残香のコンフェッション

残香のコンフェッション

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第一章 苦艾(にがよもぎ)の残り香

柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、香りで構築されていた。彼は調香師であり、その鼻は常人には感知できない領域の匂いまで嗅ぎ分ける。それは天賦の才であると同時に、彼を孤独にする呪いでもあった。なぜなら湊は、他人が心の奥底に隠す「後悔」を、特有の香りとして嗅ぎ取ってしまうからだ。

嘘をついた後の、焦げた砂糖のような甘ったるい香り。誰かを裏切った日の、湿った地下室のような黴臭い香り。人々が笑顔の仮面の下に沈殿させている澱(おり)を、湊は嫌でも感じ取ってしまう。だから彼は、都会の喧騒を離れ、海沿いの小さな街でアトリエ兼自宅を構え、香水やアロマオイルを創作しながら、人との関わりを最小限にして生きてきた。

そんな彼の世界で、唯一、澄み切った湧き水のような香りを放つ存在がいた。恋人の橘沙耶(たちばな さや)だ。花屋で働く彼女は、太陽のような笑顔と、雨上がりの若草のような快活さを持っていた。彼女の周りだけは、世界が本来の美しい色彩を取り戻す気がした。彼女から漂うのは、清々しい幸福の香りだけ。湊にとって、沙耶は救いであり、唯一の安息地だった。

その夜までは。

「ただいま、湊」

玄関のドアが開き、沙耶が疲れた顔で笑った。手に提げたスーパーの袋が、カサリと音を立てる。

「おかえり、沙耶。遅かったね」

いつものように彼女を迎えようとした湊は、その場で凍りついた。鼻腔を刺す、未知の香り。それは、これまで嗅いだどの後悔の香りとも違っていた。

鋭く、冷たく、そして絶望的に深い。

まるで、凍てついた鉄の味と、踏み潰された苦艾(にがよもぎ)の苦々しさを混ぜ合わせたような、魂を削る香り。湊は直感的に理解した。これは、取り返しのつかないことをした人間の香りだ。人の命を――奪った者の後悔の香りだ。

「どうしたの? 湊、顔色が悪いわよ」

心配そうに覗き込んでくる沙耶の瞳は、いつもと同じように澄んでいる。しかし、彼女の身体から立ち上る香りは、湊の全身の神経を逆撫でした。ありえない。この、世界で最も清浄なはずの場所から、なぜ、これほどまでにおぞましい香りがするのか。

「……いや、なんでもない。疲れてるんだろう」

湊は平静を装いながら、ゆっくりと後ずさった。彼の安息地は、今、最も恐ろしい謎に侵食され始めていた。

第二章 不信のシプレ

翌朝、湊が目覚めても、沙耶から漂う香りは消えていなかった。むしろ、彼女が眠っている間も、その香りは静かに、しかし執拗に部屋の空気を蝕んでいるようだった。テレビのローカルニュースが、街の郊外で一人の男性が失踪したと報じていた。昨夜、沙耶が帰宅する直前の時間帯だ。偶然か。湊は打ち消そうとする思考と、警鐘を鳴らす本能との間で引き裂かれそうになっていた。

「ねえ、沙耶。昨日の夜、残業が終わってから、どこかへ寄ったりした?」

朝食のテーブルで、湊は努めてさりげなく尋ねた。

「え? ううん、まっすぐ帰ってきたわよ。駅前のスーパーに寄っただけ。それがどうかしたの?」

沙耶はきょとんと首を傾げる。その仕草にも、声色にも、嘘の兆候である焦げた砂糖の香りは微塵も感じられない。だが、あの苦艾の香りは確かに存在するのだ。

湊の苦悩の日々が始まった。彼は自分の能力を呪った。この鼻がなければ、何も知らずに沙耶を愛し続けられたのに。彼は沙耶を信じたい。しかし、彼の五感すべてが、彼女が何かを隠していると叫んでいた。

湊は、まるで探偵のように沙耶の行動を追い始めた。彼女のスマートフォンの通話履歴を盗み見し、仕事帰りにこっそりと後をつけた。だが、そこに不審な点は何も見つからなかった。彼女は花屋で真面目に働き、同僚と笑い合い、まっすぐに家に帰ってくる。完璧な日常。その完璧さが、逆に湊の疑念を増幅させた。

「最近、どうしたの? なんだか、私を監視しているみたい」

ある晩、沙耶が涙ながらに訴えた。二人の間の空気は、かつてないほどに張り詰めていた。信頼という名の香りが消え、不信のシプレノートが重く立ち込めている。

「君が何か隠してるんじゃないかと思ったんだ」

「隠してる? 私が何を? 信じてくれないの?」

沙耶の悲痛な声が、湊の胸に突き刺さる。信じたい。心の底からそう願っている。だが、彼女から漂う香りがそれを許さない。

「ごめん……」

湊はそれしか言えなかった。説明のしようがないのだ。自分の異常な能力のことも、彼女から漂う死の香りのことも。二人の間には、決して埋めることのできない深い溝が生まれつつあった。そしてその間にも、街では二人目の失踪者が出ていた。

第三章 忘却のアルデヒド

湊は、もはや自分の感覚だけを頼りにすることはできなかった。彼は、二人の失踪者について徹底的に調べ始めた。図書館の過去の新聞記事、インターネットの古い掲示板。地道な調査の末、湊は奇妙な共通点を発見する。失踪した二人は、十数年前、同じ高校に通っており、当時、一人の女子生徒をいじめのターゲットにしていたという匿名の書き込みを見つけたのだ。

その女子生徒の名前は、橘 莉子(たちばな りこ)。

湊は背筋が凍るのを感じた。橘。沙耶と同じ姓だ。まさか。震える手でさらに検索を続けると、残酷な事実が浮かび上がってきた。莉子は高校卒業後、心を病み、海に身を投げて自ら命を絶っていた。そして、彼女には双子の妹がいた。――橘 沙耶という名の。

湊はアトリエに戻り、呆然と壁を見つめた。沙耶は、双子の姉がいたことを一度も話してくれなかった。なぜだ?

その時、湊の脳裏に、ある仮説が稲妻のように閃いた。もし、自分が嗅ぎ取っていた香りが、沙耶自身の後悔ではなかったとしたら?

彼は書斎の奥から、古い香料の専門書を取り出した。そこには、香りと記憶、そして魂に関する、ほとんどオカルトに近い記述があった。「アルデヒド C-12 ローリック」――強い衝撃やトラウマによって失われた記憶を呼び覚ます効果があるとされる、合成香料。湊は、危険な賭けに出ることを決意した。

その夜、湊はラベンダーのアロマオイルだと偽り、微量のアルデヒドを混ぜた香りを部屋に焚いた。

「なんだか、懐かしいような……不思議な香りね」

沙耶は目を細め、深く息を吸い込んだ。しばらくの沈黙の後、彼女の身体が小刻みに震え始めた。

「……寒い。どうして……海は、こんなに冷たいの……?」

沙耶が呟いた。しかし、その声は沙耶のものではなかった。低く、掠れた、怨嗟に満ちた声。

「許さない……あいつらを……私を忘れて、幸せに生きているあいつらを……」

沙耶の顔から表情が消え、虚ろな瞳が湊を見据える。その瞬間、湊はすべてを悟った。

沙耶から漂っていた「後悔の香り」は、彼女のものではなかった。それは、沙耶の身体の奥深くに眠っていた、亡き姉・莉子の無念と怨念が、復讐の対象者たちに近づくたびに共鳴し、香りとして発せられていたのだ。沙耶自身は、姉の死のトラウマから記憶に蓋をし、無意識のうちに姉の復讐の器となっていた。彼女は何も知らず、何も覚えていない。本当の犯人は、沙耶の中に潜む、姉の「記憶」そのものだった。

「莉子さん……」

湊が呼びかけると、沙耶の――いや、莉子の口元が、歪んだ笑みの形に吊り上がった。苦艾の香りが、部屋中に満ちていく。湊の築き上げた世界が、根底から崩れ去る音がした。

第四章 追憶のアンバー

「君は、沙耶じゃない」

湊は震える声で言った。目の前にいるのは愛する恋人の姿をしているが、その内側には、十数年の時を超えた悲しみと憎しみが渦巻いている。

「沙耶? ああ、この子のこと? 私のかわいそうな妹。あの子は、私が死んだショックで、私の記憶を全部心の奥に仕舞い込んじゃったの。でもね、あの子の身体は覚えていた。私を追い詰めた奴らの顔も、声も。だから、私が少しだけ手伝ってあげてるのよ」

莉子の声は、静かだが確信に満ちていた。沙耶の無意識を操り、復讐を遂げていたのだ。失踪した男たちは、おそらく、もうこの世にはいない。

湊は絶望的な状況の中で、必死に思考を巡らせた。警察に話しても信じられるはずがない。沙耶は罰せられるのか? いや、彼女は何もしていない。だが、このままでは、また新たな犠牲者が出るだろう。

彼は、調香師として、魂の調律師として、最後の対話に臨むことを決めた。

「莉子さん。あなたの悲しみはわかる。でも、これは復讐じゃない。ただの連鎖だ。憎しみは、あなた自身をもっと深く傷つけるだけだ」

「あなたに何がわかる!」

「わかるさ。俺はずっと、あなたの香りを嗅いでいたから」

湊は、ゆっくりとアトリエの棚に近づき、一つの小瓶を手に取った。それは、彼が特別に調合した香料だった。甘く、暖かく、そしてどこか切ない、アンバーグリス(龍涎香)をベースにした香り。追憶と癒やしの香りだ。

「これは、後悔の香りじゃない。悲しみの香りだ。あなたが本当に感じているのは、憎しみじゃない。ただ、どうしようもなく悲しいんだろう? 誰かに、その悲しみをわかってほしかっただけなんだろう?」

湊が小瓶の蓋を開けると、暖かな香りがふわりと広がった。それは、冷たい苦艾の香りを、優しく包み込むようだった。

莉子の憑依した沙耶の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。強張っていた肩の力が、ふっと抜ける。

「……悲しい……。ただ、忘れないでほしかった……私が、生きていたことを……」

それは、復讐者の声ではなく、孤独な魂の悲痛な叫びだった。

その言葉を最後に、沙耶の身体がぐらりと傾ぎ、湊は慌てて彼女を抱きとめた。意識を取り戻した沙耶は、何が起こったのかわからず、ただ湊の腕の中で静かに泣いていた。苦艾の香りは、いつの間にか消え失せていた。

事件は、第三の失踪者が出る直前に、湊の匿名の通報によって防がれた。莉子が残した手がかりによって、男たちの監禁場所が特定され、彼らは救出された。沙耶が罰せられることはなかったが、彼女の中には、姉・莉子の悲しい記憶が、おぼろげながらも残り続けることになった。

海辺のアトリエには、穏やかな日常が戻った。だが、それは以前とは少し違う日常だった。湊は、もう自分の能力を呪っていない。彼は、沙耶から時折ふっと香る、甘く切ない追憶のアンバーの香りを、愛おしく思うようになっていた。それは、沙耶が姉の悲しみを抱きしめて生きている証だったからだ。

彼の能力は、もはや他人の罪を暴くためのものではない。愛する人の、言葉にならない痛みを分か-ち合い、その魂に寄り添うための、世界でただ一つの絆となった。湊は沙耶の隣で、香りのない言葉で語りかける。大丈夫、君は一人じゃない。僕が、その香りをずっと嗅ぎ続けるから。二人の世界は、悲しみを溶かした、深く、そして優しい香りに満たされていた。

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