影と銀貨のレゾナンス
0 3784 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

影と銀貨のレゾナンス

第一章 触れた後悔の色

雨が古びた石畳を濡らし、街灯の光を滲ませていた。僕の店、〈時の忘れもの〉には、埃と古い紙、そして誰かの遠い記憶の匂いが満ちている。僕はカイ。他人に触れると、その人が人生で下した『最も後悔している選択』の瞬間に立ち会ってしまう。それは呪いであり、時折、誰かの救いにもなった。

「父が、父の幻影に喰われたんです」

震える声でそう言ったのは、リナと名乗る女性だった。雨に濡れたコートから、冷たい雫が床の木目に染みを作っていく。彼女の背後には、ぼんやりとした輪郭の男の幻影が立っていた。彼女のオルター・エゴだ。この世界では誰もが、選ばなかった人生の姿である『それ』を連れて生きている。

「詳しく、話してくれますか」

僕はカウンター越しに促した。彼女の父親は、数日前から様子がおかしくなったという。生気のない目で虚空を見つめ、時折、自分のオルター・エゴだったはずの『もう一人の自分』のように振る舞うのだと。そして昨日の朝、父親は完全に消え、その場所に、実体を持った彼のオルター・エゴが立っていた。

「信じられない話なのは、わかっています。でも、あなたは……違うんでしょう?」

リナの瞳が、藁にもすがるように僕を射抜く。噂が彼女をここに導いたらしい。僕は黙って頷き、カウンターから出た。

「少し、失礼」

彼女の冷たい指先に、僕の指がそっと触れる。

瞬間、世界が反転した。

インクを水に垂らしたように、過去の情景が流れ込んでくる。薄暗いアトリエ。イーゼルの前で立ち尽くす若き日のリナの父親。彼の前には一枚の大きなキャンバスと、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた妻の姿。彼は震える手で、パリ行きの航空券を握りしめている。画家としての成功か、家族との穏やかな暮らしか。彼の視界の端で、赤ん坊が小さな手を伸ばす。彼は……航空券を破り捨てた。

同時に、もう一つの人生が奔流のように流れ込む。パリの空の下で成功を収める孤独な画家としての彼の人生。歓声と、それ以上に深い虚無。二つの人生の激しい濁流が、僕の意識を揺さぶる。これが、僕にだけ見える真実。後悔という名の分岐点。

第二章 消えゆく人々の歌

リナから手を離すと、現実の雨音が耳に戻ってきた。僕は息を整え、ポケットの中の古びた銀貨を握りしめる。指先に伝わる冷たい感触が、僕を現在に繋ぎ止めてくれる錨だった。

「お父さんは、画家になる夢を諦めたことを、ずっと悔やんでいた」

「……はい。母と私のために」

「彼のオルター・エゴは、その『選ばれた夢』の象徴。後悔が強すぎた。幻影の輪郭が濃くなりすぎたんだ」

ここ数ヶ月、街では同じような現象が多発していた。人々はそれを『反転』と呼び、恐れていた。自分の半身であったはずの幻影が、ある日突然、現実の肉体を乗っ取る。消えた人間はどこへ行くのか、誰にもわからなかった。

僕はリナと共に、他の『反転』被害者の痕跡を辿った。元音楽家の老人、事業に失敗した若者、恋人と別れた女性。僕は彼らの関係者に触れ、それぞれの後悔の瞬間にダイブした。どのビジョンも痛々しいほど鮮明で、選ばれなかった人生の輝きと、選んだ人生の苦悩が僕の心を抉った。

奇妙なことに気づいたのは、五人目の後悔に触れた時だった。どのビジョンの深層にも、共通する幾何学的な紋様が一瞬、閃光のように過るのだ。それはまるで、世界の設計図に刻まれたバグのようだった。その紋様が瞬くたび、ポケットの銀貨が微かに熱を帯び、片面に刻まれた奇妙な螺旋の紋様が淡く光るのを、僕は感じていた。

第三章 オルター・エゴの囁き

リナの不安は、彼女自身のオルター・エゴにも影響を与え始めた。彼女の背後に立つ幻影は、ピアニストの道を歩んだ『もう一人のリナ』だった。その幻影が、日に日に存在感を増していく。半透明だったドレスの裾が床に影を落とし始め、その指先が、まるで現実の鍵盤を求めるかのように微かに動いていた。

「怖い……」

ある夜、店のソファで膝を抱え、リナは呟いた。「あの子が、私に囁きかけてくるの。『あなたより私のほうが、ずっと素晴らしい人生を送れた』って」

後悔は伝染する。父親を失った哀しみと、未来への恐怖が、彼女自身の『選ばなかった道』への渇望を育てていた。その夜、事件は起きた。

リナがうたた寝から目覚めた時、彼女のオルター・エゴがすぐ目の前に立っていた。その半透明の指が、ゆっくりとリナの額に伸ばされる。現実と幻影が触れ合えば、何が起こるか分からない。

「やめろ!」

僕は咄嗟に二人の間に割って入った。僕の手が、リナと、その幻影に同時に触れてしまう。

世界が、砕け散った。

第四章 銀貨が示す道

光と闇が渦を巻く奔流の中で、僕は個人の後悔ではない、もっと巨大な『何か』の記憶に飲み込まれた。それは、この世界そのものの原風景だった。

果てしない荒野に、一人の男が立っていた。始祖、と直感的に理解した。彼の隣には、彼と瓜二つのオルター・エゴが静かに佇んでいる。始祖の手には、僕が持っているものと全く同じ銀貨があった。彼は何かを深く嘆き、悲しみ、そして決意の表情でコインを高く弾く。

空中で回転する銀貨。

螺旋の紋様か、それとももう片面の樹木の紋様か。

彼の選択は、この世界の運命そのものだった。そして僕は、この瞬間の意味を悟ってしまった。僕らが生きるこの世界は、始祖が『選ばなかった』方の選択が生み出した、巨大な『幻影』なのだと。オルター・エゴが実体化する『反転』現象は、システムのバグなどではない。本来あるべきだった『現実の世界』が、この偽りの世界を侵食し、取り戻そうとする力の現れだったのだ。

ポケットの銀貨が灼熱を帯び、僕の意識をその『選択の瞬間』へと強く引き寄せていく。螺旋の紋様が、血のように赤く輝いていた。

第五章 始祖の選択

僕は時の奔流を超え、荒野に立つ始祖の意識と完全に同期した。彼の絶望が、僕自身のものとして流れ込んでくる。彼は、不治の病で死にゆく愛する者を救うため、世界の法則を捻じ曲げるという禁忌の選択をした。銀貨を弾き、『彼女が死なない可能性』という、本来存在し得ない幻影の道を選び取ったのだ。

その結果、僕らの世界が生まれた。愛する一人のために、本来の世界は可能性の彼方へと追いやられた。だが、その歪みは限界に達していた。

今、僕は再び始祖として、この荒野に立っている。目の前には、究極の選択肢が二つ。

一つは、始祖の選択を覆し、世界を『本来の姿』に戻すこと。そうすれば、歪みは正され、侵食は止まるだろう。だが、それは同時に、この幻影の世界で生きてきた全て――リナも含めた愛しい人々――の存在が消滅することを意味する。

もう一つは、このまま『幻影の世界』を維持すること。それは、いずれ避けられぬ崩壊まで、愛する者たちとの時間を引き延ばすだけの、残酷な延命措置に過ぎない。

どちらを選んでも、待っているのは喪失だけだ。風が荒野を吹き抜け、僕の頬を撫でる。それはまるで、リナの優しい吐息のようだった。

第六章 二つの現実を紡ぐ指

僕は、どちらの道も選ばなかった。

僕の能力の本質は、単なる過去の追体験ではない。『可能性を観測し、その意味を再定義する力』だ。後悔の分岐点に立ち会い、二つの人生を同時に体験できるこの力は、世界を二元論で分かつのではなく、統合するためにあったのだ。

僕は意識の中で、銀貨を弾こうとする始祖のその手に、自分の手を重ねた。

「選ぶな。重ね合わせるんだ」

僕は囁いた。コインは弾かれない。僕はその両面に指を触れ、二つの紋様――螺旋と樹木――に、等しく力を注ぎ込んだ。分離していた二つの世界を、強引に紡ぎ合わせる。本来の世界と幻影の世界。現実と可能性。その境界線を、僕の意志で溶かしていく。

凄まじいエネルギーの奔流が僕の全身を駆け巡り、意識が遠のく。

……気がつくと、僕は店の床に倒れていた。リナが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。彼女の背後に、オルター・エゴの姿はもうなかった。

「カイ……? あなた、大丈夫?」

彼女の声は、以前よりも少しだけ低く、落ち着いているように聞こえた。そして、その指先からは、微かにピアノの練習で硬くなったであろう豆の感触が伝わってくる。

世界は変容していた。街行く人々から、半透明の幻影は消えていた。だが、彼らは何も失ってはいなかった。むしろ、誰もが内に『選ばなかった人生』の記憶と経験を統合し、より深く、豊かな存在へと昇華していたのだ。後悔はもう、苦悩の種ではない。それは人生の厚みとなり、新たな可能性として、すべての人の中に息づいていた。

僕はリナの手を、今度は強く握り返した。もう、悲しい後悔のビジョンは見えない。ただ、彼女が生きてきた人生と、生きるはずだったもう一つの人生の、温かい重みだけが伝わってきた。

窓の外を見上げると、夕暮れの空に、二つの太陽が幻のように淡く重なり、世界を優しい光で照らしていた。僕のポケットで、銀貨はもう光ることはなく、ただ静かな重みでそこにあるだけだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る