砕けた世界の残響
第一章 触れるべからざる音
俺、響(ひびき)の指先は、嘘発見器よりも雄弁に世界の嘆きを拾い上げる。他人が遺した最も深い後悔を、モノに触れることで感じ取る。それは微かな振動だ。肌を這う静電気のような、あるいは骨の芯に染み入るような鈍い疼き。その震えが強ければ強いほど、後悔は新しく、そして根深い。
この街は、後悔の残響で満ちていた。手すりに残る恋人への嫉妬。ベンチに染み込んだ家族への懺悔。捨てられた傘が叫ぶ、言えなかった「ごめんなさい」。人々が胸に抱く「運命の石」が、その後悔のたびに少しずつ罅割れていくのを、俺は振動として感じていた。石が完全に砕け散れば、その持ち主もまた、この世界から跡形もなく消え去る。それが、この世界の絶対的な法則だった。
だから俺は、できるだけ何にも触れずに生きてきた。手袋は第二の皮膚となり、人混みは毒の沼のように避ける。他人の痛みに共感しすぎるこの体質は、孤独と引き換えに得た、ささやかな平穏だった。
そんなある日、埃と時間の匂いが混じり合う骨董屋の隅で、俺は一本の古びた音叉を見つけた。銀色にくすんだそれは、まるで誰にも触れられることを拒むかのように、静かに佇んでいた。店主の老人は、皺深い目元を細めながら言った。
「そいつは『共鳴音叉』。人の石が発する悔恨の念と共鳴して、その記憶を音として奏でるのさ。まあ、ただの迷信だがね」
俺はなけなしの金を払い、その冷たい金属の塊をポケットに滑り込ませた。それが、世界そのものの慟哭を聴くための鍵になるとも知らずに。
第二章 廃墟の慟哭
それは、街全体が鳴動するような、途方もない振動だった。
地鳴りにも似た、しかし誰にも聞こえない絶叫。俺の全身の皮膚が粟立ち、骨が軋む。発生源は、都市開発から取り残された湾岸地区の廃墟。かつては人々の夢と希望を乗せたであろう巨大なドーム状の施設だった。
誘われるように錆びた鉄の扉を押し開けると、カビと潮の香りが鼻をついた。月明かりが割れた天窓から差し込み、巨大な伽藍のような空間を青白く照らし出している。その中央に、それはあった。
誰もいない。
人の気配など、どこにもない。
それなのに、空間の真ん中には、砕け散る寸前の「運命の石」が、まるで祭壇に捧げられたかのように鎮座していた。小児の頭ほどもある巨大な乳白色の塊。無数の亀裂が走り、今にも崩れ落ちそうなその表面から、俺がこれまで感じたどんな後悔よりも強烈な、絶望の振動が嵐のように吹き荒れていた。
誰の石だ?
これほどの後悔を抱えながら、なぜ持ち主の姿がない?
恐る恐る、手袋を外した指先で、その石に触れた。
瞬間、奔流が俺を呑み込んだ。憎悪、絶望、悲嘆、無力感。それは一個人の後悔ではなかった。飢えに苦しむ子の叫び、戦場で友を手にかけた兵士の嗚咽、愛する者を裏切った者の慟哭、守れなかった約束への呪詛。数千、数万、数億という人間の、歴史という地層に積み重なった後悔の集合体が、濁流となって俺の精神を蹂躙した。
俺は悲鳴を上げて飛び退き、床に蹲った。心臓が張り裂けそうだった。あれは、人間の手に負える代物ではない。
第三章 共鳴する幻聴
数日後、俺は再びあの廃墟に立っていた。あの石から目が離せなかった。ポケットの中の『共鳴音叉』が、まるでここへ来いとでも言うように、微かな熱を帯びていたからだ。
巨大な石は、以前よりも亀裂を深くし、内側から漏れる光が明滅していた。まるで、風前の灯火だ。
俺は覚悟を決め、音叉を取り出した。銀のそれを、そっと石にかざす。
すると、どうだ。
今まで沈黙を守っていた音叉が、まるで生き物のように震え始めた。そして、俺の耳にだけ聞こえる、奇妙な音が鳴り響いたのだ。
キィン、という澄んだ音ではない。それは無数の声が重なり合った、不協和音のコーラスだった。赤子の産声、老人の呻き、若者の怒声、女の泣き声。それらが混じり合い、ひとつの巨大な嘆きとなって空間を満たした。
『なぜ、また繰り返す』
『もう、疲れた』
『終わらせて、この苦しみを』
断片的な言葉が、幻聴となって脳内に直接響き渡る。その時、ふと街で囁かれる不気味な噂が脳裏をよぎった。「存在しないはずの集団自殺」。特定の場所で、何の前触れもなく、数十人の人間が同時に消滅する事件。どの現場でも、生存者は決まって口にしたという。
「奇妙な、音が聞こえた」と。
第四章 砕音のトリガー
あの幻聴こそが、集団自殺の現場で鳴り響いていた『音』の正体ではないか?
俺は音叉を手に、噂のあった場所を巡った。公園の噴水、古い映画館の跡地、高架下の路地。どこにも、あの廃墟の石ほど強い振動はなかったが、確かに共通する微かな残響が、地面や壁に染み付いていた。それは、巨大な後悔の残り香だった。
骨董屋の主人の言葉が甦る。「人の石が発する悔恨の念と共鳴する」。だが、それだけではなかったはずだ。音叉には、もうひとつの側面がある。特定の周波数で振動を増幅させ、共鳴現象によって石そのものを破壊する力。使い方を誤れば、それは凶器にもなりうる。
俺は再び廃墟に戻った。全てを確かめるために。
巨大な石の前で、音叉を握りしめる。石から発せられる絶望の振動は、一定のリズムと周波数を持っていることに気づいた。それは、まるで自らの崩壊を望むかのような、自己破壊へと向かう悲痛な旋律だった。
この『音』が、感受性の強い人々の「運命の石」と共鳴し、連鎖的な崩壊を引き起こしていたのだ。集団自殺の正体は、この巨大な石が発する断末魔に巻き込まれた、痛ましい事故だった。
誰かが意図的に鳴らしたのではない。
この石自身が、その身を砕こうと泣き叫んでいたのだ。
第五章 世界という名の持ち主
俺は、この世界を救わねばならないと思った。いや、これ以上、誰かがこの悲しみに巻き込まれるのを止めなければならない。俺は音叉を構え、石が奏でる自己破壊の周波数とは逆位相の音を、意識を集中させて生み出そうとした。その旋律を打ち消し、鎮めるために。
音叉が澄んだ音を立て始めた、その瞬間だった。
石の内部から、声ではない、純粋な思念が直接俺の意識に流れ込んできた。それは、先ほどの幻聴とは比べ物にならないほど、明瞭で、そして古く、深遠な意識だった。
《やめなさい、人の子よ。それは、私の望み》
脳内に響く声に、俺は動きを止めた。誰だ、お前は。この石の持ち主なのか。
《持ち主、という概念は少し違う。私は、始まりの石。この星に最初の命が芽生え、最初の後悔が生まれた時から、ここに在る。お前たちが『世界』と呼ぶもの、そのものの魂だ》
全身の血が凍りついた。目の前にある砕け散る寸前の石は、一個人のものではない。この世界そのものの「運命の石」だったのだ。
人類が誕生してから今日まで、この星で生まれた全ての戦争、憎悪、裏切り、悲嘆――その計り知れない量と重さの後悔を、この石はたった一つで吸収し続けてきた。
《もう、限界なのだ。お前たちは過ちを犯し、後悔し、そして忘れる。だが、私は忘れられない。全ての痛みを記憶し続けてきた。この無限の苦しみの連鎖を断ち切るには、私自身が砕け散り、全てを無に帰すしかない》
世界の魂は、自らの意志で、世界をリセットしようとしていた。
第六章 ひとつの後悔を、世界へ
世界の石の亀裂が、みしり、と音を立てて広がった。途端に、廃墟の壁がノイズのように歪み、月明かりが明滅を始める。世界の輪郭が、端からゆっくりと消滅していく。これが、世界の終わり。
絶望に満ちた世界の魂に、俺は語りかけた。声に出したのか、心で念じたのかも分からなかった。
「あんたの気持ちは、少しだけ分かる気がする」
俺は、この能力のせいでずっと孤独だった。人の痛みに触れ続けることに疲れ果て、世界なんてなくなればいいとさえ思ったことがある。
「でも、俺が感じてきた後悔は、絶望だけじゃなかった。そこにはいつも、『こうすればよかった』っていう、未来への願いが混じってたんだ。生きたいっていう、願いの裏返しが」
俺は自分の胸元に手を当て、服の下から己の「運命の石」を取り出した。白く濁り、細かい亀裂の入った、平凡な石。それは、他人を理解しようとせず、孤独を選び続けてきた俺自身の、静かで、しかし深い後悔の結晶だった。
「俺の後悔も、聞いてくれ」
俺は、自分の石を、巨大な世界の石にそっと重ねた。
膨大な人類の罪科とは比べ物にならない、ちっぽけで、個人的な後悔。人を遠ざけたこと。優しくなれなかったこと。たった一人の人間の、ささやかで、切実な痛み。
俺の後悔が、光の粒子となって、世界の石にすうっと溶け込んでいった。
第七章 残響の果てに
ぴたり、と世界の崩壊が止まった。
世界の石の明滅が収まり、その表面を走っていた無数の亀裂から、穏やかな光が漏れ出す。俺のちっぽけな後悔を受け取った世界の魂は、ほんの少しだけ、その苦しみが和らいだかのように、静けさを取り戻していた。
だが、これは猶予に過ぎない。根本的な解決ではない。人類が後悔を生み出し続ける限り、いつかまた、世界の魂は限界を迎えるだろう。
俺の目の前には、二つの道が横たわっている。
一つは、このまま世界の魂に寄り添い、俺自身の後悔を分かち合いながら、いずれ来る破滅を先延ばしにし続ける道。
もう一つは、この共鳴音叉の力を使い、世界の魂を全ての苦しみから解放してやること。すなわち、この手で、世界に終わりをもたらすという選択。
俺は、静かになった世界の石を、両手でそっと撫でた。その表面には、俺の後悔が溶け込んだ部分だけが、小さな星のように淡く輝いていた。
廃墟の天窓から見上げた空には、もうノイズはない。ただ、どこまでも深い夜が広がっているだけだ。
まだ、答えは出せない。
だが、俺はもう孤独ではなかった。世界そのものの嘆きと対話する、たった一人の人間として。俺は、砕けかけた世界の残響の中で、静かに夜明けを待っていた。