虚構の心臓
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虚構の心臓

第一章 歪む視界

リクの世界は、常に嘘で満ちていた。それは比喩ではない。向かいの席に座る男が「必ず返します」と頭を下げると、その唇から粘液をまとった黒い甲虫が這い出し、テーブルの上を不気味に蠢く。リクはただ、無言でコーヒーカップを口に運んだ。カップの縁にこびりついた砂糖の甘さが、現実と幻覚の境界線を曖昧に溶かしていく。

これが彼の生まれ持った呪い、あるいは能力だった。他者の『嘘』が、その人物の視界にだけ見える幻覚として具現化する。そして、自分自身の視界にも。

「リク、大丈夫?」

隣から聞こえた声に、現実へと引き戻される。ミオが心配そうにこちらを覗き込んでいた。彼女の言葉からは、何も生まれなかった。その澄んだ声は、ただ空気の振動としてリクの鼓膜を震わせるだけだ。彼女の周りだけが、この狂った世界で唯一の聖域だった。

「ああ、大丈夫。少し考え事をしてた」

リクがそう答えると、彼の指先から細い銀色の糸が一本、するりと伸びて消えた。自分自身の嘘もまた、彼から逃れることはできない。

不意に、カフェの窓の外で奇妙な静寂が訪れた。車の走行音、人々の喧騒、風の音、その全てがぴたりと止む。次の瞬間、通りの向かいにあった書店が、音もなく液状化し始めた。本の背表紙は色とりどりの絵の具のように溶け合い、建物を支えていたコンクリートは灰色の粘土のように崩れ、アスファルトに吸い込まれていく。世界の『悪意』が飽和した時に起こる、ランダムな崩壊現象。人々は悲鳴も上げず、ただ慣れた様子でその光景から目を逸らし、足早に遠ざかっていく。

リクの視界では、崩壊する書店から無数の人の顔をした蛾が飛び立ち、空を黒く染めていた。街に蔓延する絶望という名の嘘が、具現化した姿だった。彼はミオの手を強く握った。彼女の温もりだけが、この崩壊する世界で唯一の真実だと信じていた。

第二章 錆びた時計の囁き

崩壊の跡地に、それはいつも現れる。瓦礫と化した路地裏の、常に同じ座標。どんな物質に再構成されても、瓦礫の中から必ず顔を出す、奇妙な『錆びた懐中時計』。

リクは吸い寄せられるようにそれに近づいた。今日のそれは、半ばガラス化したレンガに埋まっていた。蓋は固く閉ざされ、針は永遠に十二時を指して止まっている。彼がそれに指を触れた瞬間、脳を直接灼かれるような激痛と共に、幻覚が流れ込んできた。

―――陽光の差す部屋。泣きじゃくる少女。彼女の涙が床に落ち、小さな青い花を咲かせる―――

「うっ…!」

思わず手を引く。今の幻覚は、いつもの嘘とは質が違った。誰かの悪意から生まれたものではない。それは、まるで失われた記憶の断片のようだった。

「それに触っちゃだめ」

ミオが駆け寄り、リクの手を掴む。その顔は青ざめていた。

「ただのガラクタよ。崩壊の時にできた、意味のないモノ」

彼女はそう言った。

しかし、リクは見逃さなかった。ミオの言葉が、彼女の唇から淡い光を放つ小さな蝶に変わり、彼の目の前をひらひらと舞って消えたのを。

初めてだった。ミオの言葉が、幻覚になったのは。

それは悪意のない、あまりにも儚く美しい嘘だった。

第三章 連動する悪意

街の悪意は日に日に濃度を増していった。大規模な詐欺事件が発覚し、指導者たちの欺瞞が暴かれると、世界の崩壊はそれに呼応するように激しさを増した。高層ビル群が飴細工のように捻じれながら天に伸び、川は水銀のように重く淀み、そこに映る空は血のような赤色をしていた。

リクの見る幻覚もまた、現実を侵食し始めていた。人々の嘘から生まれた幻の怪物たちが、崩壊した瓦礫の影を闊歩し、現実の人間を襲うかのような錯覚に陥る。彼は自分の能力が崩壊を誘発しているのではないかという恐怖に苛まれた。僕が見るから、世界は壊れるのか。僕の存在こそが、この世界のバグなのではないか。

疲弊しきったリクを、ミオは献身的に支えた。

「あなたのせいじゃない。世界が勝手に壊れてるだけ」

彼女がリクを抱きしめるたび、その言葉は優しい羽となって彼を包み込んだ。

だが、その羽の一枚一枚に、リクには見えていた。微かに刻まれた、読めない文字の羅列が。それは、あまりにも複雑で、あまりにも優しい嘘の設計図のように思えた。

彼はもう一度、あの路地裏へ向かう決意をした。真実を知らなければ、ミオの優しさすら信じられなくなりそうだった。

第四章 真実の歪み

懐中時計は、今度は黒曜石の塊の中から顔を覗かせていた。リクは震える手でそれを掴む。覚悟はできていた。ミオが止める声も聞こえない。

視界が白く染まる。

今度のビジョンは、鮮明で、暖かかった。

崩壊などどこにもない、緑豊かな公園。ブランコに乗り、快活に笑う少女がいた。幼いミオだ。彼女の隣には、自分と瓜二つの少年が立っていた。少年は、ミオの背中を優しく押している。

『大丈夫だよ、ミオ』

少年の声が響く。それは、リク自身の声だった。

『もし世界が君を一人にしても、僕が君だけの『嘘』になってあげる。ずっとそばにいてあげるから』

少年がミオに何かを手渡す。それは、錆びていない、美しい銀の懐中時計だった。

全身に雷が落ちたような衝撃。リクは全てを理解した。

彼が見ていた幻覚は、『嘘』そのものではなかった。

あれは、崩壊によって失われた『真実』の姿だった。悪意に満ちた嘘によって真実が上書きされ、世界から消滅する瞬間、その断末魔の叫びが、リクの網膜に歪んだ幻覚として焼き付いていただけなのだ。

彼の能力は、嘘を暴く力ではない。失われた真実を観測する、ただそれだけの、悲しい力だった。

第五章 君という名の心臓

現実に戻ったリクの目の前に、ミオが立っていた。その瞳は悲しみに濡れていた。

「…思い、出しちゃったのね」

リクは静かに頷いた。言葉はもう必要なかった。

かつてこの世界は、たった一度の巨大な悪意――戦争か、天災か、あるいはもっと別の何か――によって、完全に崩壊した。あらゆる生命、あらゆる物質、全ての真実が失われた。

たった一人、幼いミオだけを残して。

瓦礫の山で泣きじゃくるミオの、たった一つの願い。

「お兄ちゃんに、会いたい」

その純粋で強大な想い――世界で最も優しい『嘘』――が、奇跡を起こした。世界の残骸をかき集め、失われた彼女の兄の記憶を核にして、一つの存在を再構成した。

それが、リクだった。

彼は、ミオを孤独から救うためだけに生まれた、この崩壊した世界の『虚構の心臓』。

そして、世界が今もなお崩壊を続けているのは、この世界に存在する唯一の巨大な『嘘』であるリクという異物を、世界そのものが排除しようとしているからだった。ミオの願いが、かろうじてその崩壊を押し留めているに過ぎなかった。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

泣き崩れるミオ。彼女の涙からは、もう何も生まれなかった。

リクの前で、彼女はもう嘘をつく必要がなくなったからだ。

第六章 選択の刻

世界の終わりは、静かに訪れようとしていた。空は白く褪せ、地面は足元から砂のように崩れていく。リク自身の身体もまた、指先から透き通り始めていた。世界の自浄作用が、ついにミオの願いを上回ったのだ。

「いや…! 消えないで、リク!」

ミオが彼の透けかかった身体に縋りつく。

「あなたがいなきゃ、私…!」

彼女の言葉は、リクの視界に美しい光の粒子となって降り注いだ。それは、彼が初めて見る、混じり気のない真実の輝きだった。

リクの胸を、温かい何かが満たしていく。嘘から生まれた存在だった彼が、今、確かにミオの真実を受け止めていた。

彼の足元で、あの懐中時計が最後の光を放った。ビジョンが映る。

兄がミオに時計を渡しながら、屈託なく笑う。

『大丈夫。また、必ず会えるよ』

リクは、自らの存在理由を悟った。彼は、ミオが未来へ進むための橋渡し。失われた真実と、これから生まれるであろう新しい真実を繋ぐための、一瞬の奇跡。

選択肢は二つ。

ミオの願いに応え、二人でこの歪んだままの世界が完全に消滅するまで寄り添い続けるか。

あるいは、自らという『嘘』を消し去り、世界を完全な無――新たな始まりが可能な『白紙』――に戻すか。

第七章 ほんとうの僕

リクは透き通る腕で、そっとミオを抱きしめた。

「僕は君だけの嘘じゃない。君がくれた、この世界の心臓だったんだ」

彼はミオの震える手に、光を失いかけた懐中時計を握らせる。そして、今までで一番優しい笑顔を彼女に向けた。それは、かつてビジョンで見た、彼女の本当の兄と全く同じ笑顔だった。

「ありがとう、ミオ。君のおかげで、僕は『ほんとう』になれた」

その言葉を最後に、リクの身体は無数の光の粒子となり、静かに世界へと溶けていった。悪意も、嘘も、崩壊も、全てを浄化するような、穏やかな光だった。

世界の崩壊が、ぴたりと止まる。

全てが消え、純白の静寂だけが残った。

いや、ミオの手の中には、確かな温もりが残っていた。

握りしめた懐中時計が、カチリ、と小さな音を立てた。錆びていたはずの時計は、美しい銀の輝きを取り戻し、その針が再び、ゆっくりと時を刻み始めていた。

ガラスに映っていたのは、もうリクの姿ではない。

そこに映っていたのは、涙を拭い、前を向こうとする、ミオ自身の顔だった。

始まりの音が、静かな世界に小さく、しかし確かに響き渡った。


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