第一章 鳴り止まぬ囁き
佐倉 亮がその家を購入したのは、ほんの二ヶ月前のことだった。郊外に佇む築60年の木造一軒家。都心での喧騒に疲弊しきっていた彼にとって、静かで歴史を感じさせるこの場所は、まさに心の安寧をもたらす聖域となるはずだった。しかし、引っ越しの荷解きが終わり、初めて一人きりで迎えた夜から、奇妙な「音」は始まった。
最初は何かの間違いだと思った。ミシミシと鳴る木材の軋み、風に揺れる窓のガタつき。古い家だから仕方がない、と亮は自分に言い聞かせた。だが、それは日を追うごとにその存在を明確にしていく。深夜、リビングの真ん中に立つと、まるで壁の裏側から、床下から、あるいは天井の梁の奥深くから、微かな、しかし確かに存在する「ささやき声」が聞こえるようになった。それは特定の単語を成しているわけではないが、耳元で語りかけられているような、不穏な響きを帯びていた。
ある夜、亮は寝室でうたた寝をしていた。夢うつつのまどろみの中、枕元から、まるで赤ん坊のようなすすり泣きが聞こえた気がした。ハッと目を開けると、部屋は闇に包まれている。耳を澄ますが、音は止んでいる。心臓が嫌な鼓動を刻む。亮は体を起こし、壁際に置かれた間接照明のスイッチを入れた。柔らかな光が部屋を満たすと、恐怖は薄れる。気のせいだ、疲れているんだ、と自分に言い聞かせ、彼は再び横になった。しかし、一度認識してしまった音は、意識すればするほど彼の神経を蝕んでいく。
隣家との距離は十分にあり、近所には高齢者ばかりが住んでいる。若者の騒ぎ声であるはずがない。亮は夜な夜な家の中を歩き回り、音の発生源を特定しようと試みた。壁に耳をつけ、床に伏せ、天井を見上げる。しかし、音は空間全体に響いているようで、特定の場所から聞こえるわけではない。その現象は、まるで音そのものがこの家に染み付いているかのようだった。
亮の心は徐々に疲弊していった。日中の仕事も手につかず、常に耳は音を捉えようと研ぎ澄まされている。同僚との会話も上の空になりがちだった。ある日、彼は友人に冗談めかして「うち、幽霊出るかも」と話してみた。友人は笑い飛ばし、「古い家なんてそんなもんだろ。お前も疲れてるんだよ」と軽くあしらった。誰も信じてくれない。亮は次第に孤立感を深めていった。
音は、特定の条件で強くなることに亮は気づき始めていた。それは、彼が深い後悔の念に囚われた時、あるいは過去の記憶の断片が不意によぎった時だった。例えば、幼い頃に彼が犯した、忘れようと努めてきたある過ちを思い出した瞬間、音は耳元で囁くように響き、その存在感を増した。それは一体何なのだろう。単なる怪奇現象なのか、それとも、彼の内面が作り出した幻聴なのか。亮の日常は、その鳴り止まぬ囁きによって、確実に覆され始めていた。
第二章 古家の記憶
音の魔力に取り憑かれた亮は、その原因を探るために動き出した。彼はまず、この家の歴史を調べ始めた。近所の古老たちに聞き込みをするが、彼らは皆、亮を不審な目で見るばかりで、まともな情報は得られない。ただ、一人の老婆が、かつてこの家で「幼い子供が不幸な死を遂げた」という、おぼろげな記憶を語った。それ以上の詳細は不明だったが、亮の胸に重苦しい影を落とした。
インターネットで「〇〇町 事故物件」と検索してみる。いくつかの情報サイトに、この住所が過去に「子供の溺死事故」があった家としてリストアップされているのを発見した。事故は今から30年以上前、幼い姉弟が池で遊んでいて、弟が誤って転落死したという。当時の住人は事故後すぐに引っ越していったと記されていた。亮が引っ越してきた時期と、音が発生し始めた時期は、その情報に触れた後でも、その前でもなく、この家で生活し始めてすぐだった。彼はその情報と自分の家の怪奇現象を結びつけようとしたが、腑に落ちない部分が残った。弟の溺死事故がこの家の音と直接的に関係するのだろうか?
夜、リビングの隅にある本棚から、埃をかぶったアルバムを見つけた。前の住人が置いていったものだろう。古びたセピア色の写真には、かつてこの家で暮らしていた家族の笑顔が写っていた。幼い姉と弟。アルバムの後半には、日付が途切れているページがあり、そこから先の写真は一枚もなかった。その空白が、事故の悲劇を雄弁に物語っているようだった。亮は写真の中の幼い弟の顔を見つめた。くりっとした瞳。無邪気な笑顔。その顔が、どこか見覚えのあるものに思えて、亮はぞくりとした。
その晩、音は一層激しくなった。壁の奥から、今度は具体的な「すすり泣き」と、何かを「叩く」ような規則的な音が聞こえる。まるで、幼い手が必死に助けを求めるように。亮はたまらず耳を塞いだが、音は頭の中に直接響くかのように止まない。彼は震える手でスマートフォンの録音アプリを起動し、その音を捉えようとした。しかし、再生してみると、そこには彼の荒い呼吸音しか録音されていなかった。音は彼にしか聞こえない、或いは彼にしか感知できない周波数で存在しているのかもしれない。
そして、音は亮の行動に連動するように変化し始めた。アルバムを開いた時、子供の絵本を手に取った時、あるいは子供用の小さな靴下を見つけた時、音はより鮮明になり、彼の心を直接揺さぶるような響きを帯びる。それは、まるで彼の内奥に潜む何かを刺激しているかのようだった。
ある日、亮は風呂場に入った。シャワーを浴びていると、ふと、水滴がタイルに落ちる音が、かすかな囁きに聞こえることに気づいた。そして、浴槽の水を抜く際に、排水溝から聞こえる水の音もまた、彼の耳には嘆き声のように響いた。水……溺死……。亮の頭に、突然、雷に打たれたような衝撃が走った。彼は、この音と過去の事故を結びつけようとしていたが、それは単なる外部からの情報ではない、もっと個人的で、内面的な何かと繋がっているのではないかという、漠然とした、しかし確信めいた予感に囚われ始めた。
第三章 罪の残像
亮は自身の予感を裏付けるかのように、ある記憶の断片に苛まれるようになった。それは彼が幼い頃、妹のサキと遊んでいた時の記憶だった。近くの公園の、深い池のほとり。亮はサキに、水面に映る自分の顔を「幽霊だ」と言ってからかった。サキは泣き出し、亮に追いかけられた勢いで足を滑らせ、池に落ちてしまった。亮は慌てて手を差し伸べたが、滑り落ちるサキの手は掴めず、水中に消えていく彼女の姿をただ呆然と見ていることしかできなかった。その後の混乱、両親の悲痛な叫び、そして、救急隊員が引き上げた、冷たくなったサキの小さな体。
「お兄ちゃんがちゃんと見ていれば……」
父の、母の、そして親戚たちの、責めるような視線と言葉が、何十年経った今も亮の胸に深く刺さっている。サキの死は事故だとされたが、亮は自分自身の責任を重く感じていた。あの時、もっとしっかりしていれば。あの時、意地悪なからかいをしなければ。あの時、手を離さなければ。その「後悔」と「罪悪感」は、亮の心の奥底に封印され、蓋をされたはずだった。だが、この古家での「音」が、その蓋をこじ開けようとしている。
音は最早、単なる囁きやすすり泣きではなかった。それは、彼の過去の記憶と完全に連動し、具体的な「言葉」を紡ぎ始めた。
「お兄ちゃん……どうして?」
「助けて……寒かったよ……」
その声は、かつて亮が聞いたサキの声と寸分違わぬ、幼くも悲痛な響きを帯びていた。そして、それは彼が罪悪感に苛まれるたび、あるいは目を閉じて当時の光景を思い出そうとするたび、より鮮明に、より近くで聞こえるようになった。それは、幻聴の域を超えて、まるでサキの霊が彼に直接語りかけているかのようだった。しかし、亮には確信があった。これは、この家にまつわる「子供の溺死事故」の霊ではない。これは、彼自身の深層心理が作り出した、彼自身の「罪の残像」なのだと。
ある日、亮は夜中に目を覚ました。寝室のドアの隙間から、微かな光が漏れている。リビングだ。亮は恐る恐る寝室を出た。リビングの中央には、幼い少女の姿が立っていた。半透明で、ぼんやりと光を放つその姿は、アルバムの中のサキ、そして彼の記憶の中のサキと全く同じだった。少女は水で濡れたような髪を垂らし、青ざめた唇で、しかしはっきりと亮を見つめていた。
「お兄ちゃん、忘れたの?」
その声は、音としてではなく、脳に直接響くかのように聞こえた。亮は膝から崩れ落ちた。逃げることも、叫ぶこともできない。視覚的な幻影が彼の目の前に現れ、彼の罪を問い詰める。それは、音だけでは得られなかった、圧倒的な現実感を伴っていた。彼の価値観は根底から揺らいだ。これまで必死に封じ込めてきた過去が、今、目の前で形を成し、彼を責めている。
これは、この家に住む霊ではない。亮は悟った。これは、彼の心が生み出した、彼自身を罰するための「怪物」なのだ。彼の「後悔」と「罪悪感」という負の感情が、長年培われ、この家という閉鎖的な空間で増幅され、ついに彼の最も恐れる「姿」と「声」となって具現化したのだ。その事実を理解した瞬間、亮は絶望の淵に突き落とされた。逃れる術はない。この家から逃げ出したとしても、この「怪物」は彼の心に深く根を張っているのだから。それは彼自身の影であり、彼自身が作り出した地獄だった。
第四章 贖罪の旋律
絶望の淵で、亮は一つの決断を下した。逃げ続けることはできない。この「音」と「姿」は、彼の心が生み出したものであるならば、それを鎮めることができるのもまた、彼自身しかいないのだ。それは、彼が何十年も避けてきた、最も苦しい道だった。過去の自分と向き合い、妹の死に対する罪を受け入れること。
亮はまず、サキの遺品を探し出した。実家には、彼女の好きだった絵本や、小さな人形、そして事故の時に身につけていた形見のブローチが残されていた。亮はそれらを丁寧に撫で、一つ一つに語りかけるように、当時の記憶を呼び起こした。
「サキ、ごめん。本当に、本当にごめん。」
彼の謝罪の言葉は、最初は震えていたが、次第に確かな響きを帯びていった。彼は何日も何日も、自分の部屋に閉じこもり、サキの幻影と対話し続けた。幻影は最初、変わらず彼を責め立てるような声と視線を送ってきたが、亮が心からの謝罪を繰り返すうちに、その表情は微かに変化していった。目元から涙がこぼれ落ちる幻影に、亮は自らの手で触れようとした。もちろん、それはすり抜けるばかりだったが、彼の心は温かい痛みに満たされた。
彼は、サキの墓参りにも行った。何年も避けていた墓石の前に立ち、亮はこれまでの経緯を、そして自身の心の痛みと後悔を、語れるだけ語った。風が強く吹き荒れる中、墓石の向こうから、微かに、かつてのような「すすり泣き」が聞こえた気がした。しかし、それはもう、彼を責めるような響きではなかった。むしろ、彼の感情に寄り添い、彼と共に悲しむような、静かで穏やかな音に変わっていた。
家に戻った亮は、部屋の空気が変わっていることに気づいた。あの張り詰めたような、重苦しい恐怖は消え失せ、代わりに、どこか澄んだ、清らかな静寂が広がっていた。音は、完全には消えていない。しかし、それはもはや亮を苦しめるものではなかった。代わりに、それは彼自身の心臓の鼓動のように、あるいは、遠くで聞こえる波の音のように、穏やかなリズムを刻んでいる。
夜、再び現れたサキの幻影は、以前のような水に濡れた悲しい姿ではなく、アルバムの中で見た、幼い頃の輝くような笑顔を浮かべていた。彼女は何も言わず、ただ亮を見つめていた。その瞳には、恨みも悲しみもなかった。あるのは、ただ、兄への愛情と、許しのような、深い理解の色だった。やがて、その姿は夜霧のように淡く消えていった。
亮は、音を完全に消すことはできないだろうと理解していた。それは、彼自身が背負い続けるべき「過去」であり、「罪」の証だからだ。しかし、彼はもはやそれを恐れてはいなかった。むしろ、その音が、彼が過ちを忘れず、これからの人生を誠実に生きていくための「警鐘」であり、同時に「妹の存在」を感じさせてくれる唯一の繋がりだと考えるようになった。
彼はその家を出ることはなかった。むしろ、この家で、音と共に生きていくことを選んだ。彼は、サキの供養のために、この家で小さな祭壇を設けた。そして、地域の子どもたちのための学習支援ボランティアを始めた。かつて、自分の過ちで幼い命を奪ってしまった彼が、今、幼い命を守り育むことに尽力する。
深夜、窓の外から月明かりが差し込む中、亮は静かに目を閉じる。耳元に、今も微かに「音」が聞こえる。それはもう、恐怖の囁きではない。それは、彼が過去を乗り越え、自己を許すことで、彼を導く「贖罪の旋律」に変わっていた。苦しみは消えない。しかし、彼はその痛みを抱きしめ、前に進むことを選んだ。人生は、過去の過ちによって定義されるのではなく、その過ちから何を学び、どう生きるかによって決まる。亮は、その答えを、あの「音」の中に見出したのだった。