第一章 金糸のほつれと聞こえぬ悲鳴
織部環(おりべたまき)の仕事は、歴史を修復することだった。
彼女が働く「時の管理局」では、歴史は『クロノ・タペストリー』と呼ばれる巨大な織物として観測・管理されていた。過去から未来へと連なる、壮大な錦の織物。英雄たちの功績は金糸で、大国の興亡は銀糸で、そして名もなき人々の無数の生は、素朴だが強靭な麻の糸で織り上げられている。環は、そのタペストリーに生じる僅かな「ほつれ」――すなわち歴史記録の矛盾や時間のパラドックス――を見つけ出し、特殊な針と糸で修復する『修復師』の一人だった。
その日、環が担当していたのは、十六世紀、日本の戦国時代に分類される領域の、些細なほつれだった。とある武将の生没年に関する記録が、二つの文献で僅かに食い違っている。放置すれば、この誤差が他の糸に絡みつき、より大きな歪みを生む可能性がある。
「よし、始めよう」
環は純白の作業着に身を包み、タペストリーが広がる虚空へと意識を集中させた。目の前に、問題の箇所が拡大されて浮かび上がる。燃えるような紅と、野望を示す黒の糸が複雑に絡み合う戦乱の時代。その片隅で、一本のくすんだ金糸が不自然に震えていた。
彼女は『共鳴針』をそっと構える。針先をほつれに近づけると、じわり、と当時の空気が環の五感に流れ込んできた。鉄錆と血の匂い。馬のいななき。遠くで響く鬨(とき)の声。修復作業とは、歴史そのものに触れる行為だ。環は、この厳粛な瞬間の緊張感を好んでいた。
慎重に針を刺し、正しい座標に糸を導こうとした、その時だった。
『―――いやぁぁぁっ!』
それは、音にはならない叫びだった。鼓膜を震わせるのではなく、魂を直接鷲掴みにするような、幼い少女の絶叫。タペストリーのどこにも、そんな悲劇を示唆する模様はない。金糸で刺繍された武将たちの物語にも、その周辺を流れる無数の麻糸にも、そんな声の主は見当たらなかった。それは、記録されていないはずの、存在しないはずの悲鳴だった。
環は思わず手を止めた。背筋を冷たい汗が伝う。ノイズだ、と頭では理解しようとした。巨大すぎるタペストリーには、稀に意味のない情報断片が混じることがある。だが、今のはあまりにも鮮明で、胸を抉るような痛みを伴っていた。
「今の……何?」
呟きは、静寂な管理局のドームに虚しく響いた。金糸のほつれは、まだそこにある。だが環の意識は、もはやその些細な矛盾ではなく、歴史の織物からこぼれ落ちた、名もなき少女の叫び声に完全に囚われてしまっていた。それは、彼女の修復師としての、そして一人の人間としての、世界の捉え方を根底から揺るがす旅の始まりを告げる、不吉なファンファーレだった。
第二章 忘れられた染みの在処
聞こえぬ悲鳴の残響は、環の心から消えなかった。日常業務に戻っても、ふとした瞬間にあの絶叫が蘇り、彼女の集中を乱した。師である老修復師の葛城(かつらぎ)は、「深入りするな。我々の仕事は、織物をあるべき姿に保つこと。描かれていない絵の具を探すことではない」と静かに諭した。だが、環には、あの悲鳴がただのノイズだとは到底思えなかった。あれは確かに、誰かの魂の叫びだった。
環は管理局のアーカイブに忍び込み、あの悲鳴が観測された時空座標――天正十年、初夏――の周辺記録を徹底的に洗い直した。歴史の教科書が『本能寺の変』という金糸銀糸の豪華絢爛な刺繍で彩る、まさにその領域だ。信長の死、光秀の謀反、秀吉の台頭。歴史の大きなうねりを描く糸の流れは完璧で、ほつれ一つない。
「どこにもない……」
諦めかけたその時、環はタペストリーの拡大図の片隅に、奇妙な『染み』を見つけた。それは、どんな色にも染まっていない、ごく小さな空白地帯。通常、どんな辺鄙な土地であっても、そこには人々の営みを示す麻の糸が密に織り込まれているはずなのだ。しかし、その一点だけは、まるでインクをこぼして漂白されたかのように、全ての糸が抜け落ちていた。
座標は、京の都から少し離れた山間の盆地。公式記録には、その場所に集落があったという記述は一切ない。まるで、初めから何も存在しなかったかのように。
「ここだ」
環は確信した。あの悲鳴の主は、この『染み』の中にいる。
彼女は再び、独りでタペストリーの前に立った。今度の目的は修復ではない。調査だ。禁じられている単独での深層介入。見つかれば、修復師の資格を剥奪されてもおかしくない。だが、環の足を動かしたのは、正義感よりもむしろ、知ってしまった者としての責任感だった。あの声を聞いてしまった以上、知らないふりはできなかった。
共鳴針を、染みの中心にそっと差し込む。途端に、前回とは比較にならないほどの情報が濁流となって彼女の意識に流れ込んできた。
むせ返るような緑の匂い。小川のせせらぎ。子供たちのはしゃぎ声。炭を焼く煙の香り。そこには確かに、穏やかな村の暮らしがあった。人々が笑い、泣き、ささやかながらも確かな生を営んでいた。麻の糸で織られるべき、名もなき、しかし尊い日常が。
そして、風景は一変する。
地響き。怒号。燃え盛る炎。見たこともない紋様の鎧をまとった一団が、村を蹂 רובしていた。彼らは何かを探しているようだった。ある一人の人間を。しかし、見つからぬと知るや、口封じのために赤子までをも手にかけていく。
その地獄絵図の真ん中で、環は見た。小さな少女が、燃え落ちる家の前で立ち尽くし、天を仰いで絶叫している姿を。それが、あの悲鳴だった。
「どうして……こんなことが、記録にないの……?」
環は、タペストリーから乱暴に意識を引き剥がした。息が荒く、心臓が痛いほど脈打っている。彼女は、歴史の教科書には載らない、意図的に「消された」虐殺の現場に立ち会ってしまったのだ。この村は、忘れられたのではない。消されたのだ。一体、誰が、何のために。
第三章 タペストリーの重み
「全て、知ってしまったか」
環がアーカイブ室からよろめき出ると、そこには師である葛城が静かに立っていた。その表情は、怒りよりも深い悲しみに満ちていた。
「師匠……あの村は、一体……」
「『楔(くさび)の村』だ。我々、古参の修復師だけがそう呼んでいる」
葛城は重い口を開いた。彼の言葉は、環が信じてきた世界の全てを打ち砕くものだった。
あの村は、ある有力な大名の血を引く隠し子が、密かに匿われていた場所だった。その子供が生きていると、歴史は大きく変わっていた。天下を巡る争いはさらに泥沼化し、その後の数十年で、本来死なずに済んだはずの数万、数十万の命が失われていた可能性があった。
「あの村を襲ったのは、歴史の修正力そのものだ。いや、より正確に言えば、修正力の発動を予測した『先人』たちが、未来のより大きな悲劇を回避するために、非情の決断を下した結果だ」
「先人……?管理局の、ですか?」
「そうだ」葛城は頷いた。「歴史という織物は、あまりに巨大で複雑だ。一つのほつれを直せば、別の場所に歪みが生まれる。時には、小さな悲劇を『固定』することでしか、巨大な崩壊を防げないことがある。あの村は……タペストリー全体を安定させるための、人柱なのだよ」
環は言葉を失った。自分たちが「正しい歴史」と信じて修復してきたタペストリーが、実は無数の「消された犠牲」という血塗られた染みの上に成り立っていたという事実。自分たちの仕事は、正義の行いなどではなかった。ただ、巨大なシステムの維持のために、小さな声を握り潰す作業に加担していただけだった。
「あの少女の悲鳴は、タペストリーが完全に固定され、忘れ去られることへの最後の抵抗だったのかもしれんな。お前は、人一倍感受性が強い。だから、聞こえてしまったのだろう」
環の頭に、少女の顔が浮かんだ。彼女の死は、数十万の命を救うための「必要悪」だったというのか。そんな理屈が、通ってたまるか。では、自分はどうすればいい?この事実をタペストリーに織り込み、村の存在を「正史」として記録すれば、歴史は崩壊の道を辿る。かといって、このまま見過ごせば、彼女たちの存在は永遠に闇に葬られ、自分はその共犯者となる。
「我々の仕事はな、環君」葛城は、環の肩にそっと手を置いた。「歴史を『良く』することではない。ただ、それが崩れ落ちないように『支える』ことだ。そのために、どれほどの痛みを知り、どれほどの真実に目を瞑らねばならないか……。それが、この仕事の本当の重みだ」
環は、目の前に広がるクロノ・タペストリーを見上げた。かつては誇らしく、美しく見えた金糸銀糸の刺繍が、今はまるで、無数の犠牲者の血を吸って輝いているかのように、おぞましく見えた。
第四章 裏地に綴るレクイエム
数日間、環は仕事から離れた。眠ろうとすると、炎と悲鳴が彼女を苛んだ。食べ物の味はせず、世界は色褪せて見えた。正義も、使命も、全てが偽善に思えた。歴史を修復する意味とは何か。大きな悲劇を防ぐためなら、小さな悲劇は許されるのか。その「大小」は、一体誰が決めるというのか。
答えの出ない問いに苛まれ、彼女は憔悴しきっていた。しかし、ある朝、鏡に映った自分の覇気のない顔を見て、ふと気づいた。自分がこうして苦しんでいる間にも、あの少女は、歴史の闇の中で叫び続けている。忘れられることへの恐怖に、震えながら。
「……行かなくちゃ」
環は再び、タペストリーの前に立った。迎え撃った葛城は、何も言わなかった。ただ、環の瞳に宿る光が、以前の無垢な正義感とは違う、覚悟に満ちたものであることを見て取った。
「歴史を、変えるのかね?」
「いいえ」環は静かに首を振った。「変えません。……でも、忘れません」
彼女は共鳴針を手に取った。しかし、それをタペストリーの『表』に刺すことはなかった。彼女が針を向けたのは、誰もが見過ごしてきた、タペストリーの『裏側』だった。
裏地は、無数の糸が絡まり、結び目が露わになった、混沌とした空間だった。表の豪華さとは無縁の、歴史の舞台裏。環は、その裏地の片隅に、そっと針を刺した。
彼女は、楔の村で見た全てを、一本の特別な糸で織り込み始めた。それは、歴史の流れに影響を与えない『追憶の糸』。公式の記録にはならず、誰の目にも触れることはない。しかし、確かにそこに存在し続ける、鎮魂の刺繍だった。
小川のせせらぎを、青い糸で。子供たちの笑い声を、黄色い糸で。燃え盛る炎を、朱の糸で。そして最後に、少女の姿を、彼女が着ていた素朴な麻の着物と同じ色の糸で、丁寧に、丁寧に織り上げていく。
一針、また一針。環の目から、涙が止めどなく溢れた。それは悲しみの涙であり、無力感の涙であり、そして、ささやかな抵抗を成し遂げたことへの、安堵の涙でもあった。
刺繍を終えた時、環の心の中から、あの悲鳴は消えていた。いや、消えたのではない。絶叫が、静かな祈りへと変わったのだ。
環は、修復師として、新たな道を見つけた。歴史の『表』を支えるという冷徹な使命を果たしながら、その『裏』で、忘れ去られた者たちの物語を綴り続ける。誰にも知られず、誰にも賞賛されず、ただ一人、歴史の痛みと共に歩んでいく。
クロノ・タペストリーは、今日も壮麗に輝いている。その輝きが、無数の語られざる犠牲の上に成り立っていることを、今はもう環だけが知っている。彼女の内面的な成長は、世界の完璧さではなく、そのどうしようもない不完全さを受け入れ、それでもなお、そこに意味を見出そうとする、静かで、しかし何よりも強い覚悟を手に入れたことだった。歴史とは、記録された出来事の連なりではない。忘れられた痛みの総体なのだと、彼女の持つ針先だけが、静かに物語っていた。