第一章 染みと忘却の朝
水上聡は、壁の染みで目を覚ました。
古書修復家である彼の朝は、いつも決まった儀式で始まる。カーテンを開け、窓から差し込む光で部屋中の埃の粒子を確かめ、それから丁寧に淹れた珈琲の香りで肺を満たす。秩序と記録、そして過去から受け継がれた物語を慈しむ彼にとって、その一連の動作は、世界の恒常性を確認するための祈りのようなものだった。
だが、その朝は違った。
寝室の、漆喰が塗られた白い壁。その隅に、まるで巨大なアメーバのように、黒く湿った染みが広がっていた。大きさは人頭大ほど。昨日の夜には、間違いなく存在しなかったものだ。黴だろうか。聡はベッドから降り、指先でそっと触れてみる。ひんやりとした湿り気はあったが、黴特有の鼻を突く匂いはない。ただ、そこだけが周囲の空気から切り取られたように、静かに冷たかった。
拭き取ろうと雑巾を手に戻ってきた時、彼はふと、奇妙な違和感に襲われた。何かを忘れている。重要な何かを、頭の中からごっそりと抜き取られたような、空虚な感覚。なんだろう。今日の予定か?違う。仕事の段取りか?それも違う。
彼はキッチンへ向かい、珈琲を淹れながら記憶の糸をたぐり寄せようとした。その時、電話が鳴った。画面には『妹』の文字。
「もしもし、兄さん?明日の母さんの誕生日、プレゼントどうする?」
「ああ、そうだな……」
言葉に詰まった。母の誕生日。それは覚えている。しかし、妹の問いに続くはずの、ごく自然な言葉が出てこない。
「……母さんの、好きな食べ物って、何だったかな」
電話の向こうで、妹が息を呑む音がした。
「何言ってるの?兄さん、毎年母さんの大好物のアップルパイを焼いてくれるじゃない。忘れたの?」
アップルパイ。その単語を聞いても、聡の心には何の情景も浮かばなかった。シナモンの香りも、オーブンから漂う甘い匂いも、それを嬉しそうに頬張る母の笑顔も、すべてが濃い霧の向こうに霞んでしまっている。まるで、他人の記憶を聞かされているかのように。
電話を切った後、聡は呆然と立ち尽くした。脳裏に、先ほどの寝室の光景がフラッシュバックする。壁に広がっていた、黒い染み。あれが現れたのと、母の好物の記憶が消えたのは、果たして無関係なのだろうか。
まさか、と彼は首を振る。疲れているだけだ。しかし、心の奥底で警鐘が鳴り響いていた。彼の愛する、秩序と記録に満ちた日常に、修復不可能な亀裂が入り始めていることを、彼はまだ知らなかった。
第二章 失われていく色彩
その日から、聡の世界は静かに色褪せていった。
黒い染みは、日を追うごとにその面積を広げ、まるで生きているかのように壁を侵食していく。そして、その拡大と歩調を合わせるように、聡の記憶が一つ、また一つと抜け落ちていった。
ある朝は、夜中に階段がきしむ音を聞いた後で、大学時代の親友の顔が思い出せなくなっていた。名前は覚えている。共に過ごした時間の断片も残っている。だが、肝心な彼の顔だけが、のっぺらぼうのように塗りつ潰されていた。胸に突き刺さるような喪失感と共に、聡は洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめた。いつか、この顔さえも忘れてしまうのだろうか。
恐怖に駆られた彼は、自分を繋ぎ止めるための戦いを始めた。壁一面に、家族や友人の写真を貼り付けた。日々の出来事を、詳細なイラスト付きで分厚いノートに記録した。それは古書を修復する彼の緻密な手作業そのものだったが、対象は紙魚に食われた古文書ではなく、彼自身の魂だった。
「これは僕だ。水上聡だ。これは僕の記憶だ」
毎晩、彼は写真と日記を指でなぞりながら、自分に言い聞かせた。しかし、その行為すらも虚しく感じられる夜があった。書斎の椅子がひとりでに半回転し、床に擦れる乾いた音を聞いた翌日、彼は愛犬の名を忘れた。写真の中で尻尾を振る、快活なゴールデンレトリバー。その喉まで出かかっているはずの名前が、どうしても出てこない。代わりに口をついて出たのは、意味のない乾いた喘ぎだった。
失われるのは、単なる情報ではなかった。記憶と共に、それに付随する感情の色彩が剥がれ落ちていく。初めて自転車に乗れた日の、誇らしさと風の匂い。失恋した夜の、胸を抉るような痛みと雨の冷たさ。それらの感覚が鈍磨し、世界は次第にモノクロームの無味乾燥な風景へと変貌していった。
彼は家に引きこもるようになった。外部との接触が、新たな記憶を生み出す。そして、新たな記憶は、影にとっての新たな糧になるのではないか。そんな妄執に取り憑かれたのだ。幸福も、悲しみも、全てが恐怖の対象となった。感情の起伏をなくし、心を凪の状態に保つことだけが、唯一の防御策に思えた。
彼は、まるで自分が修復している脆い古紙のように、丁寧に、慎重に、壊れないように日々をやり過ごした。しかし、壁の染みは、彼の努力をあざ笑うかのように、ゆっくりと、しかし着実に、その闇を広げ続けていた。
第三章 屋根裏の日記
このままでは、自分が消えてなくなる。聡を突き動かしたのは、原始的な生存本能だった。原因を突き止めなければならない。この怪異の正体は、この家そのものにあるのではないか。
彼は埃っぽい屋根裏部屋の扉を開けた。軋む蝶番の音が、まるで悲鳴のように響く。そこは、前の住人が残していったと思しきガラクタの墓場だった。古い家具や、黄ばんだ新聞の束。その中で、聡は一つの木箱を見つけた。南京錠で固く閉ざされていたが、錆びついた金具は、バールのこじ開けに抵抗なく屈した。
箱の中には、一冊の古びた日記帳が収められていた。革張りの表紙はひび割れ、ページの端は茶色く変色している。聡はそれを手に取り、窓から差し込む一筋の光の下で、最初のページを開いた。
そこには、几帳面な、しかしどこか切迫した筆跡で、信じがたい記録が綴られていた。
『壁に、黒い染みが現れた。そして私は、妻の得意料理を忘れた』
聡は息を呑んだ。自分と全く同じだ。ページをめくる指が震える。日記の主は、聡と同じように日々の怪異と記憶の喪失を記録していた。ひとりでに動く家具。夜中に聞こえる囁き声。そして、そのたびに失われていく、かけがえのない思い出。恐怖、混乱、絶望。インクの滲みから、筆者の感情が生々しく伝わってくる。
聡は憑かれたように読み進めた。そして、最後のページにたどり着いた時、彼は戦慄した。そこには、彼の世界を根底から覆す、驚くべき結論が記されていたのだ。
『影の正体が分かった。あれは恐怖を糧にするのではない。あれは、人間の“幸福な記憶”を喰らうのだ。幸福であればあるほど、愛おしければ愛おしいほど、影にとっては極上のご馳走となる。そして、影は濃くなり、さらに大きな幸福を求めてくる。この連鎖から逃れる方法は、ただ一つしかない。自ら、不幸になることだ。幸福を、自らの手で捨てることだ』
全身の血が凍りつくような感覚。だが、本当の恐怖はその直後に訪れた。
日記の筆跡。見慣れた、自分の筆跡だった。
混乱する頭で、聡は日記の冒頭の日付を確認した。十年も前の日付だ。そんなはずはない。自分はこの家に越してきてまだ五年だ。しかし、インクの掠れ具合、文字の癖、行間の取り方。それは紛れもなく、自分自身が書いたものだった。
その瞬間、全てのピースがはまった。彼は以前にも、この家で同じ経験をしていたのだ。影に幸福な記憶を全て喰われ、空っぽになり、何もかも忘れた状態で、再びこの家で新たな生活を始めていた。今、壁に広がっている染みは、現在の自分が失った記憶の残骸であると同時に、過去の自分が喰われた幸福の痕跡でもあったのだ。彼は無限のループの中に囚われていた。幸福な記憶を築き、それを影に喰われ、全てを忘れて、また新たな幸福を築き始める。その繰り返し。
壁の染みが、まるで嘲笑うかのように、じわりと輪郭を揺らした気がした。
第四章 忘却の残響
日記の真実を知った聡の心は、静かな絶望に満たされていた。幸福になることが、自らを破滅に導く。なんという残酷な罠だろう。彼がこれまで大切にしてきた、記録し、保存し、慈しんできた全ての思い出が、自分を苛む怪物への供物でしかなかったのだ。
その夜、影は最後の収穫にやってきた。
聡が最も大切にしている記憶。彼が生涯で最も幸福だった瞬間。数年前に病で先立った妻、由紀との思い出。
影はもう、囁き声や物音といった、まどろっこしい前触れを必要としなかった。寝室の壁の染みから、濃密な闇がゆらりと流れ出し、人の形を成していく。それは明確な輪郭を持たない、ただただ純粋な「喪失」の気配だった。
聡の脳裏に、由紀の笑顔が明滅する。公園でのピクニック、他愛ない会話で笑い合った夜、病床で握りしめてくれた手の温もり。それらの映像が、まるで古いフィルムのようにノイズを帯び、引き伸ばされ、闇の中へと吸い込まれようとしていた。
「やめろ……」
聡は喘いだ。これだけは、奪われてはならない。この記憶が消えれば、水上聡という人間は完全に空っぽになる。そして、また何も知らない赤子のように、新たな人生(という名の地獄のループ)を始めるのだろう。
日記の言葉が脳裏に響く。『自ら、不幸になることだ』
選択肢は二つ。このまま全てを喰われ、忘却の安寧の中に沈むか。あるいは、自らの手で、最も大切なものを破壊し、この連鎖を断ち切るか。
記憶に固執し、過去を慈しんできた彼が、下すべき決断ではなかった。しかし、彼はもう、以前の彼ではなかった。喪失の恐怖は、彼を内側から変えてしまっていた。
聡は、震える足で書斎へ向かった。そして、本棚に飾ってあった一枚の写真立てを手に取った。満開の桜の下で、幸せそうに微笑む由紀と自分。彼にとっての世界そのものだった一枚。
「由紀……」
彼は写真にそっと口づけた。ガラスの冷たさの奥に、あの日の温もりが蘇る。涙が頬を伝った。
「君を、あんな怪物に喰わせるくらいなら……」
聡は暖炉へと歩み寄った。そして、燃え盛る炎の中に、写真立てを、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って投じた。
「この手で、永遠に葬り去る」
パチパチと音を立て、写真が、木枠が、炎に呑まれていく。由紀の笑顔が歪み、黒く焼け焦げ、やがて灰になった。聡は、自らの手で妻を二度殺したのだ。忘れるのではない。破壊するのだ。それは影に喰われる受動的な喪失ではなく、彼の、悲痛で能動的な選択だった。
その瞬間、背後で空気が揺らぐのを感じた。振り返ると、寝室から続いていた黒い染みが、まるで陽光に溶ける雪のように、急速に薄れ、壁の白さの中に消えていくのが見えた。怪物は、最も価値ある餌を自ら破壊されたことで、その存在理由を失ったらしかった。
全てが終わった家で、聡は一人、灰になった暖炉の前で佇んでいた。彼は妻を失い、その記憶さえも自らの手で葬った。心は空っぽのはずだった。しかし、そこには奇妙なほどの静けさと、そして微かな安堵があった。彼は、呪われた輪郭から解き放たれたのだ。
窓から、夜明けの光が差し込む。それは、昨日までの世界とは違う、全く新しい光に見えた。
彼はもう、過去の記録にすがる男ではない。幸福を恐れる男だ。だが同時に、彼は白紙のキャンバスを手に入れた。
「これから私は、何を描けばいい?」
その問いに答える者はいない。彼の前には、ただ静かで、広大で、色のない未来が広がっているだけだった。そして、その余白こそが、彼が勝ち取った、あまりにも痛々しい自由の証だった。