忘却のアンカー
第一章 最初の重み
その重みを、アキトは確かに感じていた。
始まりは、妹のミオが八歳の誕生日を忘れた日のことだった。食卓で母が「ミオの好きなケーキを焼こうか」と微笑んだ時、彼女は小首を傾げ、「わたしの誕生日って、いつだっけ?」と無邪気に尋ねたのだ。その瞬間、アキトの左肩に、冷たい小石がひとつ、すとんと乗ったような感覚があった。物理的な痛みはない。だが、そこから消えることのない、確かな質量だった。
世界は、緩やかに溶け合おうとしていた。「家族」という単位で集うとき、互いの存在が混じり合う現象が、各地で報告され始めていた。最初は些細な記憶の混濁から始まり、やがて思考が共有され、ついには肉体の輪郭さえ曖昧になっていくのだという。人々はそれを「融合」と呼び、ある者は神の祝福だと言い、ある者は種の進化だと語った。抗う術はなく、それはまるで避けられぬ夕暮れのように、静かに世界を覆い尽くそうとしていた。
アキトの家にも、その兆候はあった。家族四人が揃うと、部屋の空気がわずかに揺らめき、誰かが淹れた紅茶の香りを、全員が同時に口の中に感じることがあった。だが、僕たちの家族はどこかおかしかった。融合するどころか、互いを「忘れて」いくのだ。そして、誰かが何かを忘れるたび、アキトの身体には忘れられた記憶の重みが、ひとつ、またひとつと蓄積されていった。
居間の棚には、古びた砂時計が置かれていた。家族が唯一、その来歴を誰も覚えていない不思議な道具。母が時折、震える指でそれに触れると、くびれた部分からサラサラと、琥珀色の砂がこぼれ落ちた。けれど、上の硝子器の砂が尽きることは決してなかった。母は砂が落ちるのを見つめ、いつも寂しそうに目を伏せるのだった。
第二章 砂時計の囁き
忘却は、静かな雨のように家族を濡らしていった。
書斎に籠もりがちになった父は、ある日アキトを見て「やあ、どちら様かな」と穏やかに尋ねた。その一言で、アキトの背中にずしりと鉄板が埋め込まれたような重圧が加わった。母は、ミオの名前を時々、かつて飼っていた猫の名と間違えた。そのたびに、アキトの足首に細い鎖が巻き付くように、重みが増していく。
「お兄ちゃん、最近歩くの、遅いね」
ミオが無邪気に言う。彼女の言葉は正しい。右足が、まるで床に根を生やし始めたかのように、一歩踏み出すごとに鉛のような抵抗を感じるようになっていた。身体が、忘れられた記憶の堆積物によって、少しずつ大地に縫い付けられていく。
ある夜、アキトは誰もいない居間で、棚の上の砂時計にそっと手を伸ばした。ひんやりとした硝子の感触。指が触れた瞬間、琥珀色の砂が流れ落ちた。彼は息を呑んだ。こぼれ落ちる砂粒が、一瞬だけ、形を結んだのだ。それは、幼いミオがアキトの背で笑う姿であり、父が書斎で万年筆を走らせる横顔であり、母が歌うように花に水をやる仕草だった。
消えたのではない。忘れられた記憶は、この砂時計に吸い寄せられ、残滓となってこぼれ落ちているのだ。アキトは直感した。僕の身体に蓄積される重みも、この砂時計も、すべては家族の忘却と繋がっている。
第三章 融合の兆し
世界の融合は、着実に進行していた。テレビのニュースは、街角で寄り添い、輪郭を溶かし合う家族の姿を映し出していた。彼らは「集合体」と呼ばれ、個々の喜びや悲しみを失い、ただひとつの大きな幸福感に満たされて存在しているという。表情は一様に穏やかで、その瞳には何の葛藤も映っていなかった。多くの人々が、それを魂の救済だと信じ始めていた。
アキトの家では、夕食の風景が異様だった。父と母とミオ。三人の視線は宙を彷徨い、会話は途切れがちだ。しかし、彼らの思考がアキトの中に流れ込んでくることがあった。父の過去への諦念。ミオの漠然とした不安。母の、何かを必死に守ろうとする祈り。それらが混じり合い、不協和音を奏でる。アキトだけが、その不協和音の中で、かろうじて「自分」を保っていた。身体に刻まれた記憶の重みが、まるで錨(アンカー)のように、彼を個として繋ぎ止めているのかもしれなかった。
ある晩、母がミオを優しく抱きしめた。
「大丈夫よ、大丈夫……」
その瞬間を、アキトは見てしまった。母の腕とミオの背中、その境界線が陽炎のように僅かに滲み、溶け合ったのだ。ほんの一瞬の出来事だったが、それは紛れもなく、この家にも訪れつつある融合の、決定的な兆しだった。忘却の果てに待つのは、無ではなく、個の消滅を伴う一体化なのだ。
第四章 忘れられた約束
転機は、唐突に訪れた。
庭に咲く紫陽花を見ていたミオが、ふとアキトを振り返り、澄み切った瞳で尋ねた。
「あなたは、だれ?」
その言葉は、引き金だった。アキトの全身を、これまで感じたことのない、山が崩れ落ちてくるかのような凄まじい圧力が襲った。息が詰まり、視界が歪む。ぐらりと身体が傾ぎ、彼は床に手をついた。そして悟った。もう、立てない。両足の感覚が完全に消え、まるで床と地続きの彫像になったかのように、びくとも動かなくなっていた。
絶望がアキトの心を塗り潰す。その時、母が駆け寄り、震える手で砂時計を彼の手の中に押し込んだ。
「アキト……ごめんね……!」
母の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女の唇が、途切れ途切れに真実を紡ぎ始めた。
「本当はね、この砂時計は……私たち一族が、融合から逃れるための……古くからの『儀式』の道具なの」
彼らの一族は、世界の誰よりも早く融合してしまう特異な血筋だったのだという。それを避けるため、代々、家族の中から一人を「器」として選び、他の家族の記憶をその者に集めることで、個を保ってきたのだ。
「あなたが、私たちの記憶の錨(アンカー)なのよ、アキト」
しかし、その儀式が、世界の理を歪めてしまったのかもしれない、と母は言った。家族の忘却が、世界の融合を不自然に加速させてしまったのではないか、と。母の告白は、アキトの重みに、さらなる意味という名の重みを加えた。
第五章 最後の忘却
すべてを失う時は、凪のように穏やかだった。
父は、もうアキトを認識していなかった。ただ窓の外を眺め、時折、誰に言うでもなく「ありがとう」と呟いた。ミオは、動かなくなったアキトの周りを不思議そうに歩き回り、やがて飽きたように母の膝で眠ってしまった。そして母もまた、アキトの名前を呼ぶことができなくなった。彼女はただ、アキトの石のように冷たくなった手に自分の手を重ね、慈しむように何度も撫でるだけだった。
彼らの意識の灯火が、ゆっくりと消えていくのが分かった。個としての輪郭が薄れ、大きな流れに溶け込もうとしている。アキトは動けない体で、ただそれを見つめていた。やがて三人は、まるで引力に導かれるように、アキトの周りに集まり、そっと寄り添った。彼らの身体が淡い光を放ち始める。融合が、始まろうとしていた。
アキトは胸に抱いた砂時計を強く握りしめた。覚悟を決める。恐れることはない。これは罰ではない。僕が引き受けるべき、家族の愛の総量なのだ。
「さあ、おいで」
声にはならなかったが、彼の魂が叫んだ。
その瞬間、父の記憶、母の記憶、そしてミオの記憶が、温かい奔流となってアキトの内側へと流れ込んできた。それは痛みではなく、何千もの誕生日、何万もの食卓、数え切れないほどの「ただいま」と「おかえり」が詰まった、愛おしい記憶の洪水だった。
第六章 記憶の図書館
アキトの肉体は、完全にその場に固定された。まるで永い年月を生きた古木のように、家の床と一体化し、静かな彫像と化した。彼が最後の重み──家族全員の愛と忘却──を受け入れた、まさにその瞬間だった。
世界が、震えた。
世界中で融合し、ひとつの大きな意識の海となっていた「集合体」たちが、一斉に揺らめいた。その穏やかな水面に、無数のさざ波が立った。融合によって個を失っていたはずの人々の意識の奥底で、何かが瞬いたのだ。一瞬だけ、彼らは「私」を取り戻した。
そして、彼らの脳裏に、温かい光景が流れ込んできた。それは、アキトという「記憶の図書館」から流れ出した、忘れられた絆の断片だった。誰かが自分のために焼いてくれた不格好なクッキーの味。幼い日に繋いでくれた、ごわごわした大きな手の感触。自分を叱ってくれた、涙まじりの優しい声。
「父さん……」
「サキ……」
「おばあちゃん、会いたいよ……」
世界のあちこちで、融合した意識の海の中から、失われたはずの愛する者の名前を呼ぶ、囁きのような声が響き渡った。それは世界の理を覆す奇跡ではなかった。ただ、忘れ去られた絆の存在を、ほんの少しだけ思い出させたに過ぎない。
アキトはもう動けない。言葉を紡ぐこともない。しかし、彼の内側では、父が、母が、ミオが、そして世界中の人々が忘れてしまった無数の家族の愛の記憶が、静かな図書館の書物のように、永遠に保管されていた。
彼は世界の忘却を引き受けた、孤独で、そして誰よりも豊かな、永遠の観測者となったのだ。石化した彼の手の中で、役目を終えたはずの砂時計が、星屑のような光を放ち、静かに瞬き続けていた。