残響の紐、忘れられた家族の唄
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残響の紐、忘れられた家族の唄

第一章 鈍色の石

俺、カイの胸には、生まれたときから石が宿っている。誰もがそうであるように。それは『家族石』と呼ばれ、絆の強さに応じて眩い光を放つとされていた。街行く人々は、胸元で輝く石を誇らしげに見せつけ、その光の強さが社会的信用の証となる世界。彼らの石は太陽の欠片のように、あるいは磨き抜かれた宝石のように、それぞれの家族の物語を煌びやかに語っていた。

しかし、俺の石だけは違った。

まるで、川底に沈んで久しい小石のように、鈍い鉛色をしていた。光はなく、熱もない。時折、指で触れるとそのざらついた感触が、俺がこの世界でいかに不完全な存在であるかを静かに伝えてくる。人々はこの鈍色の石を侮蔑と憐憫の入り混じった目で見やり、俺を避けた。輝かぬ石は、絆のない、あるいは崩壊した家族の烙印だったからだ。

だが、俺には家族がいた。いるはずだった。

記憶の中の父は、不器用な手で俺の頭を撫でてくれた。その手のひらの、硬く、温かい感触を今でも思い出せる。母は、雨の匂いがする日に、決まって甘い香りのする焼き菓子を作ってくれた。そして、妹のリナ。彼女の笑い声は、春の陽だまりに響く鈴の音によく似ていた。俺の記憶の中の家族は、どんな宝石よりも鮮やかに輝いている。それなのに、なぜ俺の石は光らないのか。

答えのない問いを抱えながら、俺はいつも左手首に巻かれた古い紐を握りしめる。それは、幼い頃から肌身離さず持っている『家族の紐』。父の髪、母の爪、リナの抜けた乳歯の欠片、そして俺自身のそれが、硬く、緻密に編み込まれている。この紐だけが、鈍色の石を持つ俺と、記憶の中の温かい家族とを繋ぐ、唯一の確かなものだった。

第二章 揺らぐ写真

書斎の埃っぽい棚の上に、一枚だけ写真立てが置いてある。色褪せた写真には、少し緊張した面持ちの父と、優しく微笑む母、そして、はにかみながら俺の腕に掴まるリナが写っていた。四人家族。それが俺の世界のすべてだった。

ある日の午後、窓から差し込む西日が写真のガラスに反射するのを眺めていると、ふと奇妙な違和感に気づいた。写真の中のリナの顔が、陽炎のように僅かに揺らいで見える。目を擦り、もう一度見つめる。気のせいだろうか。だが、彼女の輪郭は水彩絵の具が滲んだように、ほんの少しだけ、ぼやけている気がした。

胸騒ぎがして、俺は家を飛び出した。向かったのは、リナとよく遊んだ公園の隅にあるブランコだ。キー、コォ、と錆びた鎖が軋む音は昔のままだった。鉄の冷たい匂いが鼻をつく。リナはこのブランコが大好きで、空に届くくらい高く漕いでくれとせがんだものだ。

「お兄ちゃん、もっと、もっと!」

幻聴のように、彼女の声が風に乗って聞こえた気がした。無意識に、リナが好きだった鼻歌を口ずさむ。それは、母がよく歌ってくれた、誰も知らない古い唄だった。その瞬間、左手首の『家族の紐』が、くらがりに灯る蝋燭のように、淡く、温かい光を放った。光に呼応するように、霞んでいたリナの記憶が、再び鮮明な輪郭を取り戻す。

安堵のため息をついたのも束の間、家に帰って再び写真を見ると、俺は息を呑んだ。リナの姿は、さっきよりもさらにぼやけていた。まるで、世界が彼女の存在を少しずつ消し去ろうとしているかのように。

第三章 消滅の波紋

悪夢は、静かな朝に訪れた。

目覚めてすぐ、部屋の空気が妙にがらんとしていることに気づいた。いつもと感じが違う。その違和感の正体を探して視線を彷徨わせ、写真立てに目を留めた瞬間、心臓が凍りついた。

そこに、リナはいなかった。

父と母、そして俺。三人が写る、ごく普通の家族写真があるだけだった。妹がいたはずの場所は、背景の壁紙が不自然に引き伸ばされたように、空虚な空間になっている。

叫び声は出なかった。代わりに、激しいめまいが俺を襲う。記憶を探る。妹が、いた。確かにいたはずだ。どんな顔で、どんな声で笑う子だった? 思い出そうとすればするほど、記憶に濃い霧がかかり、大切な何かが指の間から零れ落ちていく。名前さえ、喉の奥でつかえて出てこない。

「……っ、あ……!」

恐怖に身を震わせながら、俺は藁にもすがる思いで手首の『家族の紐』を強く、強く握りしめた。爪が食い込むほどの力で。すると、紐はこれまでになく強い光を放ち、焼けるような熱が腕を走った。

その閃光とともに、断片的なイメージが脳裏に弾ける。

『リナ』

ひまわりの花。彼女が好きだった花の色。転んで泣いた時の、小さな手のひらの感触。そして、鈴の音のような笑い声。消えかけていた記憶の欠片が、激しい痛みを伴って蘇る。

俺は悟った。これはただの物忘れではない。もっと恐ろしい、存在そのものの消滅なのだと。世界が、俺の家族を一人ずつ、俺の記憶の中からさえ奪い去ろうとしている。

第四章 記録管理局の冷光

真実を確かめなければならない。その一心で、俺は街の中枢にそびえる中央記録管理局へと向かった。大理石の床は、輝く家族石を持つ人々の足音を冷たく反響させていた。すれ違う誰もが、俺の胸の鈍色の石に侮蔑の視線を投げかける。その視線が、無数の針のように肌を刺した。

受付カウンターで、俺は震える声で家族の記録照会を申し出た。職員は、俺の石を一瞥すると、あからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた。しかし、職務には逆らえず、無機質な指先でコンソールを叩く。

「カイ様、ですね。ご家族の構成は?」

「父のハルト、母のミコト、そして……妹のリナです」

職員は名前を入力し、エンターキーを押した。静寂。スクリーンに映し出されたのは、冷たい二文字だった。

『該当なし』

「……そんなはずは」

「記録にありませんね。ハルト様も、ミコト様も。もちろん、リナ様という方も。そもそも、カイ様、あなたご自身の家族登録記録が存在しません」

足元から世界が崩れていくような感覚。俺は、この世界に存在しない家族の記憶を抱いているというのか。絶望に打ちひしがれる俺の目の前で、職員が操作していた古い端末が、けたたましいアラート音と共に赤い警告画面を点滅させた。

【SYSTEM ERROR: Class-Exclusion/Residue_Detected】

「なんだ、このエラーは…」職員が眉をひそめた、その時だった。

背後から、しわがれた声が聞こえた。

「その紐……若いの、お前さんが腕にしとるのは、『記憶の編み糸』ではないか?」

振り返ると、そこにいたのは、管理局の制服を古びるまで着込んだ、一人の年老いた記録官だった。彼の目は、俺の石ではなく、手首の紐に釘付けになっていた。

第五章 世界の真実

老記録官は、俺を人目につかない書庫の最奥へと導いた。古い紙とインクの匂いが立ち込める、忘れられた時間の貯蔵庫のような場所だった。彼は、埃をかぶった一冊の分厚いファイルを取り出しながら、静かに語り始めた。

「この『家族石』システムが導入されたのは、もう随分と昔のことじゃ。社会を安定させるという大義名分のもと、『標準的』な家族の形が定義された」

彼の声は、まるで遠い過去からの囁きのようだった。

「そして…その定義から外れた者たちは、『異質な絆』として、システムによって存在そのものを排斥されることになった。血縁のない親子、社会規範にそぐわぬ関係、あるいは、我々の理解を超えた絆で結ばれた家族…。彼らは記録から、人々の記憶から、静かに、だが完全に消去されていった」

彼の言葉が、雷のように俺の全身を貫いた。

「俺の…家族も、その一つだったと?」

「おそらくは。君の家族は、システムが計測できない、何か特別な絆を持っていたのじゃろう。だから『排斥』の対象となった。君のその奇妙な記憶力は、いわばシステムのバグ。消去の波紋に抗い、残滓を留めてしまう特異体質なのじゃ」

老記録官は続けた。「そして、その『記憶の編み糸』は、システムが生まれる遥か昔から伝わる、存在の消去に抗うための最後のお守りだ。消された者たちの存在の証を、僅かでも繋ぎ止めるための…」

彼がそう言って、目の前の古いファイルに触れた瞬間だった。彼の目に戸惑いの色が浮かび、俺を見る目が、まるで初対面の人間を見るそれに変わった。

「…お若いの、こんな場所で何を? …いかん、わしは誰と話しておったかな…?」

彼の記憶からも、今この瞬間、俺と俺の家族の痕跡が消え去ったのだ。

俺は、本当の意味で、世界でたった一人になった。

第六章 記憶の編み人

管理局を出て、俺は無心で丘を登った。眼下には、無数の家族石が放つ光でできた、偽りの星空のような街が広がっている。孤独だった。しかし、不思議と絶望はなかった。自分のやるべきことが、ようやくわかったからだ。

丘の頂で、俺は左手首の『家族の紐』を、祈るように両手で包み込んだ。そして、それをゆっくりと胸の鈍色の石に押し当てる。

その瞬間、世界が変わった。

紐と石が共鳴し、まばゆい光を放った。それは太陽のような強い光ではない。虹のように、無数の色が混じり合った、複雑で、どこまでも優しい光だった。光と共に、膨大な記憶の奔流が俺の内になだれ込んでくる。

父、母、リナの笑顔。それだけではなかった。見たこともない少年たちが、血の繋がりなく兄弟と呼び合う姿。老婆たちが寄り添い、互いの皺を愛おしむ静かな午後。システムによって『異質』と断じられ、消されていった無数の家族たちの、名前のない温もり。彼らの笑い声、涙、交わした言葉、食卓の匂い。その全てが、俺という器の中に注ぎ込まれていく。

彼らをこの世界に無理やり復元しようとは思わなかった。それは、新たな定義と排斥を生むだけだろう。この歪んだ世界に、彼らの美しい絆を再び晒す必要はない。

俺は、編むのだ。

この身の内側に、彼らのための新しい世界を。忘れられた全ての家族が、誰に裁かれることもなく、安らかに存在できる場所を。

胸の石は、もはや鈍色ではなかった。それは、どんな宝石とも違う、あらゆる色を内包した深淵な輝きを宿していた。俺は『記憶の編み人』となったのだ。

これからも俺は、この丘の上で、忘れられた絆の唄を、ただ一人、心の中で紡ぎ続けるだろう。ふと空を見上げると、そこには誰もいないはずなのに、父と母、そしてリナが、満面の笑みでこちらに手を振っているような気がした。


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