて消えかかった「物語」――すなわち、忘れられた歴史そのものだ。
所属する文化庁特殊文化財保護課、通称「記憶編纂室」は、公には存在しない部署である。彼らの任務は、史料が乏しく、伝承が途絶えかけた地域の歴史や伝説を、残された断片から論理的に、そして芸術的に「再構築」し、再び人々の心に定着させること。それは、失われた文化のDNAを蘇らせる、崇高な行為だと慧は信じて疑わなかった。
今回の依頼は、山深い過疎の村、雨霧(あまぎり)村からだった。村役場の地域振興課からの、切実な響きを帯びた依頼書にはこうあった。「村に古くから伝わる『泣き石』の伝説が、もはや誰も正確に語れなくなってしまいました。観光資源として、そして村の魂として、この伝説を蘇らせてはいただけないでしょうか」
慧が村に到着したのは、霧雨が古い木造家屋の屋根を静かに濡らす午後だった。案内された村の小さな資料室は、黴と古い紙の匂いが満ちていた。埃をかぶったガラスケースの中に、問題の「泣き石」はあった。人の頭ほどの大きさの、黒く滑らかな石。表面には、涙の跡のように見える白い筋が幾重にも走っている。
「これが……」
「ええ。昔は、悲しいことがあるとこの石が夜通しすすり泣いたとか、触れると亡くした人に会えるとか、色々言われておったんですがね」
役場の初老の職員、田所が力なく笑う。古文書を調べても、記述は断片的だった。『――乙女の嘆き、岩を濡らす――』『――飢えし年、ひとつの光、地に消ゆ――』。それだけ。前後の文脈は虫食いと湿気で失われ、まるで解読不能な暗号のようだった。
慧は、褪せたインクの匂いを深く吸い込んだ。挑戦心を掻き立てられる、完璧な舞台だった。失われた物語の空白。それを埋めるのは、歴史家としての知識と、小説家としての想像力。彼の腕の見せ所だ。
「お任せください」慧は自信に満ちた声で言った。「必ずや、この村の人々の心に響く、本来の物語を紡ぎ直してみせます」
彼はまだ知らなかった。自分がこれから紡ごうとしている物語が、どれほど深く、そして残酷な沈黙の上に成り立っているのかを。彼の仕事の本質が、光を当てることではなく、時として闇をより深く塗り固めることにあるということを。資料室の窓の外で、霧雨が泣き石を濡らす音が、静かに響いていた。
第二章 言葉を紡ぎ、魂を宿す
慧の「修復」作業は、パズルのピースを拾い集めることから始まった。彼は村に逗留し、年寄りたちから昔話を聞き、朽ちかけた寺の過去帳を読み解き、村の地形の変遷を調べた。
『乙女』『飢え』『光』。断片的なキーワードが、彼の頭の中でゆっくりと形を結び始める。村で最も美しいと評判だった娘、小夜(さよ)。彼女には、隣村の若者という恋人がいた。しかし、村を襲った未曾有の飢饉が、二人の運命を引き裂く。
慧の指が、ラップトップのキーボードの上を踊る。彼の想像力は、乾いた史実に血と肉を与えていった。
――飢饉で苦しむ村人を救うため、小夜は自らの身を捧げることを決意した。山の神に祈りを捧げ、神の使いとされる幻の薬草を探しに、嵐の夜、一人で険しい山へと入っていく。彼女の流した涙が、道標の石を濡らした。それが「泣き石」の始まり。しかし、彼女は戻らなかった。悲しみに暮れた恋人は、後を追うように山に入り、やはり姿を消した。その後、不思議なことに村の飢饉は収まった。村人たちは、小夜の自己犠牲が村を救ったのだと信じ、彼女の魂が宿る「泣き石」を祀ったのだ――。
悲しくも美しい、自己犠牲と愛の物語。慧は、自分が創造したこの物語に酔いしれていた。これならば、村人たちの心に誇りを取り戻させることができる。田所や村長は、慧が語る物語の草稿に目を輝かせ、何度も頷いた。
「素晴らしい……なんと気高い物語でしょう」
「これぞ、我々の村が語り継ぐべき伝説です」
村人たちの期待が、慧の筆をさらに加速させる。彼は情景を細やかに描写した。雨に打たれる小夜の黒髪の艶、恋人を想う彼女の胸の痛み、そして村を救いたいと願うひたむきな祈り。五感に訴えかける言葉を選び、伝説にリアリティという名の魂を吹き込んでいく。
ある晴れた日、慧は物語の舞台となった山へ足を運んだ。伝説の信憑性を高めるため、地理的な整合性を確認するためだ。案内役の田所と共に、苔むした石段を登り、古びた山神の祠を目指す。
「この祠も、今回の伝説の再構築に合わせて修復する予定です」と田所が嬉しそうに言う。
慧は、自分が歴史を「修復」するだけでなく、未来の景観まで「創造」しているという事実に、万能感にも似た高揚を覚えていた。彼は、忘れられた歴史の救世主だった。彼の言葉一つで、色褪せた過去は鮮やかな色彩を取り戻すのだ。祠の前に立ち、眼下に広がる雨霧村を眺めながら、彼は完成した物語が村にもたらすであろう明るい未来を確信していた。
第三章 床下の沈黙
物語の最終稿を仕上げるため、慧はより深いインスピレーションを求めて、村で最も古い寺である観音寺を訪れた。住職の許可を得て、普段は人の入らない経蔵の奥深くへと足を踏み入れる。そこは、時間の澱んだ、ひやりとした空気が支配する空間だった。
何気なく、傷んだ床板の一枚に体重をかけた、その時だった。ギシリ、と乾いた音がして、足元がわずかに沈む。好奇心に駆られた慧は、指を隙間に差し込み、力を込めてその床板を剥がした。
現れたのは、暗い空洞だった。床下収納だろうか。スマートフォンのライトを向けると、奥に桐の古い箱がひとつ、静かに鎮座しているのが見えた。何かに引かれるように、慧はその箱を慎重に地上へ引きずり出した。錠前はなく、古びた真田紐で固く結ばれているだけだった。
紐を解き、蓋を開ける。中には、和紙で丁寧に包まれた一冊の古い冊子があった。表紙には、か細く、震えるような筆跡で『懺悔録』と記されている。
ページをめくった慧の指が、止まった。
そこに書かれていたのは、彼が紡いだ美談とは似ても似つかぬ、おぞましい真実の記録だった。書き手は、二百年前の観音寺の住職。飢饉に喘ぐ村で、実際に何が起こったのかを、彼は克明に記していた。
『――長老衆、口減らしを決定す。村一番の美貌を持つ小夜が、その贄に選ばれた。さにあらずば、富裕な家の娘が差し出されねばならぬ故。小夜には恋人がいたが、その若者は隣村の者。村の結束を乱す者として、かねてより疎まれていた。』
慧の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。小夜は、英雄などではなかった。彼女は、村の有力者たちの都合によって選ばれた、人身御供だったのだ。
『――小夜は山の祠に連れ去られ、神への供物としてその命を絶たれた。恋人の若者は、真実を知り、村の長老衆に詰め寄ったが、返り討ちに遭い、口封じのために殺された。二人の亡骸は、誰にも知られぬよう、山の岩陰に埋められた。』
そして、決定的な一文が、慧の目の前に突きつけられた。
『――村人たちは、この罪を隠すため、小夜を悲劇の乙女とする物語を捏造した。彼女が流した血と涙の跡が残る岩を「泣き石」と呼び、祟りを恐れて祀り始めた。我らもまた、村の安寧のため、この偽りの物語に加担した。ああ、仏よ。我らの罪を、誰が赦してくださるのか。』
全身から血の気が引いていく。慧が「再構築」した美しい物語は、偶然にも、村人たちが二百年前にでっち上げた嘘の骨格をなぞっていただけだった。彼は歴史を修復していたのではない。歴史上最も醜悪な隠蔽工作に、現代的な装飾を施し、完璧な形で完成させようとしていたのだ。
彼の信じてきた「崇高な仕事」が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。自分は救世主などではなかった。真実を覆い隠す、共犯者に過ぎなかった。床下の暗闇から響く、二百年前の沈黙が、慧の理想とプライドを粉々に打ち砕いた。
第四章 泣き石が語るもの
数日間、慧は宿に閉じこもった。目の前には二つの道がある。一つは、『懺悔録』を再び床下の闇に葬り、自分が作り上げた美しくも偽りの物語を完成させる道。村は喜び、観光客が訪れ、彼の評価は上がるだろう。もう一つは、この醜い真実を白日の下に晒す道。村人たちは傷つき、混乱し、二度と癒えない傷を負うかもしれない。自分は彼らの憎悪の対象となるだろう。
眠れない夜が続いた。目を閉じれば、人身御供にされた小夜の恐怖と絶望が、口封じに殺された恋人の無念が、胸に突き刺さるようだった。彼らの声なき声が、お前はどちらの側に立つのか、と問いかけてくる。
慧は、もはや純粋な理想主義者ではいられなかった。歴史とは、勝者の記録であると同時に、敗者の沈黙の総体でもある。そして彼は、その沈黙に触れてしまったのだ。
決意を固めた慧は、田所と村長を観音寺に呼び出した。そして、床下の箱と『懺悔録』を彼らの前に差し出した。二人の顔から血の気が引き、驚愕から深い苦悩へと変わっていく様を、慧は静かに見つめていた。
その週末、村の集会所には、ほとんどの村民が集まっていた。慧は演台に立ち、深く息を吸った。
彼はまず、自分が「再構築」した、小夜の自己犠牲と愛の物語を語った。村人たちの目には、感動と誇りの色が浮かんだ。しかし、慧はそこで言葉を止めなかった。
「……しかし、これは私が紡いだ物語です。そして、おそらくは、二百年前に皆さんのご先祖が紡ごうとした物語でもあります。ですが」と彼は続けた。「床下には、もう一つの物語が眠っていました」
慧は、『懺悔録』に記された、残酷な真実を、ありのままに、淡々と語り始めた。集会所は水を打ったように静まりかえり、やがて嗚咽と、怒号と、囁き声が渦を巻き始めた。
慧は語り終えると、静かに頭を下げた。
「どちらが真実の歴史かと問われれば、どちらも、です。実際に起きた出来事の記録。そして、その罪悪感から逃れるために人々が必死に紡いだ願いの物語。歴史とは、単一の事実ではありません。それは、人々の記憶と忘却、罪と祈りが幾重にも折り重なった、地層のようなものなのだと、私はこの村で学びました」
彼は顔を上げた。
「この二つの物語を、これからどう語り継いでいくのか。それは、皆さんが決めることです。私は、ただ、忘れられた声を皆さんにお届けしたに過ぎません」
それだけを言うと、慧は演台を降りた。非難の嵐が来ることを覚悟していた。しかし、誰も彼に石を投げようとはしなかった。村人たちは、ただ呆然と、自分たちの足元に横たわる、知らなかった歴史の深淵を見つめていた。
翌朝、慧は村を去った。バス停に向かう途中、彼は資料室の前に置かれた「泣き石」の前で足を止めた。霧雨が、昨日と同じように石を濡らしている。
彼は、もうこの石が泣いているようには感じなかった。ただ、そこにある。二百年の罪と、悲しみと、そして偽りの物語を、すべてその内に飲み込んで、静かに存在している。
慧は石にそっと手を触れた。冷たく、そして不思議な温かみがあった。彼はもはや、歴史を意のままに操れると信じていた傲慢な若者ではなかった。歴史の前に、ただ謙虚に佇み、その声なき声に耳を傾ける一人の人間になっていた。
バスの窓から遠ざかる雨霧村を眺めながら、慧は思う。真実を明らかにすることが、必ずしも人を救うとは限らない。しかし、沈黙の上に築かれた幸福は、あまりにも脆い。本当の修復とは、傷を美しく飾り立てることではなく、傷跡と共に生きていく覚悟を人々に与えることなのかもしれない。
彼の旅は、まだ始まったばかりだった。