第一章 雨上がりの金木犀
柏木湊の世界は、香りでできていた。それは比喩ではない。彼が調香師だからというだけではなく、文字通り、他人の記憶が放つ「香り」を感じ取ることができたからだ。
きっかけは三年前の事故。最愛の妻、美咲を亡くしたあの日から、湊の世界は一変した。悲しみのどん底で感覚が歪んだのか、人とすれ違うたび、その人間の強い感情が込められた記憶が、鼻腔を突く香りとなって流れ込んでくるようになったのだ。怒りは焦げたゴムのように、喜びは弾ける柑橘のように。それは呪いにも似た能力で、他人の生々しい感情に晒され続けた湊は、都心の喧騒を離れ、海沿いの寂れた街にアトリエを構え、心を閉ざして生きていた。
その日、アトリエの古いドアベルが、からん、と乾いた音を立てた。訪れたのは、セーラー服姿の少女だった。切りそろえられた黒髪に、大きな瞳。まだあどけなさを残しながらも、その瞳の奥には、歳の割に不釣り合いなほどの強い意志が宿っていた。
「あの、香水を作っていただけませんか」
少女は星野沙良と名乗った。その声は、張り詰めた弦のように震えている。
「どんな香りを?」
事務的に応じる湊に、沙良は一枚の写真を差し出した。色褪せたポラロイド写真には、柔らかな笑顔の女性が写っている。
「亡くなった、母の香りです」
その言葉を聞いた瞬間、湊は小さく息をのんだ。死別の記憶は、いつだって重く、澱んだ香りを伴う。鉛のような、あるいは湿った土のような。だが、目の前の少女から漂ってきた香りは、まったく異質だった。
ふわり、と鼻先をかすめたのは、甘くも切ない、不思議な香り。それは、まるで雨上がりの湿った土の匂いと、満開の金木犀の香りが、繊細なバランスで溶け合ったような、一度嗅いだら忘れられない香りだった。悲しみの香りではない。かといって、喜びとも違う。それは郷愁に似ていたが、もっと複雑で、もっと純粋な何かを含んでいた。
湊はこれまで、数えきれないほどの記憶の香りを嗅いできた。しかし、こんな香りは初めてだった。
「……申し訳ないが、個人の依頼は受けていない」
厄介事に関わりたくなかった。他人の深い記憶に触れることは、自分の傷を抉ることと同義だったからだ。しかし、沙良は食い下がった。
「お願いします。どうしても、この香りを形にして残したいんです。母を、忘れたくないから」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、湊は言葉に詰まる。そして、再び漂ってきた、あの雨上がりの金木犀の香りに、抗いがたい好奇心を掻き立てられている自分に気づいた。この香りの正体は何だ? なぜ、これほどまでに心を揺さぶるのだろうか。
湊は長く、重い沈黙の後、ため息とともに呟いた。
「……わかった。ただし、できる限りだ」
その返事を聞いた沙良の表情が、わずかに和らぐ。湊は、自分がまた一つ、開けてはならない扉に手をかけてしまったことを予感していた。
第二章 記憶の調香
沙良との奇妙な共同作業が始まった。湊はまず、彼女の母親がどんな人物だったのかを尋ねた。沙良は、ぽつりぽつりと、しかしどこか歯切れ悪く母親の思い出を語った。
「優しくて、いつも笑っていました。お花が好きで、特に金木犀が……」
「金木犀か」
湊の手が、一瞬止まる。金木犀は、亡き妻の美咲が最も愛した花だった。アトリエの庭にも、美咲が植えた金木犀の木が一本、静かに佇んでいる。
湊は、沙良から感じる「雨上がりの土と金木犀の香り」を頼りに、調香を始めた。まず、ベースとなる金木犀のアブソリュート。そこに、雨上がりの土の匂いを再現するために、パチュリやベチバーといった土を思わせる香料を加えていく。だが、何度試作を重ねても、あの独特の「甘くも切ない」ニュアンスが再現できない。何かが決定的に欠けていた。
「これ、どうかな」
試作品の染みたムエットを差し出すと、沙良はそれをそっと鼻に寄せ、静かに首を横に振る。
「……近いです。でも、違います」
そのやり取りは、まるで答えのないパズルを解いているかのようだった。湊は次第に苛立ちを募らせていく。この少女は、本当に母親の香りを覚えているのだろうか。そもそも、人の記憶にある香りを、寸分たがわず再現することなど不可能なのだ。
週に一度、沙良はアトリエを訪れた。二人の間に会話は少なかったが、湊は彼女が帰った後、部屋に残る不思議な残香を分析することに没頭した。その香りは、湊自身の記憶をも呼び覚ます。雨の日に、美咲と二人で金木犀の並木道を歩いた日のこと。彼女が「この香りを閉じ込めて、ずっと持っていられたらいいのに」と無邪気に笑ったこと。蘇る記憶は、甘美であると同時に、鋭い刃となって胸を刺した。
「なぜ、そこまでして母親の香りを?」
ある日、湊は耐えきれずに尋ねた。
沙良はしばらく黙り込んだ後、小さな声で答えた。
「母との約束、だから……」
その瞳には、湊の知らない深い物語が隠されているように見えた。しかし、彼女はそれ以上を語ろうとはしない。湊は、自分がただの調香師ではなく、他人の記憶の深淵を覗き込む探偵にでもなったような気分だった。そして、この謎めいた香りの正体を突き止めたいという欲求は、日増しに強くなっていった。
第三章 届かなかった手紙
季節は巡り、アトリエの庭の金木犀が、ほのかな香りを漂わせ始めた頃だった。湊は、これまでにないほど完成に近いと感じる香りを創り上げていた。最高品質の金木犀に、微量のゲオスミン(土の匂いの成分)を加え、さらに透明感のあるアンバーと、切なさを表現するためのアイリスを重ねた。
「沙良さん、これが今の僕にできる、すべてだ」
自信と、これで終わらせたいという疲労がない交ぜになった声で、湊は新しい試作品を差し出した。沙良はいつものように、静かにムエットを受け取り、ゆっくりと香りを吸い込む。湊は固唾をのんで彼女の反応を待った。
しかし、沙良の顔に浮かんだのは、喜びではなかった。彼女の大きな瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……違う。これも、違うんです」
嗚咽が漏れる。それは、湊が初めて見る彼女の感情の爆発だった。
「どうして……どうしてわからないんですか!」
「わかるはずがない! 君は母親の思い出をろくに語ろうともしないじゃないか!」
湊もまた、抑えていた感情をぶつけてしまう。アトリエに、気まずい沈黙が落ちた。
しばらくして、しゃくりあげながら、沙良が真実を語り始めた。その告白は、湊の世界を根底から覆す、あまりにも衝撃的なものだった。
「私のお母さんは……まだ、生きています」
「……何?」
「病院に、入院しています。ずっと、長い間」
湊は混乱した。では、亡くなった母親というのは、一体誰のことだ。
「私が再現してほしかったのは、私のお母さんの香りじゃありません」
沙良は顔を上げ、湊の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「柏木さんの、奥さんの香りです」
脳を殴られたような衝撃。湊は言葉を失った。
沙良は続けた。彼女の母親は、湊の妻、美咲と同じ病院に入院していたのだという。美咲が入院していた最後の数ヶ月、二人は病室で言葉を交わす友人だった。
「私のお母さんは、美咲さんのことが大好きでした。毎日お見舞いに来るあなたの話を、いつも嬉しそうに聞いていたそうです。『夫は調香師なの。彼が作ってくれる金木犀の香水が、世界で一番素敵なのよ』って」
美咲が亡くなった後、沙良の母親は、深い悲しみの中にいる湊のことをずっと気にかけていた。そして、日に日に弱っていく自分に残された時間がないことを悟った時、娘の沙良に一つの願いを託した。
「『あの素敵な香りを、もう一度。柏木さんに、思い出させてあげて。そして、あなたもあの香りを覚えていて。それは、人を想うことの素晴らしさが詰まった香りだから』って……」
湊が沙良から感じ取っていた、あの「雨上がりの土と金木犀の香り」。それは、沙良自身の記憶ではなかった。病室のベッドの上で、母親から何度も聞かされた、会ったこともない美咲という女性と、その夫である湊の物語。その物語への憧れと、母親の切なる願い、そして湊を励ましたいという沙良自身の純粋な想い。それらが混じり合って生まれた、記憶の結晶の香りだったのだ。
届かなかった手紙。美咲が遺した愛の記憶は、時を経て、姿を変え、見知らぬ少女を通して、今、湊の元へと届けられたのだった。
第四章 夜明けのフレグランス
アトリエに差し込む西日が、無数の香料瓶を琥珀色に照らしていた。湊は、ただ呆然と立ち尽くしていた。自分が呪いだと思っていた能力が、こんなにも温かい繋がりを運んできてくれたことに、心が震えていた。閉ざしていた世界の扉が、内側から静かに開いていく音がした。
「……そうか。だから、わからなかったのか」
湊は、絞り出すように言った。それは誰のせいでもない。再現しようとしていた香りは、そもそもこの世に存在しない、想いだけで編まれた香りだったのだから。
「ごめんなさい……嘘をついて」
沙良が小さな声で謝る。湊はゆっくりと彼女の前に膝をつき、その肩にそっと手を置いた。
「いや、礼を言うのは僕の方だ。ありがとう、沙良さん。届けてくれて」
その夜、湊は眠らずに調香に取り組んだ。もう迷いはなかった。作るべき香りは、たった一つ。彼と美咲、二人だけの記憶の中に存在する、完璧な金木犀の香りだ。秋の澄んだ空気、柔らかな陽光、そして「おかえりなさい」と微笑む美咲の笑顔。すべての記憶を、一滴の液体に封じ込めるように。
夜が明け、朝の光がアトリエを満たす頃、香りは完成した。それは、ただ甘いだけではない。美咲の強さと、儚さと、そして湊への深い愛情が感じられる、優しくて、凛とした香りだった。
数日後、湊は二つの小さな香水瓶を用意して、沙良を待った。
「これを、お母さんに」
一つ目の瓶を渡すと、沙良は大切そうに両手で受け取った。
「そして、これは君に」
もう一つの瓶を差し出す。それは、金木犀の香りではない。夜明けの空気を思わせる、ベルガモットとネロリを基調とした、瑞々しく、希望に満ちた新しい香りだった。
「君の香りだ。誰かの思い出の香りじゃない。これから君が紡いでいく、未来のための香りだよ」
沙良の瞳が、再び潤む。だが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
沙良が帰った後、湊はアトリエの窓を大きく開け放った。潮の香り、街のざわめき、遠くのパン屋から漂う甘い匂い。以前は煩わしいだけだった、人々の記憶が放つ無数の「香り」が、今は愛おしいものに感じられた。それは、世界が彼との繋がりを取り戻した証だった。
庭の金木犀が、風に揺れて、また一つ、甘い香りを運んでくる。それは、美咲が「おかえり」と言ってくれているようだった。湊は目を閉じ、その香りを胸いっぱいに吸い込む。彼の世界は、再び豊かな香りで満たされていた。それは、喪失の先に見つけた、新しい始まりの香りだった。