第一章 藍色の雨
アスファルトを叩く雨音が、鼓膜にへばりついて離れない。
古びた喫茶店の窓際。
向かいの席に座る男が吐き出す煙草の煙が、不自然なほど重たく揺蕩っている。
それは紫色に近い、どろりとした『藍色』だった。
男が口を開くたび、その藍色は濃さを増し、僕の網膜をチリチリと焼く。
「……あの時、あいつの手を離さなければ」
男の声は掠れていた。
煙は彼の輪郭を曖昧にし、後悔という名の毒素となって空間を侵食していく。
僕は無意識に息を止めた。
吸い込めば、肺の内側が腐り落ちそうな錯覚に陥る。
他人の後悔を『色』として視る。
それが僕、アサギの呪いだ。
視神経を突き刺す藍色は、男が抱える「失った恋」の残滓。
過去への執着が結晶化した、冷たく湿った色。
「君に話すと、不思議と胸のつかえが取れるよ」
男が席を立つ頃には、彼の背中に纏わりついていた藍色は薄らいでいた。
代わりに、僕の胃の腑に鉛のような重みが溜まる。
男が去った後のテーブルには、飲み残しのコーヒーと、吸殻。
そして、僕の疲労だけが残された。
アパートへ戻る道すがら、コンビニに寄る気力もなかった。
部屋の冷蔵庫を開ける。
冷気が顔を撫でるだけで、中身は空っぽだ。
奥の方で、賞味期限の切れたドレッシングが一本、寂しげに転がっている。
僕の人生そのものだった。
壁に掛けたカレンダーは、三ヶ月前から捲られていない。
来週の予定どころか、明日の食事すら想像できない日々。
ポケットから、四つ折りにした紙切れを取り出す。
『未来図』。
子供の頃、クレヨンで塗りたくった夢の地図。
かつては極彩色だったその紙面は今、カビが生えたような灰色にくすんでいる。
ざらついた紙の感触が、指紋を削るように痛い。
他人の色を視るたびに、僕自身の未来は色を失い、塗りつぶされていく。
――ブブッ。
静寂を裂いて、スマホが震えた。
画面の光が、暗い部屋に残像を残す。
表示された名前に、僕は目を疑った。
『エマ』。
この街で「無後悔の預言者」と崇められる女。
聖女のような微笑みで人々の迷いを断つという彼女から、なぜ僕に。
画面をタップする指先が、微かに震えていた。
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第二章 預言者の嘘
指定された場所は、街外れの植物園だった。
ガラスドームの中は、ムッとするほどの湿気と、百合の濃厚な香りで満ちている。
視界が白く霞むほどの湿潤な空気。
その中心に、彼女は佇んでいた。
「お待ちしていました、アサギさん」
エマが振り返る。
長い銀髪が、天蓋から降り注ぐ陽光を浴びてプリズムのように輝いた。
陶磁器のような肌。硝子細工の瞳。
人間というよりは、精巧に作られたビスクドールのようだ。
彼女の周囲だけ、空気が澄んでいる。
塵ひとつない、あまりに完璧な静寂。
「単刀直入に聞く。何の用だ」
僕は警戒して距離を取った。
彼女の美しさは、どこか生理的な嫌悪感を呼び起こす。
作り物めいた完璧さが、肌を粟立たせるのだ。
「私を、視ていただきたいのです」
エマは一歩、踏み出した。
百合の香りが強くなる。甘すぎて、腐臭に近い。
「最近、胸の奥が焦げ付くように熱いのです。夜も眠れないほどに。でも、私には理由が分からない」
「『無後悔』の聖女が、悩み事か?」
「ええ。皮肉なものです」
彼女は困ったように眉を下げた。その仕草すら、計算された演劇の一幕に見える。
僕は諦めて、視覚の焦点を切り替えた。
どうせ、聖女の名に相応しい、眩いばかりの金色や白が見えるだけだろう。
瞼を瞬かせ、彼女の魂の色を捉えようとした。
その瞬間。
「……ぐっ!?」
僕は喉を抑え、その場に膝をついた。
熱い。
眼球を直接ライターで炙られたような激痛。
「アサギさん?」
エマの声が遠く聞こえる。
見えないのか。彼女には、この地獄が。
エマの背後から噴き出していたのは、清らかな光などではない。
ドス黒く、煮えたぎり、凝固した血液のような『深紅』。
それは、これまで見てきたどんな後悔よりも濃く、重く、そして暴力的だった。
天井のガラスを突き破るほどの勢いで立ち昇る炎は、断末魔の悲鳴のように揺らめいている。
嘔吐感がこみ上げる。
鉄の味。血の匂い。
「……化け物め」
僕は床を這いずるようにして後ずさった。
「あんた、何をした? 誰を殺せば、これほどの色が出る?」
視界の全てが赤く染まる。
その赤は、ただの後悔ではない。
何か、僕自身の根源的な恐怖を鷲掴みにするような、おぞましい色だった。
「深紅、ですか」
エマは表情一つ変えず、静かに呟いた。
彼女の背後で渦巻く炎が、鎌首をもたげる蛇のように僕を見下ろしている。
「それが、私の色なのですね」
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第三章 時間のパラドックス
「なぜ、そんなに平然としていられる」
僕は脂汗を拭いながら叫んだ。
視界の端がチカチカと点滅している。
「心当たりがないわけじゃないだろう。その色は、あんた自身を焼き尽くしているはずだ」
エマはゆっくりと首を横に振った。
そして、ガラスケースのような瞳で僕を射抜く。
「アサギさん。よくご覧なさい。この炎の中に、何が見えますか?」
言われるがまま、僕は目を凝らす。
燃え盛る深紅の奥底。
炎の舌が舐め回しているのは、不定形な影だ。
いや、違う。
あれは、キャンバスだ。
へし折られた絵筆。引き裂かれたスケッチブック。
乾ききった絵の具のチューブが、熱で溶けていく。
「あれは……」
記憶の蓋が、無理やりこじ開けられる。
あれは、僕が捨てたものだ。
画家になるという夢。
才能がないと決めつけ、ゴミ箱に放り込んだ情熱の残骸。
ぞくり、と背筋が凍った。
僕は恐る恐る、エマの瞳を覗き込んだ。
至近距離。
彼女の瞳孔の奥、鏡のように澄んだその場所に、僕の姿が映っているはずだった。
だが、そこに映っていたのは。
「……ひっ」
喉から引きつった音が漏れた。
銀髪の美女の瞳に映っていたのは、僕ではない。
酸素吸入器をつけ、病院のベッドで孤独に天井を見つめる、骨と皮だけになった老人だった。
その目は虚ろで、絶望に濁りきっている。
「理解したようですね」
エマの声色が、ふと低く、しわがれたものに変わった。
「私はエマであって、エマではありません」
彼女の輪郭が陽炎のように揺らぐ。
その顔に、あの老人の面影が二重写しになる。
「私は、あなたが幼い頃に空想した『理想の理解者(イマジナリーフレンド)』。……そして、その器を乗っ取った、あなたの『成れの果て』です」
思考が追いつかない。
未来の僕?
この深紅の炎は、未来の僕が抱く、死の間際の後悔だというのか。
「この赤は、『何もしなかったこと』へのたうつ、魂の絶叫です」
エマ――いや、未来の残響――は、悲しげに自身の胸を掻きむしった。
「アサギ。あなたは今、自分には未来がないと嘆き、ただ漫然と生きている。その先に待つのは、この業火だけ」
彼女の指先が、僕の頬に触れた。
氷のように冷たい。けれど、その奥に焼けつくような渇望を感じる。
「私は、あなたに警告するために具現化した、未来からの呪い。……この深紅を、変えて」
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第四章 塗り変わる地図
「変える……?」
「今のままでは、あなたは私になる。この炎に焼かれながら、独りで死んでいく」
エマの姿が、徐々に赤色に溶け始めていた。
彼女の存在そのものが、あの老人の後悔によって維持されていたのだとしたら。
僕がそれを認識した今、彼女は形を保てない。
「嫌だ……」
僕は唇を噛んだ。
あんな風に、何も残さず、ただ悔やんで死ぬなんて。
ポケットの中で、クシャクシャになった紙切れが熱を帯びている気がした。
震える手で『色褪せた未来図』を取り出す。
灰色の、カビ臭い紙。
そこには何も描かれていない。僕が描くのを止めたからだ。
「描かなきゃ、いけない」
誰かに与えられるものではない。
勝手に光り輝く魔法の紙でもない。
僕は衝動的に、自分の右手の人差し指を強く噛んだ。
皮膚が裂け、鋭い痛みが走る。
鉄錆の味が口いっぱいに広がった。
「アサギ……?」
エマが目を見開く。
僕は血の滲む指先を、灰色の地図に叩きつけた。
「僕は、ここにいる!」
叫びと共に、指を走らせる。
白い紙面に、鮮烈な赤が刻まれる。
それは後悔の深紅ではない。
脈打つ鼓動の色。
生きようとする、生々しい生命の色だ。
ボタボタと血が落ちる。
その赤が、灰色のカビを侵食していく。
痛みなどどうでもよかった。
ただ、この空白を埋めなければ気が済まなかった。
「あぁ……」
エマの身体が、光の粒子となって崩れ始めた。
彼女を包んでいたドス黒い炎が、僕の血の色に呼応するように、澄んだ茜色へと変わっていく。
「やっと、描いてくれた」
彼女は満足そうに微笑み、その瞳から一筋の涙を流した。
その涙が地面に落ちた瞬間、温室全体が眩い光に包まれる。
「さようなら、私」
光が収束し、静寂が戻る。
エマの姿はもう、どこにもなかった。
あの不快な百合の匂いも、湿気も消え失せている。
手の中には、血で汚れた地図。
不格好で、乱暴な赤い線が一本、引かれているだけだ。
けれど、それは確かに『道』だった。
僕は温室の扉を蹴り開けた。
外には、雨上がりの空が広がっている。
濡れたアスファルトが、夕陽を反射して鏡のように輝いていた。
空気は冷たく、澄んでいる。
肺いっぱいに吸い込むと、生きている実感が胸の奥で熱く燻った。
指先の痛みは、まだ消えない。
その痛みが、僕を前へと急かしている。
「始めようか」
僕は血のついた地図を強く握りしめ、泥濘んだ地面を蹴った。
靴が汚れることなど、もう気にならなかった。