百円の十分間

百円の十分間

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第一章 百円の十分間

雨は、世界の音を消し去るための儀式のように、静かに降り続いていた。アスファルトを叩く無数の雫が、灰色一色の風景に吸い込まれていく。システムエンジニアの相田健太は、折り畳み傘の先から落ちる水滴をぼんやりと眺めながら、駅前の公園の入り口で足踏みをしていた。いつもと同じ時間、いつもと同じ道。彼の日常は、正確に組まれたプログラムのように、寸分の狂いもなく繰り返される。無駄と非効率を何よりも嫌う健太にとって、それは安らぎであり、同時に息苦しさの源でもあった。

公園のベンチに、いつもの老人が座っていた。雨に濡れるのも構わず、ただじっと前を見つめている。健太はこの老人を、少なくとも半年前から認識していた。晴れの日も、風の強い日も、そして今日のような雨の日も、老人はほとんど同じ場所に、同じ姿勢で座っている。まるで風景の一部のように。健太はこれまで、彼に何の興味も抱かなかった。自分とは異なる座標軸で生きる、無関係な存在。そう処理して、意識の外に追いやっていた。

だが、その日は違った。健太が老人の横を通り過ぎようとした瞬間、か細いが、芯のある声が彼の足を止めた。

「もし、もし。そこの、若い方」

健太は反射的に振り返った。老人の深く刻まれた皺の奥で、驚くほど澄んだ瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた。その視線に射貫かれ、健太は動けなくなった。

「少し、よろしいかね」

老人はゆっくりと立ち上がると、一歩、健太に近づいた。雨に濡れたコートが、樟脳のような古い匂いを放っている。

「君の時間を、私に売ってはくれんだろうか」

「……時間、ですか?」

健太は眉をひそめた。意味が分からない。新手の詐欺か、あるいは認知症の老人だろうか。面倒事はごめんだ。踵を返そうとする健太に、老人は言葉を続けた。

「一日、ほんの十分でいい。このベンチで、私の隣に座っていてほしい。それだけでいいんじゃ」

「何のためにです?」

健太の声には、苛立ちと警戒が滲んでいた。

「目的など、ないようなものじゃよ。ただ、誰かが隣にいてくれる時間が、少しだけ欲しいんじゃ」

老人はそう言うと、震える手でポケットから古びたがま口を取り出し、中から一枚の百円玉をつまみ出した。

「報酬は、一日百円。これしか払えんが、どうじゃろうか」

雨音の向こうで、百円玉が鈍い銀色の光を放っていた。馬鹿げている。非効率の極みだ。自分の時給に換算すれば、天文学的な損失だ。論理的な思考が警鐘を鳴らす。しかし、老人の瞳の奥にある、懇願するような、それでいて何かを諦めたような寂しい光が、健太の心を奇妙に揺さぶった。プログラムのエラーのように、彼の合理的な判断に小さな亀裂が入る。

「……分かりました。十分だけです」

気づいた時には、そう口にしていた。自分でも信じられない返事だった。老人は深く安堵したように息をつき、皺だらけの顔に柔らかな笑みを浮かべた。「ありがとう」と呟き、百円玉を健太の手に押し付けた。ひんやりとした金属の感触が、非現実的な契約の成立を告げていた。

第二章 色のない時間、色づく世界

奇妙な契約が始まって、一ヶ月が過ぎた。健太は毎日、会社帰りに公園のベンチへ向かい、老人の隣に十分間座るようになった。最初の数日は、苦痛でしかなかった。沈黙が重くのしかかり、スマートフォンの通知音が恋しくなる。老人は何も話さない日もあれば、脈絡のない昔話をぽつりぽつりと語る日もあった。亡くなった妻が好きだった金木犀の話。若い頃、船乗りだったという話。シベリアの凍てつく空の話。健太は、それを相槌も打たずにただ聞いていた。百円と引き換えに、無為な時間をやり過ごす。それは健太にとって、人生最大の無駄遣いのように思えた。

しかし、二週間が経つ頃から、健太の中に微かな変化が生まれ始めた。あれほど退屈だった十分間が、不思議と苦にならなくなっていたのだ。せわしない日常から切り離された、真空地帯のような時間。彼はいつしか、スマートフォンの画面ではなく、公園の木々を眺めるようになっていた。昨日まで固い蕾だった桜が、薄紅色にほころんでいる。鳥のさえずりの種類の多さ。雨上がりの土の匂い。風が頬を撫でる感触。今まで見過ごしてきた世界のディテールが、五感を通して流れ込んでくる。効率というフィルターで遮断していた世界が、ゆっくりと色を取り戻していくようだった。

老人は、自分を「高橋」と名乗った。彼は時折、記憶が混濁しているかのように、同じ話を繰り返した。そして、決まって遠い目をして呟くのだ。

「あいつとの約束を、果たさんとな……」

「約束、ですか?」

健太が初めて問い返した日、老人ははっとしたように我に返り、「いや、なんでもない」と首を振るだけだった。老人は誰かを待っているのかもしれない。そして、その誰かのことを、少しずつ忘れかけているのかもしれない。そんな予感が、健太の胸をよぎった。

ある夕暮れ時、老人は夕焼けに染まる空を見上げながら、健太に言った。

「君は、時間に追われて生きとるな。わしには分かる。だがな、健太くん。人生は、長さだけじゃない。その瞬間に、何を感じるか。それが大事なんじゃ」

老人が初めて自分の名前を呼んだことに、健太は内心驚いた。名乗った覚えはない。だが、それを問い質す気にはなれなかった。ただ、老人の言葉が、錆びついた心の歯車にカチリと嵌まるような感覚があった。百円で買われた十分間は、いつしか健太にとって、自分自身と向き合うための、かけがえのない時間へと変わっていた。

第三章 失われた約束の在り処

その変化は、突然訪れた。いつもの時間に公園へ行っても、ベンチに老人の姿はなかった。ただ冷たい風が、落ち葉をカサカサと運んでいくだけだった。翌日も、その次の日も、老人は現れなかった。

健太の日常から、ぽっかりと穴が空いたようだった。あの無為なはずの十分間が、彼の生活のアンカーになっていたことに、彼は初めて気づいた。言いようのない喪失感と、胸をざわつかせる不安。いてもたってもいられなくなった健太は、老人を探し始めた。

手がかりは、老人が語った断片的な話だけ。「駅裏の小さな診療所によく世話になっとる」という言葉を思い出し、彼は仕事の合間を縫って、それらしき医院の扉を叩いた。

年配の医師は、健太の話を聞くと、困ったように眉を寄せた。

「ああ、佐伯さんのことですね」

「佐伯さん? 高橋さんではなく?」

「ええ。佐伯守(さえき まもる)さん。あの方は、アルツハイマー型認知症を患っておられてね。最近、症状が進んで、ご親族の判断で施設に入られたんですよ」

医師の言葉に、健太は頭を殴られたような衝撃を受けた。高橋という名前も、記憶の混濁が生んだ幻だったのか。だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。

「相田さん、でしたかな。あなたのお名前は」

医師はカルテの束から一枚の古い手紙を取り出し、健太に差し出した。「実は、佐伯さんから預かっているものがありましてね」。それは、健太の祖父の字で書かれた手紙だった。健太が高校生の頃に亡くなった、あの厳格で無口だった祖父からの。

手紙には、こう綴られていた。

『我が唯一の親友、佐伯守へ。この手紙がお前の目に触れる頃、俺はこの世にいないだろう。一つだけ、心残りがある。孫の健太のことだ。あいつは聡明だが、不器用で、心を固く閉ざして生きている。俺がもっと、人生の喜びや、人との繋がりの温かさを教えてやれていればと悔やまれる。もし、叶うのならば、お前の力で、健太がもう一度、世界の豊かさに気づけるよう、手を貸してはくれまいか。無理な頼みとは分かっている。だが、お前にしか託せない』

健太は、息を飲んだ。全身の血が逆流するような感覚。あの老人が、祖父の親友……?

医師が静かに語り始めた。「佐伯さんはね、認知症で多くの記憶を失くしていく中で、この祖父君との約束だけを、まるで最後の砦のように守り続けていたんです。でも、どうやって君に接触すればいいか分からない。記憶は薄れ、時間も残されていない。そんな中で、彼が必死に考え出したのが、『君の時間を買う』という、あの奇妙な方法だったんですよ」

老人が待っていたのは、誰かではなかった。彼が果たそうとしていたのは、遠い昔に交わされた、親友との固い約束だったのだ。そして彼が待っていたのは、健太自身が、その真実に「気づく」瞬間だった。

「君は時間に追われている」。あの言葉が、健太の胸に突き刺さる。老人は、ただ隣に座ることで、祖父が伝えたかったことを、その全身で健太に教えようとしてくれていたのだ。

第四章 君に返す物語

健太は、教えられた施設を訪ねた。陽だまりのラウンジで、老人は車椅子に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔は、健太が知っている「高橋さん」よりも、ずっと小さく、儚げに見えた。もう、自分のことは分からないかもしれない。それでも、健太はゆっくりと彼の隣に歩み寄り、静かに腰を下ろした。いつもの公園のベンチのように。

沈黙が流れる。だが、それはもう苦痛な沈黙ではなかった。穏やかで、満たされた時間。

やがて健太は、自ら口を開いた。

「佐伯さん、今日はいい天気ですね。空が、とても青いです」

老人は、何の反応も示さない。健太は続けた。今度は、彼が物語を紡ぐ番だった。

「あなたの隣に座るようになって、気づいたことがたくさんあります。風の匂いや、木々のざわめき。今まで気にも留めなかったものが、こんなにも美しいなんて、知りませんでした」

健太は、自分が変わったこと、世界が違って見え始めたことを、訥々と語った。それは、佐伯老人が教えてくれたことへの、健太からの返事だった。

語り終えた健太が隣を見ると、老人がゆっくりとこちらを向いていた。その目は虚ろだったが、唇の端が、ほんのわずかに持ち上がったように見えた。気のせいかもしれない。だが健太には、それが確かな微笑みに見えた。その皺の深い顔に、一瞬だけ、笑うと目尻が下がる祖父の面影が重なった。

「ありがとう、佐伯さん。……ありがとう、じいちゃん」

健太の頬を、一筋の涙が伝った。

施設からの帰り道、健太はポケットに手を入れた。中には、あの日から溜まった何枚もの百円玉が入っていた。じゃらり、という重みが、指先に伝わる。無駄だと思っていた時間。だが、それは何にも代えがたい、健太の人生を根底から変えた、最も価値のある時間だった。この硬貨一枚一枚が、失われた約束と、受け継がれた想いの証だった。

翌日、会社に出勤した健太は、自分のデスクに着くと、隣の席で黙々と作業をしている同僚に声をかけた。

「鈴木さん。もし今日の昼、予定がなかったら、一緒にランチでもどうですか」

驚いて顔を上げた同僚に、健太は少し照れくさそうに微笑んだ。それは、彼にとって小さな、しかし決定的な一歩だった。プログラムされた日常からの、初めての逸脱。

窓の外では、新しい一日が始まっていた。健太の世界は、もう灰色ではなかった。ポケットの中の百円玉の確かな重みを感じながら、彼はこれから紡がれていくであろう、色鮮やかな物語の始まりを、静かに予感していた。

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