刻守りの系譜

刻守りの系譜

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第一章 墨の囁きと桐の箱

古文書修復士である俺、桐谷朔(きりたに さく)にとって、歴史とは死んだ情報の集合体に過ぎなかった。風化した和紙の繊維を繋ぎ、掠れた墨の跡を再現する。その行為は、埃を被ったデータベースを復元する作業と何ら変わりない。情感や感傷は、修復の精度を鈍らせるノイズでしかなかった。

そんな俺の価値観は、亡くなった祖父の書斎で、一つの古びた桐の箱を見つけた日から、静かに、しかし根底から揺らぎ始めることになる。

祖父もまた、修復士だった。だが、その仕事ぶりは俺から見れば時代錯誤そのものだった。最新の科学技術を避け、手製の道具と長年の勘を頼りにする。まるで紙と対話するかのように、何時間もじっと動かなくなることもあった。俺はそんな祖父の姿を、職人気取りの感傷だと内心で軽蔑していた。

遺品整理の最中、書斎の奥、陽の当たらない棚の裏から現れたその桐の箱は、俺の知らない祖父の一面を隠しているような、密やかな気配を纏っていた。蓋を開けると、樟脳の懐かしい香りと共に、一枚の修復途中らしい和紙と、古風な封筒が目に飛び込んできた。

封筒の宛名には、震えるような筆跡で『我が孫、朔へ』とある。俺は訝しみながら、その封を開けた。

『朔へ。もしお前がこれを読んでいるのなら、俺の命は尽きた後だろう。唐突で驚かせるかもしれんが、聞いてほしい。これは、桐谷家に代々伝わる「刻守(ときもり)」としての、最後の仕事だ。この和紙に込められた声を、未来へ繋いでくれ。お前にしか、できんことなのだ』

刻守? 馬鹿馬鹿しい。まるでおとぎ話だ。俺は祖父の非科学的な妄想に、乾いた笑いを漏らした。だが、プロとしての好奇心が、その手紙を屑籠に捨てることを躊躇わせた。視線を、箱の中の和紙に移す。

それは酷い状態だった。あちこちが欠損し、水か涙か、何かの液体が滲んだ跡が茶色い染みとなって広がっている。かろうじて残る墨の跡も、肉眼ではほとんど判読できない。俺は職業柄持ち歩いているペンライト型の紫外線ランプを取り出し、和紙に光を当てた。

すると、闇の中に幽霊が浮かび上がるように、淡い墨痕が青白く発光した。それは明らかに、若い女性のものと思われる、流麗で、しかし切迫した筆跡だった。

『……どうか、この声を……私の生きた証を……未来へ……』

その断片的な言葉は、データベースの復元とは明らかに違う、生々しい何かを俺の胸に突き刺した。まるで、百年以上の時を超えて、誰かが俺に直接呼びかけているかのような錯覚。背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。

「くだらない」。俺は呟き、ライトを消した。だが、瞼の裏には、あの青白い文字が焼き付いて離れなかった。死んだはずの文字が、確かに俺に向かって囁いていたのだ。

第二章 会津の空、千代の声

祖父の最後の「仕事」とやらを、俺は結局、自分の工房に持ち帰ってしまった。非科学的な感傷と切り捨てながらも、あの微かな筆跡の主が誰なのか、何を伝えようとしていたのか、修復士としての探究心が抑えきれなかったのだ。

俺は工房の機材を総動員した。高解像度の赤外線スキャナで和紙の繊維構造を読み取り、蛍光X線分析装置でインクと染みの成分を調べる。モニターに映し出されるデータは、俺の混乱をさらに深めるものだった。

和紙の原料である楮(こうぞ)の年代は、幕末、おそらく慶応年間。産地は会津地方のものと特定できた。だが、墨に、本来その時代には存在しないはずのごく微量な合成樹脂の痕跡が、そして茶色い染みからは、現代の水道水に含まれるのと酷似した塩素化合物が検出されたのだ。あり得ない。まるで、時間軸が歪んだようなデータだった。

俺は矛盾したデータを一度忘れ、文字の解読に集中した。デジタル処理で浮かび上がった文字を繋ぎ合わせると、それは「千代(ちよ)」と名乗る会津藩士の娘の日記であることが分かってきた。

『五月、若葉の緑が目に眩しい。鶴ヶ城の桜はとうに散ったけれど、あの人の横顔を盗み見た時の、胸の高鳴りはまだ散らない』

『八月、空気が鉄の匂いを運び始めた。西の空が不穏に赤い。あの人は、私の作ったお結びを「これがあれば百人力だ」と笑ってくれた。その笑顔を守りたい』

『九月、砲声が赤子の泣き声を掻き消す。私たちは、蔵の地下に隠された通路に逃れた。冷たい土の匂い。この日記を、せめてこの想いを、誰かが…』

断片的な記述から浮かび上がるのは、戦争の影が迫る中でも懸命に生きた、一人の女性の日常だった。愛する人とのささやかな喜び、未来への不安、そして何かを必死で守ろうとする切迫した想い。

いつしか俺は、千代という女性の人生に深く感情移入していた。掠れた墨の跡は、もはや単なる情報ではない。それは、凍えるような地下通路で、震える手で筆を握ったであろう千代の息遣いそのものだった。彼女が見たであろう会津の空を、彼女が感じたであろう土の匂いを、俺は五感で追体験しているかのような感覚に陥った。歴史とは、死んだ情報の集合体などではないのかもしれない。この紙片には、確かに一人の人間の魂が宿っている。そう認めざるを得なかった。

第三章 時を超える系譜

修復作業が佳境に入った、ある雨の夜だった。千代の日記に頻繁に出てくる「蔵の地下」という言葉が、ふと、祖父の書斎の構造と重なった。言い知れぬ予感に導かれ、俺は再び祖父の家に向かった。書斎の床板を一枚一枚調べていくと、案の定、一枚だけが僅かに浮き上がるのを見つけた。

床板を剥がすと、そこには小さな隠し引き出しがあった。中には、何冊もの古い大学ノートがぎっしりと詰まっていた。それは、祖父が長年書き溜めてきた、恐るべき研究記録だった。

『「刻守」の技術は、単なる伝承ではない。それは、量子力学的な観点から説明可能な、時空干渉現象の一種である』

『我々の一族は、歴史の記録からこぼれ落ちた人々の「強い想い」を、特殊な和紙に定着させる技術を受け継いできた。その和紙は、未来に生きる「血の繋がった子孫」というアンカー(錨)を見つけるまで、時空の狭間を漂い続ける』

ノートを読み進める俺の指は、恐怖と興奮で震えていた。祖父の時代錯誤に見えた仕事は、全てこの「刻守」の技術のためだったのだ。非科学的だと嘲笑していた俺こそが、何も見えていなかった。

そして、俺はノートの最後のページで、息を呑んだ。それは、俺が今まさに修復している、千代の和紙に関する分析記録だった。

『検体名:会津藩士の娘・千代の記録。和紙に付着した微細な有機物をDNA鑑定。結果、被験者・桐谷朔の塩基配列と99.9%以上の一致を確認』

心臓が氷の塊になったようだった。千代は、俺の遠い祖先…? だが、衝撃はそれだけでは終わらない。祖父の最後の記述が、俺の築き上げてきた全ての常識を、粉々に打ち砕いた。

『結論。「刻守」の真髄は、過去からの一方的な伝達ではない。未来に生きる子孫の存在そのものが、過去の「想い」を励起させる触媒となる。千代の想いは、朔、お前がその和紙に触れ、彼女を「知りたい」と願った瞬間に、お前の生命エネルギーを依り代として、過去から「今」、この和紙の上に現象化したのだ。あの染みは、彼女の涙であると同時に、お前の知らないお前の涙でもある』

頭が真っ白になった。つまり、この日記は、幕末に書かれたものではない。俺が修復を始めた、まさにその瞬間から、千代の魂が俺というフィルターを通して、リアルタイムで書き綴っているというのか。歴史は固定された過去などではなく、今を生きる俺との相互作用によって、この瞬間に立ち現れる流動的な現象だというのか。

足元が崩れ落ちるような感覚に、俺は床にへたり込んだ。合理主義と科学的思考で固めたはずの世界が、音を立てて崩壊していく。俺は一体、何を修復していたんだ? 過去の記録か? それとも、俺自身の魂に刻まれた、遠い記憶の残響か?

第四章 あなたの時代の空の青さ

数日間、俺は工房に引きこもった。目の前の和紙が、まるで生き物のように思えてならなかった。それはもはや修復の対象ではなく、対話すべき相手だった。俺は祖父の研究ノートに記されていた「刻守」の作法に従い、最新機材の電源を全て落とした。そして、祖父が遺した手製の竹べらと、天然の膠(にかわ)だけを手に取った。

指先に全神経を集中させ、欠損した繊維を一本一本繋いでいく。それは作業というより、祈りに近い行為だった。俺は千代に語りかけた。あなたの想いは、確かにここに届いている、と。俺という不肖の子孫の中に、あなたの生きた証は息づいている、と。

すると、どうだろう。今までどうしても読めなかった最後の部分の文字が、まるで霧が晴れるように、すうっと和紙の上に浮かび上がってきたのだ。それは、千代から俺へ、そして未来を生きる全ての人へ向けられた、魂のメッセージだった。

『名を残せずとも、世を変えずとも、ただ、愛する人と共に笑い、泣いた日々が、確かにここにありました。私の声が届く未来のあなた。どうか、あなたの時代の空の青さを、愛する人と分かち合ってください。それこそが、私たちが命を賭して繋いだ、ささやかな奇跡なのですから』

その言葉を読み終えた瞬間、俺の頬を、熱いものが伝った。今まで流したことのない、温かく、そしてどこか懐かしい涙だった。それは千代の涙であり、俺自身の涙だった。時を超え、二つの魂が一つに溶け合った証だった。

俺は、祖父の仕事を継ごうと決めた。それはもう、時代遅れの感傷ではない。歴史の教科書には載らない、無数の名もなき人々の「声」を拾い上げ、未来へ繋ぐという、誇り高く、そして果てしなく尊い使命だ。

夜が明け、工房の窓から差し込む朝陽が、修復を終えた和紙を黄金色に照らした。俺はその紙をそっとかざす。光に透けた和紙の繊維が、まるで微笑んでいる千代の横顔のように見えた。

俺は工房の窓を大きく開け放ち、朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。見上げた空は、どこまでも澄み渡る青。これは、千代が見ることのできなかった空の色。そして、俺がこれから守り、繋いでいくべき未来の色だ。

歴史は遠い過去の物語ではない。それは今、俺の胸の中で呼吸をしている。俺は、その温かい重みを確かに感じながら、静かに目を閉じた。

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