後悔を集める男と、涙の化石

後悔を集める男と、涙の化石

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第一章 澱みの収集人

蓮(れん)の仕事は、夜と共に始まる。都市が深い眠りに落ち、街灯だけがアスファルトを冷ややかに照らす頃、彼は一人、特殊なカートを押して路地から路地へと歩く。彼の名は蓮。職業は「感情清掃員」、通称「後悔拾い」。

人々は夜の帳に紛れて、心の澱を捨てる。それは物理的な形を伴って、道の隅やゴミ捨て場の影に転がっているのだ。蓮には、それが見える。嫉妬は、粘つく緑色の苔のような塊。怒りは、触れると火傷しそうなほど熱を帯びた黒い炭。虚栄心は、薄っぺらく割れやすい金箔。彼の仕事は、これらの「後悔の結晶」を、夜が明ける前に回収すること。都市の精神衛生を保つ、誰にも知られない番人だった。

もう何年、この仕事をしているだろう。拾い集めた無数の感情は、蓮自身の感情を摩耗させていった。彼は他人の後悔に触れすぎたせいで、自分自身の感情の輪郭が曖昧になっていた。カートに備え付けられた特殊な容器に結晶を放り込むたび、チリン、ゴト、と乾いた音が響く。それはまるで、誰かの人生が一つ、また一つと無に還っていく音のようだった。

その夜も、いつもと同じはずだった。ネオンが滲む歓楽街の裏通り。酔客が吐き捨てたであろう、自己嫌悪の結晶がアスファルトに黒い染みを作っている。蓮がそれを無感動にトングで掴もうとした、その時だった。

視界の隅で、何かが淡く、清らかな光を放っているのに気づいた。

ゴミ袋の傍らに、それはあった。これまで蓮が見たどんな結晶とも違う。それは、手のひらに収まるほどの大きさの、完全に透明な結晶だった。まるで、純粋な涙がそのままの形で化石になったかのような、切なくも美しい輝きを放っている。普通の後悔は、多かれ少なかれ濁りや澱みを含んでいる。しかし、これには一切の不純物がない。

好奇心と、ほとんど忘れていた未知への興味に突き動かされ、蓮は素手でそれに触れた。

瞬間、彼の脳裏に閃光と共にビジョンが流れ込んできた。―――陽光が降り注ぐ公園。幼い少女の弾けるような笑い声。シャボン玉が虹色にきらめきながら空に昇っていく。温かく、満ち足りた、幸福そのものの光景。

「……なんだ、これは」

蓮は思わず結晶を落とした。カラン、と澄んだ音が響く。後悔の結晶に触れて、流れ込んでくるのは常に、痛みや苦しみ、醜い欲望の残滓だけだった。幸福な記憶など、ありえない。これは、一体誰が、何を「後悔」して捨てたというのか。蓮は心臓が奇妙なリズムで脈打つのを感じながら、再びその透明な結晶を拾い上げた。規定違反だとわかっていながら、彼はそれを仕事用の容器ではなく、自分のコートのポケットにそっとしまい込んだ。夜の冷気の中で、その結晶だけが、確かな温もりを持っていた。

第二章 透明な残響

翌日から、蓮の静かな日常は崩れた。仕事中も、アパートの自室で一人過ごす時間も、ポケットの中の結晶の存在が彼の意識を支配した。時折それに触れると、あの幸福な光景が鮮やかに蘇る。それは、まるで他人の夢を盗み見ているような、背徳的で甘美な感覚だった。

この異常な結晶の持ち主を探さずにはいられなかった。蓮は手がかりを求め、結晶を見つけた路地裏へと向かった。そこは古い木造アパートが立ち並ぶ、時の流れから取り残されたような一角だった。結晶が落ちていたのは、その中の一軒、『月光荘』という名の古びたアパートの前だった。

蓮は大家を訪ね、それとなく住人について尋ねた。大家の老婆は、少し寂しそうに目を伏せて語った。

「ああ、あの場所なら……二階の角部屋に住んでいた、美咲ちゃんのことかね。あの子は、一月前に亡くなったんだよ。まだ若かったのにねぇ」

美咲。その名が、蓮の胸に小さく響いた。彼女は画家を目指していた快活な女性だったが、数年前から重い病を患い、入退院を繰り返していたという。

「最後まで、本当に頑張っていたよ。辛いだろうに、いつも笑っていてね。窓から見える公園の景色を、飽きもせずスケッチしていたっけ……」

蓮は礼を言って大家の元を辞し、月光荘を見上げた。美咲が住んでいたという二階の角部屋。その窓は、すぐ隣にある小さな公園に面していた。あのビジョンが、公園の光景だったことと符合する。

数日後、蓮は再び月光荘を訪れた。美咲の母親が、遺品の整理に来ていると聞いたからだ。思い切って部屋のドアをノックすると、憔悴しているが、娘とよく似た優しい目をした女性が顔を出した。蓮は身分を偽り、美咲の古い知人だと告げた。母親は驚きながらも、娘を偲んでくれる人がいることを喜んで、彼を部屋に招き入れた。

部屋は、絵の具の匂いが微かに残っていた。壁には何枚ものスケッチが飾られ、イーゼルには描きかけのキャンバスが立てかけられている。どれも、日常の何気ない風景を、慈しむような視線で切り取った絵だった。

「あの子、描くことが本当に好きで……。体が動かなくなっていく中でも、鉛筆だけは離さなかったんです」

母親はそう言って、一冊の分厚いスケッチブックを蓮に差し出した。

「これが、美咲の宝物でした。よかったら、見てやってください」

蓮はゆっくりとページをめくった。公園の猫、雨上がりの紫陽花、商店街の店主の笑顔。そこには、病の影など微塵も感じさせない、光と喜びに満ちた世界が広がっていた。蓮は、この女性が捨てた「後悔」が、なぜあんなにも透明だったのか、その理由に少しだけ触れた気がした。彼女の後悔は、憎しみや絶望から生まれたものではなかったのだ。

第三章 スケッチブックの告白

スケッチブックをめくる指が、ふと止まった。最後から数ページ目。そこに描かれていたのは、見覚えのある光景だった。

―――陽光が降り注ぐ公園。シャボン玉を追いかけて、無邪気に笑う幼い少女。

蓮は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。それは、あの透明な結晶に触れた時に見たビジョンそのものだった。そして、何よりも蓮を打ちのめしたのは、そこに描かれた少女の顔だった。それは、七年前に事故で失った、彼の最愛の娘、ひかりの笑顔だった。

「どうして……」

声にならない声が漏れた。なぜ、この見ず知らずの女性が、自分の娘を描いているのか。蓮は震える手でページをめくった。次のページには、その少女を優しい眼差しで見つめる、若い父親の横顔が描かれていた。紛れもない、七年前の自分自身の姿だった。

母親が、蓮の様子に気づいて声をかけた。

「どうか、なさいましたか?」

「いえ……この絵は……」

母親はスケッチを覗き込み、ああ、と思い出したように言った。

「この公園の親子の絵ですね。美咲が、特に気に入っていた一枚です。亡くなる少し前、ベッドの上でこの絵を見ながら、言っていたんです。『本当に幸せそうだった。あんな笑顔を、もっとたくさん描きたかったな』って……」

もっと、たくさん、描きたかった。

その言葉が、雷のように蓮の頭を貫いた。そうだ。これが彼女の後悔の正体だ。病で筆を執れなくなることへの無念。夢を絶たれたことへの悲しみ。しかし、彼女の視線は、失うものへの絶望ではなく、最後まで、そこにあった美しい世界へと向けられていた。

蓮は、スケッチブックの裏表紙に、一枚の紙が挟まっているのを見つけた。そっと引き抜くと、そこには美咲の震えるような、しかし確かな筆跡で、短い文章が綴られていた。

『私の後悔は、透明だろうか。たくさんのものを諦めた。たくさんの夢を描ききれなかった。でも、私の見ていた世界は、最後まで、こんなにも光に満ちていた。公園の親子の笑顔。窓辺に射す朝の光。母の淹れてくれた紅茶の湯気。それらを愛おしいと思えた記憶が、私のすべて。だから、もし私が最後に何かをこぼすとしたら、それはきっと、涙みたいに透き通った、「ありがとう」という名の後悔のはずだ』

蓮は、その場に崩れ落ちそうになった。ポケットの中の結晶が、まるで美咲の魂に応えるかのように、温かく脈動する。

彼は悟った。後悔とは、失ったものへの嘆きだけではない。それがどれほど大切だったか、どれほど深く愛していたかの証なのだ。蓮は七年間、娘を失った後悔を、冷たく重い、捨てるべき澱みとして抱え込んできた。娘を救えなかった自分を責め、幸せだった記憶ごと心の奥底に封印してきた。だが、美咲は教えてくれた。後悔は、愛の裏返しなのだと。

彼は自分の過ちに気づいた。後悔をただのゴミとして処理してきた自分。他人の人生の痛みを、無感動に片付けてきた自分。そして何より、娘への愛さえも、後悔という名の暗闇に閉じ込めていた自分。価値観が、音を立てて崩れ落ちていく。涙が、何年も枯れていたはずの蓮の瞳から、とめどなく溢れ出した。

第四章 夜明けの結晶

美咲の部屋を出た時、東の空が白み始めていた。蓮の手には、あのスケッチブックが握られている。母親が「娘もその方が喜ぶでしょうから」と、彼に譲ってくれたのだ。

アパートに戻った蓮は、ポケットから透明な結晶を取り出し、窓辺に置いた。昇り始めた朝日に照らされ、結晶は部屋中に虹色の光を散乱させた。それはまるで、美咲が描ききれなかった光の世界のようだった。

彼は、七年間開けたことのなかった古いアルバムを取り出した。そこには、娘ひかりの笑顔が溢れていた。公園でシャボン玉を追いかける写真。誕生日ケーキのロウソクを吹き消す写真。蓮は一枚一枚を指でなぞりながら、後悔と共に封印していた記憶を、愛しい思い出として、もう一度抱きしめた。

悲しみは消えない。娘を失った痛みは、これからもずっと彼の胸にあり続けるだろう。だが、それはもはや、彼を苛む冷たい澱みではなかった。娘と過ごした時間がいかにかけがえのないものだったかを証明する、温かい証となっていた。

その夜、蓮は再びカートを押して街に出た。見える景色は、昨日までと同じはずなのに、全く違って見えた。道端に転がる後悔の結晶一つ一つに、誰かの果たせなかった夢や、届かなかった想い、愛した記憶の残響が込められているように感じられた。彼は一つ一つを、丁寧に、慈しむように拾い集めた。それはもはや、単なる清掃作業ではなかった。誰かの人生の断片に触れる、神聖な儀式のように思えた。

仕事を終え、夜明けが近づく頃。蓮はふと、自分の胸に手を当てた。そこから、小さな温かい光が生まれるのを感じた。そっと手のひらをかざすと、彼の胸から、淡い光を放つ小さな結晶がこぼれ落ちた。

それは、娘を失った彼自身の後悔の結晶だった。だが、以前の彼が捨てていたであろう、冷たく重い澱みではない。ひかりへの尽きせぬ愛と、共に過ごした時間への感謝に満ちた、温かい琥珀色の光を帯びていた。

蓮はその結晶を、壊れ物を扱うようにそっと拾い上げ、透明な結晶の隣に、コートのポケットにしまった。二つの結晶が寄り添い、互いの光を増幅させるように、静かに輝いた。

朝日の光が、都市のビル群を金色に染め上げていく。蓮はカートを押し、光の中へと歩き出した。後悔を捨てるのではなく、愛した証として抱きしめて生きていく。彼の新しい一日が、今、始まろうとしていた。

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